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10,000年の恋 時間百合シリーズ  作者: あいだ
100年後に答えの出る百合
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100年後に答えの出る百合

 私にはまだ答えがわからない。

 彼女は私が信じたように天才だったのだろうか。

 それとも多少見目が良いだけの、凡人だったのだろうか? 




 彼女の作品を一目見て「本物だ」と思った。

 頭よりも先に体が反応していた。震えたのだ。

 それは卒展で掲示されていた油彩画だった。深遠な色と単純化された構図は見ていて心地がよく、でもどこかひっかかりを残した。心の柔らかいところに爪痕を残す絵だった。いつまで見ていても飽きなかった。

 その絵は技巧を凝らされているようには見えなかった。あくまでとても自然なのに、熟練の画家の老いてからの作品のように巧みだった。一通りの展示を見て回るつもりでいたのに、私はその絵の前からなかなか足を動かせなかった。

 椋永子むくげえいこという名前を私は書きとめて調べたが、ほぼ無名といっていい存在のようだった。

 まだ誰も、彼女の存在に気づいていない。私が最初だ。私が見つけたのだ。

 私は異様なほどの高揚を感じていた。すぐに連絡を取り、カフェで会う約束を取り付けた。彼女は戸惑っているようだったが、まずは話だけでも聞いて欲しいと強引に私は話を進めた。

 繁華街を少し外れた、レトロなカフェだった。喫茶店と呼んだ方がいいかもしれない。タバコを吸うことができる店で、どの席に座っても匂いがしみついていた。

 待ち合わせた時間は、午後二時だった。黄ばんだ分厚いガラスごしに、昼の光が斜めに店の中に差し込んでいた。

 やってきた女の印象は、想像していたのと少し違った。繊細な芸術家タイプだろうと思っていたが、髪はぱさぱさして色の抜けた明るい茶色で、体のラインを強調するようなぴったりとしたトップスを着ていた。ボトムはホットパンツで、形のいい細い足をこれでもかと見せつけている。顔立ちは端正で、かなりの美人だった。

「はじめまして」

 気の強いタイプかと思ったが、声は小さかった。

 でも、本人の印象は関係ない。私は挨拶もそこそこに言った。

「私にあなたの作品を買わせて」

「えっ」

「ううん、扱わせて。あなたの絵を売りたい。あなたを有名にしたい」

 椋の長いまつげがぱちぱちと瞬くのを見た。つけまつげだった。特に何の感情も見せない声で、バイトに行かないと、と彼女は言った。

「私はあなたの存在を世の中に、知らしめたいの」

 色よい返事をするまで行かせてやるものか。私はぎゅっとテーブルの下で手を握りしめる。

「吸ってもいいですか」

 既にタバコを一本、手に取りながら彼女は言った。

 何のバイトだろうかと考えるとちくりと胸が痛むのを感じた。なぜそんな風に思うのか、そのときにはまるでわからなかった。



 世界に比べて、日本のアートマーケットは極端に小さい。そしてごく一部の現代アート作家を除けば、いわゆる「画壇」のような内側向けの権威がはびこっている。

「私の作品が、売れるわけないですよ」

 日本国内でそこそこ名の通っているというだけの、ベテランの作品など扱ってもつまらない。私は好きなようにやってやるつもりだった。毒にも薬にもならない評価の確立された作家なら、他でいくらでも扱える。だから積極的に若い作家を扱った。必要があれば、中国などアジア各地のディーラーとも連絡を取った。

「仮に売れなかったとしても、あなたには何も悪いことはない。卒業後の進路はもう決まってるの?」

「就職、失敗しちゃったからバイトで食いつないでます」

 椋は落ち着きのない様子で、ハイペースでタバコを吸っていた。もともとタバコが吸える店が彼女の指定だったから、このカフェを選んだのだ。私は非喫煙者でタバコの煙も好きではなかったが、断れるわけがない。

「何のバイト?」

「色々やってる感じですね。なんとか食べてかないといけないから……」

「絵を仕事にするつもりはないの?」

「バカにしてるんですか?」

 たばこ臭い息を吐いて、椋は言った。形のいい目が、強い光をたたえて私に向けられていた。背筋がぞくりとする。今まで私が関わり合ったことのないタイプの女だった。

「『仕事にできなかった』んですよ、言わせたい?」

 ふぅ、と椋はまた大きく息を吐く。私は彼女に飲まれないよう、冷めかけたコーヒーに何とか口をつける。私の方が、椋より十は年上のはずだった。この世界では新参者とはいえ、社会経験も積んでいる。

