2日目
「あ、おはよー」
「そこにいられると迷惑なんですけど」
ドアを何度も叩いていたらやっと開いた、と思ったらチェーンがかかっている。
「姉ならいませんよ」
彼女の反応は、まるで毛を逆立てた猫みたいだった。
「うん、だからやっぱりここで待たせてもらおうと思って。世の中、意外と普通に動いてるんだね」
私はドアの前に座って、隙間から語りかける。
私は今日、ここまで電車で来た。なんと電車は動いているのだ。昨日の梨璃の言っていたことではないけれど、最後のときまで仕事をしようという人は意外に多いらしい。
とはいえ電車はがらがらだったし、町中に人は極端に少なかった。みんな、今頃どうやって最後を迎えるか考えたり、移動し始めたりしているのだろう。
あと九日で世界が終わる。なんだかまだ、現実感がない。
「世界、終わるんだよねぇ」
私は晴れた空を眺める。
「ねー、ドラえもんの道具であるじゃん、世界を滅亡させるスイッチ」
「そんなのないと思いますけど。地球破壊爆弾じゃないですか? あるいは何か別のフィクションとの混同だと思います」
「詳しいね……まぁ何でもいいけどさ。私にそのスイッチを押す権利があったらやばかったよね、もう世界なんて何度も滅亡してるよ」
「よかったですね」
「よくないじゃん! だから私にその権利がなくてよかったよね、梨璃ちゃんも」
「どうでもいいんで、帰って下さい」
「梨璃ちゃんは何があっても押さなそうだよね、スイッチ。ねぇお腹減ってない? 家で一人で、ご飯どうしてんの?」
「人の家の前で弁当広げ始めないでください!」
「あのさ、ちょっとこれは置いておくから」
私は斧を、門の前に置いて両手を挙げて見せる。どんな武装組織だって、この状態の一般人を撃とうとは思わないだろう。
「梨璃ちゃんの分もご飯買ってきたから、一緒に食べない?」
梨璃は、あくまで私を家には上げたくないようだった。
だが玄関先で弁当を広げられるのも困るという。彼女が取った折衷案が、庭先だった。
「いいねぇ! 風情があって」
「……誰も世話してないんで枯れてますけどね」
「林檎の木を植えるんじゃなかったの?」
「比喩表現です」
もとは芝生の庭だったらしい。だが今は、枯れた茶色い芝がまばらに残っているばかりだ。隅にある木も葉をつけておらず、生きているのだが死んでいるのだかわからない。
梨璃はお腹が空いているらしく、私の買ってきた牛丼をすぐに開けて食べ始める。もしかしたら家に一人で、ろくなものを食べていないのではという私の予想は当たっていた。
「よく私が持ってきた弁当なんて食べられるね」
ごふ、と梨璃は咳き込みそうになる。
「テープしてありましたし、これ普通に駅前の店で買ってきたやつですよね」
「途中で私が慎重にテープを剥がして唾を入れたとか思わない?」
「そんなことする理由がないです」
「悪に理由はいらないんだよ」
私はそんな梨璃を見ながら、楽しく牛丼を食べた。この食べっぷりなら、大盛りにしておいて正解だ。若いっていい。
くせのない黒髪、化粧っけのない肌に、気取った印象のない眼鏡。ほっぺたなんて、柔らかくてすべすべしていそうだ。
あんまり私はしげしげと梨璃を眺めていたらしい。梨璃は、眉根を寄せて怪訝そうに私を見た。
「お姉ちゃんと、付き合ってたんですよね」
「瑠々、何か言ってた?」
きっと彼女は、私が来たことを姉に告げたに違いなかった。
「通報しなさいって」
はは、と私は笑った。いかにも彼女が言いそうなことだ。
「どうして、お姉ちゃんを恨んでるんですか」
「女と女の間には、色んなことがあるんだよ」
私が彼女を恨む理由は簡単だ。浮気された上、捨てられたのだ。これは全人類が怒ってもいい案件だと思う。
どこに出しても恥ずかしくない恨み。誰だって私に同情してくれる。ザ・被害者。でもそんなの何だっていうんだろう。現実に彼女は私の前にはいないし、陪審員が彼女を罰してくれるわけでもない。
私は私の力で解決しないといけない。
世界が終わる前に。
「……はぐらかさないでください」
不満げに梨璃は言った。
「ねぇ、喉かわいちゃった」
牛丼を一足先に食べ終わった私は、にこっと笑って言う。
「知りません」
「喉が乾き過ぎて、世界の終わりの前に死んじゃうかも」
「そこのホースからたぶん水出ると思いますよ」
うち捨てられた、汚れた青いホースを梨璃は指さす。あまりきれいではなさそうだけれど、水は水だ。仕方ない。私はホースの根元を辿っていって、蛇口をひねった。
「きゃ」
勢いよく水を出しすぎたらしい。ホースは蛇のように暴れて、庭中に水をまき散らし始める。
「やめて!」
牛丼を持ったまま、水から逃れようと梨璃が行ったり来たりしているのがおかしかった。日に照らされ、飛び散った水滴がきらきら光って見える。
「やめてって!! やめてください!!」
「あはは」
私が蛇口を閉める頃には、すっかり庭の枯れた芝生も梨璃も私も、びしょ濡れになっていた。晴れた日でよかった。
「ひどい」
私はすっかり笑いすぎて、息が苦しくなるくらいだった。
「ねぇ、また明日来るから、ご飯何がいい?」
水を滴らせた梨璃はうんざりしたような顔でため息をついて、それから言った。
豚丼、と。