プロローグ1
迷宮挑戦者のギデアは、他の多くの挑戦者とは違い、単独行で迷宮へ挑む男性だ。
年齢は、あと数か月で三十歳。しかしその相貌は、迷宮を単独行するという苦行で培われた、年齢以上に渋みが走ったもの。困難を睨みつけるような鋭い目に、脂肪が削ぎ落ちた頬、意思の強さを表すような形がはっきりとした唇を持っている。
そんな一流の挑戦者を思わせる風貌とは裏腹に、ギデアの装備の見た目はみすぼらしい。挑戦者の装備の種類としては有り触れている、片手剣と盾。体を覆っている外套は、厚手ながらも安物を表すくすんだ黒色で、しかも見るからにボロボロだった。割けた布地の間から見える革鎧は立派なように見えるため、まるで革鎧を隠すためにボロボロの外套を被っているようにすら見えてしまう。
果たしてギデアは、相貌通りの立派な挑戦者なのか、それとも装備の見た目の通りに大した挑戦者じゃないのか。
どちらの判断が正しいかは、いまギデアが【人類最高到達点】である、迷宮三十層の最奥を歩いていることで、どちらかを示さなくてもわかろうというものだろう。
ギデアは足元に転がる【魔晶石】と【顕落物】である石材に視線を向け、拾うことなく先へと進んでいく。
三十層の魔物を討伐して出てきた【魔晶石】と【顕落物】であれば、どんなものであれ挑戦者なら目の色を変えて拾うべきもの。なにせ三十層に来れるような挑戦者は数が少ないため、必然的に世に流れる数に限りがあり、その事実は買い取り価格に大いに反映される。少しでも金を稼ぎたいと考えるのなら、拾わないはずがないものだ。
しかしギデアは、それらを取るに足りないものだと言いたげに無視し、三十層の最奥へと足を踏み入れた。
この巨大迷宮では十層毎に、先へ行く人の足を止めるために作られたかのような強力な魔物――【層番人】が配置されている。そして、その魔物を倒さない限り、次の階層へと進めない構造になっている。
そして、この三十層の【層番人】こそ、人々の挑戦を跳ね除け続けてきた、恐るべき魔物。
人の三倍以上の体躯を誇る、透き通った赤色の石材で体が出来ている人型の魔物。
その見た目から【紅玉動像】と、人々から呼ばれるようになった存在だ。
【紅玉動像】は、護る部屋の中にギデアが入ったのを見た瞬間に、動き出して近づいてきた。ズシズシと重たい足音を響かせるが、頭部から雄叫びを放つことはない。そも【石動像】系統の魔物には発声器官は備わっていないので、当然ではあるが。
ギデアは接近してくる【紅玉動像】を相手にも怯んだ様子はなく、外套の内に入れていた左手を出す。その手には、四色に色が分かれた小さな投げナイフが握られていた。
「では、小手調べだ」
ギデアは小さく呟くと、投げナイフを全て【紅玉動像】へと投げつけた。
相手は石材の魔物で、ナイフは小さい。当然のように、大半のナイフが弾き飛ばされ、空中をくるくると回って飛び去っていく。
しかしギデアの目には見えていた。投げつけたナイフのうち、一つだけが【紅玉動像】の表面に確りと傷を作っていたことを。
「【火】【水】【風】に耐性有り。【土】の属性だけが弱点か。【石動像】とは真逆の耐性とは、意表を突いてくる」
【紅玉動像】のことを【石動像】と同じ魔物だと思い込んで戦えば、全ての攻撃が通じずに負けてしまうことだろう。
迷宮挑戦者にとって、敵である魔物の耐性を真っ先に調べることは定石中の定石。とはいえ、【石動像】と見た目が似た魔物の耐性を改めて調べようと考える人物がどれだけいるだろうか。それも【石動像】を散々に打ち倒して到達した、三十層の奥底での戦いでだ。