 そう――彼女はいわば、小娘だ。私はそう思い込むことで、余裕を保とうとする。

「まだ、今からでもできるわ。もし、そうしたいのなら」

「どうやって? 私は学校でも落ちこぼれだし、金もコネもない」

 あけすけな口調は、露悪的にも感じられた。

 でもきっとそれは、私の言葉が彼女のどこか気に障ったからだ。気に障るということは、無関心ではないということ。悪くはない。

「コネなら今できた」

 私はこれまでも若手の作品を扱ってきた。まだ大化けした作家こそいないけれど、高評価は得てきている。私のギャラリーは他とは違う。

 そのころ私は三十代の前半で、血気盛んでやる気があった。少しずつだが名前も知れてきていた。いずれ私のギャラリーも、取り扱う作家も一流として認めさせてやる。そんな風に思っていた頃だった。

「あなたとのコネ?」

 そう言って椋はくすくすと笑った。笑い声になると、声のトーンが一段上がってかわいらしい響きがあった。からかわれている、と思うと顔に血が上るのを感じる。それでも私はぐっと手のひらを握って感情を見せないようにこらえた。

 私は椋のバイトまでの時間、彼女を説得し続けた。

 バイト先を彼女は言わなかったが、恐らくキャバクラか何かなのだろう。風俗ではないと思いたかった。

 ぴったり一時間で、椋は席を立った。私は慌てて伝票を掴む。テーブルの上の灰皿には彼女の吸い殻がたくさん残されていた。

「タバコ、なくなっちゃったから買ってくれません?」

 駅までの短い道すがら、なおも必死に口説こうとしている私に、彼女は言った。

 私は言われるまま、通りすがりの店で彼女の好きな銘柄のタバコを買った。断ることなどできるわけがなかった。

「やった」

 笑う椋は二十二歳だという年齢相応に見え、愛らしかった。そうして歩き出した彼女の形のいいむき出しの足に、私はつい目をやってしまう。冷えないのか、と母親のようなことを考えてしまう。

 私は駅のホームまで、椋を送った。少しでも会話を続けたかったからだ。ここで逃したらきっともう、彼女は会ってくれない気がする。私は必死だった。どうしても彼女の作品を扱いたい。私が。私こそが。

「どこまでついてくる気ですか?」

「詐欺だって疑ってる? お願い、騙されたつもりででもいいから」

 半ばやけになっていたのかもしれない。どうにかして、椋を頷かせたかった。この機会を逃したら、もう彼女は会ってくれない気がする。

「お願い、私ほどあなたを理解して、あなたのために動く人間はこの先もきっといない」

 私は無我夢中になって口にしていた。

 山手線が緩やかにホームに滑り込んでくる。電車に乗る直前、振り向いて椋は言った。

「別に、いいですよ。確かにあなたの言う通り、これ以上悪くなることはないし」

 ふっと椋は笑った。

「あなたに騙されてみようかな」

 私はそのまま一人、ホームに残される。

 彼女の吸っていた甘いタバコの匂いが、いつまでもそこに残っている気がした。



 椋の手持ちの作品数は、決して多いとは言えなかった。美大に通っていた間に作った作品はいくつかあったが、知り合いにあげたり、売ってしまったものも多いという。

 まずは人目につく機会を作ろうと思い、オムニバス形式の若手作家の展示で椋の作品を一枚混ぜ込んだが、売れなかった。

 どうやったら椋を効果的にプロデュースできるだろうか。

 私は、椋の個展を開きたかった。

 椋が作品を作る速度は決して遅くなかったが、取りかかるまでには時間がかかった。私は何度も、椋の住んでいるアパートに通った。アルバイトを休ませて日当を出し、作品を制作させたのだ。

