3日目
「おかえり、梨璃ちゃん! おやつあるよ」
「あの……なんでいるんですか?」
私はとうとう、家の中に侵入することに成功した。今朝、ゴミ捨ての時に梨璃は鍵をかけずに家を出た。その際に私は侵入し、無事梨璃が学校に行っている間、おやつと夕飯の用意をすることに成功したのだ。
「いや怖いんですけど! 不法侵入ですよ!」
玄関先で、顔を歪めて梨璃は言う。
世界が終わるというのに、今日も通学とはご苦労なことだ。
「でも私たちもう知らない仲じゃないじゃん? 私も毎日電車に乗ってくるより、ここに滞在させてもらった方がいいと思うんだよね」
「百パーセントあなたの都合じゃないですか!」
「だからご飯作ってあげるよ。あ、お風呂も掃除しといた。だめだよ、水回りはちゃんと掃除しないと」
風呂場は結構な汚さだった。自覚があるのか、梨璃は押し黙る。
「知ってる? 人間一人いると意外と便利だよ」
梨璃はあまり家事が得意でない、というのは玄関先に舞う綿埃を見てすぐにわかった。昨日、ご飯に釣られたことからしてもそうだ。台所のゴミを見る限り、カップラーメンやコンビニ弁当でしのいでいるらしい。
「ギブアンドテイク。ウィンウィン。でしょ?」
私は交互に自分と彼女とを指し示して見せる。幸い家の中にはある程度の食料もあった。梨璃が自炊するつもりだったのか、両親が残していったのか。どちらにせよ食材は痛み始めていて、しばらく放置していたものと知れた。
「もったいないから野菜、使っちゃったよ。今日の夕飯は野菜炒めね。あ、豚肉も入れたから」
「……私の部屋には、絶対入らないでくださいね」
「何それ、お誘い?」
「どうしてそうなるんですか!」
「それよりおやつ、食べようよ」
パウンドケーキなんて作るのは久しぶりだった。さっきから家の中には甘い匂いが充満している。
お菓子作りは、食べることもそうだけれど、この匂いがいい。世界が終わるときでもお菓子は甘いし、甘い物は幸せだ。
「甘い物好き?」
梨璃は答えなかった。でも、私はゴミ箱に捨てられていた菓子の袋で察していた。
「お茶も入れるね。紅茶でいい?」
私は勝手知ったるキッチンの戸棚から茶葉を取り出す。
「……お姉ちゃんと付き合ってたときにも、来たことあるんですか、うち」
そんな私を背後から梨璃は見ていた。
「あるよー。実はね、そこのソファで」
「変なこと言ったら殺します!」
そう言いつつ梨璃はカバンを下ろして、テーブルにつく。やっぱりお腹が空いているらしい。若い子らしくて結構なことだな、と思う。素直さ、性欲、食欲、好奇心。何もかもが私にとってはまぶしい。
「あの、名前なんていうんでしたっけ」
「お姉さんでいいよ」
「ババアって呼びますよ」
紅茶のいい匂いが広がる。高校生ぽいなぁと微笑みつつも、私は言った。
「友音。友達の友に、音楽の音」
「……友音さんは、お姉ちゃんのどこが好きだったんですか」
「んー、一言では言えないよ」
私はティーカップを取って、梨璃の待つテーブルの上に並べる。
「またあれですか、『女はどうこう』って」
「女っていうか、まぁ人間同士ならね、色々あるでしょ。まぁ動物相手でも色々あるか」
「殺したいくらい、好きだったってことですよね」
梨璃の眼鏡の奥の目が、私をじっと見ていた。まっすぐな目だ。まだ何も知らない新雪みたいに見える。
「……どうかな」
私は苦笑した。
「世界が終わるなら、私が殺してやろうって思ってたの。ずっと」
即席のお茶会の準備が整った。私は梨璃の斜め前の席につき、フォークを握る。
「いただきます」
確かに愛していたのだ、と思う。でも、彼女は私をないがしろにした。怒りながら、恨みながら、愛し続けるということは可能なんだろうか。私にはわからない。
彼女は私を捨てた。それから私はずっと一人だ。
「おいしい」
梨璃が思わずというように呟いた。「おかわりあるよ」と私は言う。彼女はもう私を見ずに、ケーキを熱心に口に運び始める。
「お姉ちゃんは、ケーキ作ったりしてくれなかったの?」
「あの人がそんなことするわけないじゃないですか」
確かにそうだ、と思う。気高いあの女が、小麦粉を前に悪戦苦闘なんてするはずがない。ケーキが食べたいなら誰かに焼かせればいい、と真顔で言いそうな女だ。
だが瑠々はともかく、両親だっていたはずだ。瑠々から両親の話を聞いたことはほとんどない。
「私、ケーキ作り得意なんだよね。ウィンウィン、でしょ?」
私はじっと梨璃を見ながら、ことさらおどけて片言で言ってみせる。眉根を寄せながらも、梨璃はケーキを食べるのはやめなかった。
こうして私は無事、元カノの家に潜入することに成功したのだった。