だからこそ【紅玉動像】は、似た魔物だから耐性も似ているだろうという思い込みを突いてくる、厭らしい魔物であるといえた。
更に厭らしい点が、もう一つ。
「移動速度が【石動像】の三割増し。足音の大きさから体重は二割増し。であれば、膂力は五割増し以上か」
ギデアが見抜いた通り、単純に【石動像】よりも単純に全てが強いのだ。
だから【石動像】と相対する気持ちでいると、一撃で盾役が倒されてしまう恐れがある。
事実、今まで挑戦者が【紅玉動像】を倒せていないことを考えると、真っ先に盾役が粉砕されてしまい、それ以降戦うことが出来なくなったのだろう。
その過去の出来事を証明するように、【紅玉動像】はギデアに接近すると右腕を振り下ろした。【石動像】の三割増しのスピードで放たれた、二割増しに重い腕が、ギデアのいた場所に突き刺さった。迷宮の石の床材を粉砕し、大きなへこみが出現する。この一撃の威力は、明らかに【石動像】の攻撃の五割どころか倍以上の威力を持っていた。
そんな強力無比な一撃に狙われたギデアはというと、少し離れた場所へと即座に移動していた。
「驚異的だな。しかし、こちらを捉えるには、まだ遅い」
ギデアは左手の剣を鞘に納めると、後ろ腰にある小鞄の中へと空の手を差し入れる。一秒ほど、鞄の中をまさぐるように動かし、手を引き抜く。するとその手の中には、小さな鞄の中に入るはずのない長さの片手剣が出てきた。
この小鞄は、一流の挑戦者なら誰もが持っている、実際の容量が見た目の何倍もあるという、迷宮でしか手に入れることのできない、不思議な鞄。そんな鞄の中から取り出した片手剣の剣身は、黒曜石を思わせる艶めきながらも深い黒色をしていて、普通の剣ではないことが見た目からわかる。
「移動速度と膂力を確かめ、弱点である【土】属性の武器を用いる。これで負ける要素はなくなった」
ギデアは現状を言葉に出すことで認識を正確にしてから、【紅玉動像】と向かい合う。【紅玉動像】が向きを変えて一歩近づいて、それに合わせてギデアは前へと飛び出した。
ギデアの駆ける速さは、誰もが目を見張るほど。あっという間にニ十歩分の距離を縮め、【紅玉動像】の足元に辿り着いていた。
「ふっ!」
ギデアは短く呼気を吐く音と共に、黒色の片手剣を振る。【紅玉動像】の膝を横に撫でる斬り方だ。黒い剣での一撃は、弱点属性の武器だからか、それとも剣自体の切れ味がいいのか、【紅玉動像】の膝横に深々とした切り傷を産む。
しかし【紅玉動像】は、縦横合わせて人の四倍はあろうかという巨体だ。剣の一撃程度の傷は、かすり傷と同じようなもの。
大した痛手ではないことを報せるように、【紅玉動像】は身近にいるギデアに拳を振り下ろす。拳が地面に突き刺さり、重々しい音が起こる。しかしギデアには当たっていない。
ギデアは拳の攻撃を紙一重で避けると、反撃に【紅玉動像】の肘へと剣を振るい、新たな傷を刻んだ。
その後で、少しだけ【紅玉動像】から距離を取った。
逃げたのではない。攻撃をするために必要な助走分の距離を稼いだのだ。
「攻撃は見える。傷も与えられる。倒せない理由がない」
ギデアは意識を攻撃に偏重させる。視界がぐっと狭まった感覚が起こり、【紅玉動像】の一挙手一投足がゆっくりに見えてくる。
その状態のまま、ギデアは駆け出す。先ほどよりも速度が一段階上がっている。それこそ【紅玉動像】の咄嗟の判断が追いつかないほどだった。
【紅玉動像】が対応にまごついている間に、横を駆け抜けたギデアの斬撃によって、新たな傷が作られていた。