「売れないよ、梶野さんには悪いけど」

 私が見るとき椋はいつも、タバコを吸っていた。その顔色は、日に日に疲れを増しているようだった。

 その頃には私は、彼女がキャバクラで働いていることを知っていた。いくつか受けた会社はすべて落ちたのだという。実家は東北だし頼ることはできないと言っていた。

 客受けは悪くないらしかった。何しろとびきり、彼女は見た目がいい。ほっそりしていてスレンダーすぎるのが、見ようによっては玉に瑕だろうか。

「大丈夫、あなたの絵はじきに売れるわ」

「梶野さんって、けっこう狂ってるよね」

 そう言って椋は笑った。手にしたタバコが揺れているのを、私はじっと見ていた。

「あなたのことを、私は世界中の人にもっと知って欲しいの」

 今に世界が彼女に喝采する。私はそう信じて疑わなかった。

「それ正気?」

 私は他のすべての作家を差し置き、椋のために個展を開いた。どうしても学生時代の制作が主になり、作品数はそれほど多くはなかった。だから椋を説得し、バイトを休ませてでも作品を制作させた。

 私はやはり、彼女の油彩画が好きだった。崩れたような人の形、具体性を残したぼんやりとした画面。そして色使いが素晴らしかった。私は新しい絵を見るたびに、彼女の才能に惚れ直した。

「ねぇそろそろ私、もういい加減店に復帰したいんだけど」

「何言ってるの、これがあなたの仕事でしょう」

 アトリエと言えるような場所はなかった。椋の部屋は古い木造アパートで、上の階の住人が扉を開け閉めするたびに振動が響いた。

「こんなの、仕事とは言えないでしょ」

 パレットと指を目一杯に絵の具で汚して、空き缶に吸い終えたタバコを突っ込みながら、椋は這いつくばって絵を描いていた。私はそれを見ているだけで嬉しかった。

 椋のために、私はいつも中華料理やピザのテイクアウトを買っていった。彼女はジャンクフードが好きだった。だけど私は彼女の健康も心配だった。だがあまりしつこく言うと、「お母さんみたい」と言って彼女は笑う。さすがに三十そこそこで、二十歳を過ぎた女の母親になりたくはない。

 本当は、タバコも吸いすぎなのではないかと思った。だが、喫煙で創作意欲を増す作家は多い。私は他の作家には、食生活や健康のことまで口を出したことはなかった。だけどどうしても椋のことは気になった。

 今に世界が椋に気づくだろう。私は個展の日を、指折り数えて待った。



 個展は無事開催された。天候も悪くはなかったし、力を入れて告知も行った。

 だが、売れなかった。

 その個展は私のギャラリーが行ってきた展示の中でも、最低の来客数を記録した。

 この人なら、と思って声をかけた批評家も足を運んでくれたが、苦笑して首を振っていた。

「まぁ若い人はいいね。梶野さんのとこの展示は、また楽しみにしてますよ」

 明らかな愛想笑いに、私はまともに言葉を返せなかった。人のいなくなったがらんとしたギャラリーで、私はたった一人立ち尽くしていた。

 これほどまでに売れないのは初めてだ。

 明らかに、何かがおかしかった。無名の作家でも、売り出し方さえ間違えなければ多少は手に取ってもらえていた。私のギャラリーは、それだけの評価を得てきているはずだった。それなのに椋の絵は誰も褒めない。誰も買おうとしない。

 私は間違っているのだろうか。

 私の目が、狂っているのだろうか。

 改めて壁を飾る椋の絵を見直す。

 ――違う。

 これが素晴らしくないというなら、私はこの仕事をやめてもいい。まだ商売人として私は未熟だが、何がいい絵か、そうでないかくらいはわかる。

 どうして伝わらないのだろう。

 どうして欲しいという人が私以外にいないのだろう。

 私はその後も宣伝に努めた。それでも椋の絵は評判にならなかった。

 まさかと思ったが本当に一枚も売れなかった。仕方がないので私はこっそり、自分のポケットマネーで一番大きな作品を購入した。それで売れたという体にした。

 さすがに売り上げゼロだとは、椋には言えなかった。


 ・


 一人でギャラリーを運営していくにあたって、私の体はすべて商売道具だ。

 この目も、知識も、口も。作家や買い手との関係を良好に保つことは、役割のひとつだ。それなりに失敗もしてきたし、経験も積んだ。嫌な言葉をぶつけられたり、詐欺のような目にあったこともある。だが何とかそれらを乗り越えて、うまくやってきた。

