一話 半引退した日
【互助会】に半引退届を受理してもらい、ギデアは日頃使っている宿屋に向かった。
場所自体は迷宮の出入口に近いものの、階段を百近く上った先の高い位置で開業している。
この宿屋は迷宮街では珍しいことに、一人用の客室しか備えていない。そのため、新規で大勢の客を獲得するのではなく、固定客を長く繋ぎ止める経営戦略を行っている。そんな固定客を招き入れるならば、新規客の目に入りにくい高層階の場所こそが、一人用宿屋に相応しい場所といえる。
宿屋の利用客は、挑戦者仲間の紅一点が大半で、ギデアのような単独行の者は少ししかいない。もっとも、単独行をやっている挑戦者自体の数が少ないため、単独行の客数が少ないことは当然ではあるのだが。
ともあれ、ギデアは宿屋のある場所まで階を上がると、暖簾が掛かっている入口を潜った。暖簾には【燕の巣】の文字と、巣に入った子供に餌を与える燕の絵があった。
ギデアが宿の中に入ると、直ぐに店員が声をかけてきた。
「おかえりなさい、ギデアさん。今日も一泊のお泊りですか?」
「何時もの通り、一晩宿を貸してもらいたい」
ギデアが銀貨を一枚差し出すと、店員は苦笑いしながら受け取った。
「ほんと、ギデアさんぐらいですよ。この宿を一日だけずつ利用する人は。他の人たちは、長期契約ばっかりですよ。長期契約なら、お部屋に自分の荷物をおいておけて便利ですよ」
「何時も言っているが、必要ない。持ち物は常に少なくしたがる性質なんでな――」
ギデアは断りの言葉を口にしながら、途中で言葉を止めた。そしておもむろに金貨を取り出すと、店員に差し出す。
店員は、長年の付き合いのギデアの初めての行動に、どういう意味かを図りかねていた。
「えーっと、ギデアさん。このお金は?」
「長期契約をしようと思い立った。しばらく迷宮に入る予定はないのだから、この宿の部屋を拠点にしてもいいだろうとな」
「えっ、本当にですか! 一日宿をとった翌日は必ず迷宮に行っていたギデアさんが、お休みするんですか?」
「ああ。半引退届を出してきたからな」
「引退!? いや、半引退ですか。確か半引退になると、位階が一段下に据え置きになる代わりに、討伐割当がなくなるんでしたっけ」
「ああ。これからは迷宮を下に向かうことを目的とするのではなく、雑魚を狩って【魔晶石】を集めて【互助会】に売る生活になるだろう」
「ということは、これからは気ままな挑戦者稼業ってわけですね。いいなー、あこがれちゃうなー」
店員は言葉の割には羨んでいない口調を放つと、続いてギデアに鍵を手渡した。
「はい、何時もの部屋の鍵です。金貨と銀貨を一枚ずつ払ってくれたので、十五日連続で泊まれますよ」
「銀貨一枚で一泊なら、計算が合わないのでは?」
「連泊代金をまとめ払いしてくれると、その金額の大きさ分だけ割引が入るんですよ。創業時からある当宿の売りの一つなんですよ、コレ。知りませんでした?」
「ああ、初めて聞く。基本、一泊しかしてこなかったからな。知る機会がなかったんだろう」
ギデアは通いなれているはずの宿に知らない仕組みがあったことに、少しの驚きを感じていた。
その気持ちを顔には出さないまま、ギデアは割り当てられた部屋へと向かって宿の廊下を進みだした。
ギデアは宿の部屋に入ると、体から外套を取り払った。そして無造作に床に落とす。続いて革鎧を体から外すと、部屋に備え付けられてる鎧掛け(トルソー)に纏わせる。その後で、床に落としていた外套を拾い上げ、鎧掛けにある革鎧の上に重ねた。
軽く衣服の埃を払った後、不思議な鞄から水筒と手拭いを取り出す。手拭いを水筒の水で湿らせ、その手拭いで髪や顔、服をめくって体を拭いていく。
小ざっぱりしたところで、腰に巻いた革帯を外し、部屋の半分を占領しているベッドに腰かける。
今までの通りに革帯にくっ付いた鞘から剣を抜き、その整備をしようとして、その必要がないことを思い出す。
「入れ替えたのだったな」
ギデアの手にある剣は、迷宮の三十一層で倒した魔物から得た、これまでの挑戦者が手にしたことのない片手剣。出すところに出せば、宝剣だと認定されるに足る逸品。
ギデアが判別を試した限りでは、火風土水の四属性を持っている――所謂、全属性武器である。しかしギデアが使用した感覚では、それ以上の機能が存在する雰囲気があった。
「何度か使用したが、刃こぼれどころか、くすみ一つない。不思議だ」
光の加減で七色に光る剣身は、見惚れるほどの鏡面仕上げ。ギデアの顔がくっきりと映っている。
この尋常ならざる剣を手に入れたことで、ギデアは迷宮に興味を失った。この剣以上に、自分に相応しい剣はないと確信したから。
「この剣が全ての属性を持つのならば、使い手である俺が最強になれば、すなわち天下無双になれるわけだが……」
いままではどうしても、武器の属性の有利不利が、戦闘の技量を上回る事態が多かった。
例えば、【紅玉動像】。単純な戦闘技量はギデアが圧倒的に上だったが、もし【紅玉動像】の持つ耐性と同じ属性の武器しかなかったら、ギデアは【紅玉動像】に勝つことはできなかったに違いない。
そんな属性の有利不利だけで、戦闘の結果が決まってしまうことに、ギデアは不愉快さを感じていた。
鍛え上げた肉体や技量など、属性の前では無意味だと、迷宮から騙りかけられているような気がしてだ。
しかしギデアも挑戦者。属性の有利不利が迷宮の仕組みであるのなら、それに従って戦わざるを得なかった。下手に属性を毛嫌いしたところで、自分の命を危うくするだけでしかないのだから。
そんな属性耐性と属性武器に対する不満が、ギデアが迷宮へ挑む心の糧になっていた。
そこに、全速性武器という宝剣の登場だ。
この一本さえあれば、相手がどんな属性耐性を持とうと関係がなくなる。あとは使い手の技量さえあれば、理論上はどんな魔物でも勝てるようになれる。
しかしながら、これではまるでギデアの憤っていた部分を、迷宮が雑に解決してみせたかのようだ。
恐らくは偶然にしか過ぎないのだろうが、宝剣の登場はギデアの迷宮行へのやる気を削ぐに十二分の出来事となった。
「意地を通すのなら使わない方がよいのだろうが、これほどの剣を使わないというのも剣士の端くれとしては見過ごせない」
宝剣を使うべきか、使わざるべきか。
こんな悩みを抱えて戦闘を行っては、不意の事態に遭遇する可能性が高くなる。
だからこそギデアは、挑戦者を半引退してでも、自分の気持ちを見つめ直す時間が必要だった。
「気持ちを固めるには、俺に見えていないものを見る必要がある。それこそ、この宿に割引の仕組みがあることを、今日この日まで知らなかったのだ。知らずに見逃していたことは、山のようにあるはず」
ギデアは剣を鞘に納めると、部屋の内鍵を閉めてから、ベッドに横になる。
迷宮行では決して得られないベッドの柔らかさに体重を預けると、直ぐに睡魔がやってきた。
ギデアは眠気に逆らうことはせず、すっと眠りへと落ちていった。