ギデアを補足しようと、【紅玉動像】がその場で旋回する。その間に、再び近くを駆け抜けたギデアの剣で傷が作られる。
その後も、時間経過とともに同じ状況が繰り返され、【紅玉動像】の体に次々に傷ができていく。
そう、この執拗なまでに一撃離脱を繰り返す戦い方こそが、ギデアの戦い方であり、他の挑戦者のように仲間と組んで戦わない理由だった。
縦横無尽に戦場をかけるギデアにとって、仲間の存在は戦場にある障害物と同じこと。むしろ障害物に剣や槍などの刃が生えている時点で、普通の障害物より厄介だとも言えた。
加えて、ギデアは仲間が必要だと思ったこともない。
その証拠に、過去全ての挑戦者が敵わなかった【紅玉動像】を相手に、危なげなく戦えている。
度重なる一撃離脱により、とうとう【紅玉動像】の片腕が落ちた。これで【紅玉動像】の攻撃力は半減だ。
これからもっと戦いが楽になる予感が走る最中、【紅玉動像】が不思議な行動を起こす。残った片腕で胸元を叩きだしたのだ。
『ドンドンドンドンドン!』
巨石と巨石がぶつかり合うような、重々しい音が響いた。
すると、この空間にある壁面が動き出し、出入口が生まれた。そこから【石動像】が三体出てきた。
「状況が不利になると援軍を呼ぶわけか。しかも自身とは耐性が真反対の【石動像】を。なるほど、過去の挑戦者が勝てないはずだ」
【紅玉動像】に有利な装備は、【石動像】には通じない。逆もまた同じ。
必然的に、どちらかに注力して素早く倒そうと動きつつも、もう片方の動きにも注意を払わないといけなくなる。
こういった状況の変化の強制は、仲間との連携に齟齬を容易に作る。そして多くの挑戦者の強みは、仲間との連携だ。その強みを殺されてしまえば、挑戦者たちは負けるしかない。だからこそ、長年誰も【紅玉動像】を突破できなかったのだろう。
しかしギデアにとって、この状況の変化は、大したことじゃなかった。
連携べき仲間はなく、一対多の戦闘経験も豊富で、対する魔物の倒し方も分かっている。負ける要素が一つもない。
「また援軍を呼ばれても困る。【紅玉動像】を先に倒す」
ギデアは言葉に出して意思を固めると、戦闘を再開した。
そして多少時間はかかったものの、宣言通りに【紅玉動像】を真っ先に倒し、続いて装備を持ち替えて【石動像】をも倒しきった。
戦場に残ったのは、ギデアの他には、【紅玉動像】が消えた跡に残った一抱えもある紅玉と、人の頭ほどの【魔晶石】。【石動像】の跡には石材、石盾、大理石に、片手では余るほどの【魔晶石】が三つ。
ギデアは【石動像】の方には目もくれず、【紅玉動像】の紅玉と【魔晶石】を後ろ腰の不思議な鞄の中へと収めた。
「ふーーーーっ」
ギデアは戦いで籠った熱を呼気と共に吐きだし、高ぶった精神を落ち着かせた。
その後で顔を、この場所の端へと向ける。
そこには、二つの光る円が出来ていた。片方は白色で、もう片方は赤色。白色に入れば一階層に戻り、赤色に入れば前人未到の三十一階層に入れる。
ギデアは迷いなく三十一階層に行く赤い円入った。
誰も踏み入れたことのない三十一階層は、先ほどまで居た場所とはうって変わり、見渡す限りの広い平原になっていた。そして平原の各所には魔物らしき影が見えている。異や平原だけではない、実物の空と見間違うほどの上空にも魔物の陰がある。
その影たちはどれも、人間のように見えるが、人間とは違った部分もあるものばかり。
例えば、下半身が馬の体になっていたり、背中から羽が生えていたり、肌が鱗になっていたりだ。
ギデアはまだ誰も知らない魔物の姿を見つめ、それらの魔物と戦うべく、前へと歩いていった。