「絶対、売れると思ったのに……」

 何かがおかしかった。

 自分の目がこれほど信じられなくなったのは初めてだった。

 単に早すぎたのかもしれない。時期が悪かったのかもしれない。理由をどれだけ考えてもわからなかった。

 椋は最近、元の店に復帰しようとして断られたらしい。だから別の店を探した、と言っていた。

「どうして」

「だって、お金がないんだもの、しょうがないじゃない」

 あっけらかんと椋は言った。彼女はアパートの部屋で、化粧をしているところだった。絵の具や絵画に関する道具は、すべて隅にまとめられている。

 椋の新しい勤務先は、風俗店だった。

 悔しかった。私が「すべての絵が売れた」と報告できれば、彼女はそんな仕事に行かなくてよくなる。私の宣伝力が足りないのか、知名度か。椋の絵を、なんとしてでも売りたかった。でもできることはやったのだ。相当に気合いを入れて、ダイレクトメールも打った。

「もう描かないわ」

 椋はタバコを吸いながら、笑った。薄めの唇は、オレンジがかった色に塗られていた。

 もっとやれたことはあったんじゃないか。もっと、椋のために身を粉にしてできることがあったんじゃないか。私の努力が足りなかったのだ。椋の作品じゃない、私が悪かったのだ。

「……個展は、確かに残念だった。でも、陳腐な話かもしれないけど、ゴッホだって生前には二枚しか」

「やめてよ」

 椋は笑っていた。はなから私の言うことなど信じていない声だった。

 タバコくさい部屋だった。

「耳切ったらピアス、できなくなっちゃう」

 そう言って椋は笑った。安っぽい金色のピアスを光らせながら。

 私は椋に伝えたかった。あの絵も、あの絵も売れたよと。でも、私は彼女に告げられる成果を何も持っていない。画業を営んでいるはずなのに。それを誇りとしていたはずなのに。私は間違えたのだろうか。でもそうだとしたら、何を?

「すぐに成果が出ないからといって、諦めないで。作家の仕事には、どういう忍耐が必要なこともあるの」

「私は生きてる間に、美味しいご飯が食べたい」

 椋は迷いを感じさせない口調で言った。

「あの日、言えなかったけど……もういいわ。ずっと思ってたけどあなた、私に下心があるから目が曇ってるのよ」

 そう言って、椋は私を見てくすりと笑った。

 それは何の笑いだったのだろう。私をバカにしていたのか、誘惑していたのか、突き放していたのか。化粧をした椋は確かに美しかった。大きく開いた胸元に、髪の毛が一筋かかっていた。

 確かに私は最初に会った時から、彼女のことを美人だと思っていた。

「違う」

 でも、最初に見たのは椋の絵だ。彼女本人を知って、更に魅力を感じるようになったかもしれないが、それは二次的なことだ。私は間違えてなんかいない。私の目は曇ってなんていない。

 若い女だからと舐められたくなかったから、仕事中には必要以上に強い言葉を使うこともあった。恋愛は遠ざけた。今はそんなことをしている場合ではないと思ったし、ギャラリーを守り成長させると強く決意もしていた。

「みんな百年後には気づく、あなたの絵の価値に」

 私は強く手のひらを握りしめていた。今伝わらなくてもいい。でも、私が椋の絵の前に立ったときと同じ感動を、いつか誰かが覚えるはずだ。

 そうやって本物は伝わるはずだ。そう信じたかった。信じなければ、やっていられなかった。

「百年後には、私もあなたもいない」

 椋はもう笑っていなかった。

「あなたが大金持ちなら私を囲って、絵を描かせてハッピーエンドなのかもしれないけどね」

 そう言って椋はウインクしてみせた。

 もう身支度はほとんど済んでいるようだった。椋はこのままだと出勤していってしまう。職業に貴賎はない。だけど、私は嫌だった。彼女が服を脱ぎ、客の体に触れるなんてことは想像もしたくなかった。彼女の手はそんなことに使ってはいけないのだ。

「待って」

 私はとにかく椋を出勤させたくなかった。彼女に、私の側にとどまっていてほしかった。

 下心? わからない。椋の才能に、その人間性の全部に惹かれていることは確かだ。女性と寝たことはないけれど、彼女がそれを許すならそうしてみたいとさえ思う。

 わからない。

 椋と会ってから、私のすべては狂いっぱなしだった。

「いくらあればいいの」

「美味しいご飯が食べられるだけ。あと、新しい鞄とワンピースも欲しい。パンプスも」

「全部私が買うわ」

「買えないでしょ? カバンはエルメス、パンプスはルブタンがいいな」

 椋はワンピースの背中にあるホックを上手に留めながら言った。

「買うわ、取り扱ってる作家で価値が上がってる作品もある。来月には百万単位で金が入る」

 私は必死に頭の中で計算する。私個人の貯金はほとんどない。だけど、ギャラリーの運転資金はある。本当はそれを使ったら今後のギャラリーの運営が立ち行かなくなる。でも両親もいない今、金の使い道を決めるのは私だけだ。だからなんとだってなる。

 金は後でも稼げるけれど、今ここで椋を止めないとだめだ。

「だから行かないで」

 私は気がつくと椋の服の裾を掴んでいた。

「何言ってるの」

 椋はくすりと笑う。はなから相手にされていないことはわかっている。私はカバンを引き寄せ、財布に入っていた札のすべてと、カードを取り出した。

「私は億万長者じゃない、でも、あなたの客より高い金を払える」

 私の声は震えていた。だけど迷うことはなかった。借金でも何だってしても構わない。今日、今ここで椋を留められるなら。需要なんてないかもしれないけど、私が風俗に行ったっていい。でも彼女はだめだ。

「お願い」

 私は椋の手を掴む。彼女は私の手を、そっと外そうとした。だが、私は懸命に力を込めて抵抗した。泣いてどうにかなるなら泣きわめいてやりたかった。

 何だってする。でも、今このとき絶対に彼女を行かせたくなかった。

 私がてこでも動かない気だと悟ったのか、ため息をついて椋は言った。

「……こんなにバカな女だとは思わなかった」


 ・


 今も考える。私にもっと、実力があったら。そうしたら最初の個展で椋の作品は売れたんじゃないか。

 私が適切な方法で彼女を売り出していたら、もっと何とかなっていたんじゃないか。彼女は人気を博して、水商売なんてすぐにやめて、うつくしい画家としての道を歩めていたのではないか。

 だけど現実はそうじゃなかった。

 私たちは二人きりの、古いアパートの部屋から出られなかった。


 私は、狂っているのだろうか。

「この金がなくなったら、私たちの縁も切れるのね」

 そう言って椋は笑う。

 現金で目の前に持ってきてくれないと信じないと言われた。だから、私は事業資金としてギャラリーの口座に用意していた七十万円を下ろした。キャッシングをしてもう三十万を用意した。もう私はどこにも戻れない。

 絵画の価値は、様々な要因により決まってきた。今、アートマーケットを支配している論理にはアメリカの影響が強い。価値は決して確立されたものではなく、上手な作品が売れるというわけではない。国力、投資、金融市場……アート作品の価値は常に揺れ動いている。

 絶対のものなどまだないのだ。

 私はそんな世界で、椋に出会った。彼女の才能を信じた。一目見て確信したのだ。彼女を信じないことは、自分自身への裏切りと同じだった。

 私は椋の狭いアパートの部屋に入り浸った。ほとんどすべての時間を椋の部屋で過ごした。目を離した隙に、椋がいなくなってしまうんじゃないかと思うと怖かった。

 椋はもともと、さほど贅沢な生活をしているわけでもなさそうなのに、あれこれと私にねだった。

 高いワイン、服、靴。そうやって私の金をさっさと使い尽くそうというのだろう。

 でも、私はなんとしてでも椋を留めておくつもりだった。言われるがまま、椋の欲しがるものを買った。

「あら、良い匂いがすると思ったら、おいしそうなワイン」

 私はデパートの地下に通って、椋が喜びそうな酒や料理を用意した。部屋にはまともなテーブルさえなく、通販で届いたダンボールに並べるしかなかったけれど、それでも豪勢な食事だった。

「そろそろお金が尽きてきた?」

「まだ全然、大丈夫よ」

 金を用意する方法はまだある。持っている作品をオークションにかけたり、収集家に連絡をしたりして売りさばいた。すぐに売ろうと思うと、どうしても価格は下がった。

 でも仕方がない。一年後の一万円よりも、今は明日の千円が必要なのだ。

 私は今まで浪費なんてせずに、それなりに堅実に暮らしてきた。だけど使おうと思えば、金が減っていくのはあっという間のことだった。

「もうやめたらいいのに」

 椋はくすり、と笑った。今日は化粧をしていない。外に出かけない日、彼女は基本的に化粧をしない。つけまつげもない彼女の顔は、普段より目鼻立ちが薄く見える。

 でもやっぱり美人だし、私はすっぴんの顔も好きだった。

「何でもいいからもっと欲しいものを言えばいいわ。次は何? グッチ? ボッテガ?」

 私たちは高級なワインを、水のようにがぶがぶと飲んだ。味なんてもうわからなかった。美味しくても美味しくなくてもどっちだっていい。

「ドレスでもカバンでも何でも好きな物を言えばいいわ」

 どんどん感覚が麻痺していく。

 アートを購入するような客は、高級なワインを好むことも多い。だから私はソムリエの教室に通い、一通りの勉強をしたことがあった。ラベルの読み方からテロワールの表現の仕方まで……でももう何も思い出せない。

 彼女の前で、ただ私は無力だった。

 すっかり酔った私は、椋の頬を撫でる。そしてそのまま、唇にキスをした。

「ん……っ」

 この部屋で椋のために尽くすようになってから、自然な流れで肉体関係を持った。私は元から、彼女の言うように、彼女をそういった目で見ていたのだろうか。

 欲望によって、絵を見る基準が狂ったのだろうか。

「あ……」

 私はただ、彼女自身が欲しかっただけなのか。

 わからない。でも椋と寝るのは底知れないほど良くて、私は何度も声を上げ、意識を飛ばした。

 彼女が欲しくて、私はずっと飢えていた。浅ましい欲望だと感じた。それでも否定できずに彼女の体に溺れた。底も果てもなく、いつ終わるとも知れないセックスだった。



「ねぇ、私は今はちょっと美人かもしれない。でも、ずっとそうとは限らない」

 ことが終わったあと、タバコを吸いながら椋は言った。彼女の肉付きはうすく、胸も豊満ではなかった。

「じゃあ、自画像を描いて」

 私は椋と寝るために、金を出しているわけではないはずだった。なのにだんだんわからなくなる。彼女に会いに来ているのか、監視しているのか、セックスをしに来ているのか。

「あなたは私の囲われ者なんだから、絵を描いて」

 だけど私はやっぱり、椋の絵を見たい。彼女の手に、私の体に触れるよりもっと、絵筆を握ってほしい。そのために私が邪魔なら消える。金がいるなら使う。何だってするつもりだった。

「そうね」

 だけど椋の筆の進みは遅かった。

 そのことを紛らわすかのように、彼女は私を抱き寄せ、愛撫を繰り返した。

「私はあなたに、そんなことをさせたいわけじゃ……」

 これでは、水商売の相手先が変わっただけだと何度も思った。でも、抗えなかった。

 椋の目鼻立ちが、少し高めの声が、達観したような笑顔が好きだった。細くて長い指も、ぱさついた髪も。タバコのにおいさえ、私は好きだった。

「最初からこうしてほしかったんでしょう?」

「違う……」

「あなたは寂しさに目が狂ったかわいそうな女なのよ」

 椋はそう繰り返した。だから絵は売れなかったのだ、と。

 違う。

 私は確かに、椋に対して欲望を抱いている。それは認めざるをえなかった。

 これは恋と言うべき感情かもしれない。でもあくまで、私が最初に見たのは椋の絵だ。私が出会ったのは、絵が先なのだ。そうじゃなかったら、椋に連絡をすることもなかった。

 私は絵を描く彼女が好きなのだ。

「違う。私はあなたの絵を愛している」

 私は信じていた。今では安く作品を売り払い過ぎてしまい、運転資金も尽きつつある。ギャラリーが存続の危機にあるのは明らかだった。それでも、まだ立て直すことはできる。

「じゃあ、絵を描かない私には価値がない?」

 ぽつりと彼女は言った。

「……ゼロとは言わない」

 彼女はひきつったような笑いを漏らした。

「どっちが正しいのかしらね、私とあなたと」

 彼女はそう言って、私の耳を強く引っ張った。少し強すぎると思うほど。ゴッホのたとえを持ち出したら、彼女に笑われたことを私は思い出す。

「いずれわかるわ。……百年もすれば」

 私の目に狂いはない。私は私の目を信じる。そして彼女の才能を。

 いずれ、誰もが椋の作品の価値に気づく。

「そうねぇ、百年経ったらね」

 椋はくすりと笑い、化粧をしない唇で私にキスをした。

 金はみるみるうちに減っていった。彼女はせっかく買った靴を、まったく履きもしなかった。ワインも肉も、飽きるほど食べて消化した。それでも椋の絵筆はなかなか進まなかった。

 そして金が尽きた日、椋は安アパートから姿を消した。

 完成した自画像だけを残して。


 ・


 私は椋の絵を、ギャラリーの隅に展示した。

 私の手元に残ったのは、最後に椋が完成させたその自画像と、個展の際の作品二十点ほどだけだった。

 興信所などを使えば椋の足取りは調べられるのかもしれない。でも、消えたということが彼女の答えなのだろう。

 私が椋を追い詰めたのだろうか。描いてくれと言い過ぎたのだろうか。それとも、こんな女と寝ることにうんざりしたのか。もう何もわからなかった。

 私はただ、椋の残した絵だけを眺めて過ごした。

 ギャラリーは何とか潰れることを回避できて、また少しずつ再始動していった。私はよりいっそう、無名の若手作家を扱うことに力を入れていった。

 宝くじを買うみたいな商売だね、と言われたことがある。

 でも宝くじを買うとき、どれが当たるか吟味することはできない。だけど私は私の目で見て、価値があると信じた作品だけを扱っている。

 ――私の目は狂っているかもしれないから、当てにならないけれど。

 あるいは、本当にそれは確率的な、くじにあたるようなものだったのかもしれない。

 取り扱った無名の作家の一人が、突然に売れ出した。私は再び気鋭のギャラリストとして扱われるようになり、雑誌のインタビューも受けた。そうすると自然と、取り扱ってほしいという作家も増え、好循環が続いていった。

 だが、私は浮かれることはなかった。淡々と仕事を続け、どんな日でも私は出勤するとまず椋の自画像の前に立った。

「梶野さん?」

「この絵、どう思う?」

 たまに気まぐれに尋ねて、若い作家を困らせたりもした。独特な油彩画を描く、若い男の作家だった。少しだけ、椋の作品と似ているかもしれなかった。そんな作家の目からだったら、何かわかるのではないかと思ったのだ。

「これ、顔の絵ですよね。俺はそういうのは……」

「ねぇ、教えて。この絵は上手いの? 下手なの? 歴史に残る? それとも駄作なの?」

 彼の目が、哀れむように私を見ているように感じられて仕方がない。

「わからないけど俺は、好きですよ」

 若い作家は、困ったように言った。


 私にももう、わからない。

 そのまま私は椋と再び会うこともなく、歳を重ねた。


 そうしているうちに、飾ってある絵を買いたいという者が現れた。

 それはたまたま、人目につくところに置き続けたからかもしれない。このギャラリーにあるなら良い作品だろうと、思った人だったのかもしれない。

 私は椋の作品を、すべて自分のものにしておきたかった。誰よりも強く、執着していた。

 自画像だけは断って、代わりにと他の作品を出した。

 価格は大したことがなかったが、金を手にしたとき、これほど喜びに打ち震えたことはなかった。取り扱い始めた最初の作品が売れたときより、ずっと嬉しかった。

 椋の絵は売れた。爆発的な人気とはいかなかった。批評家にファンができたわけでもなかった。

 だが少しずつ、少しずつ買い手がついていった。もっと他の作品はないのかと言われ、私は倉庫から作品を出した。

 それらを目にするのは、私もほとんど三十年ぶりだった。

 エロティックだと言ったり、繊細だと言ったり、客は様々なことを口にした。覆面作家なのだと言い、私は椋のことを喋らなかった。だけどそれさえ、蠱惑的だと受け取られた。

 すべて売っても、あの日々の浪費額には届かなかった。

 最後まで手元に残ったのは、椋の自画像だった。私はそれだけは売れなかったからだ。

 私は家族を持つこともなく、恋人も作らなかった。浮き沈みの激しい業界だが、おおむね絵画作品の価値は上がる傾向にある。自分一人食べていくくらいなら、どうにかできそうだった。

 ギャラリーの外の小さな裏庭で、タバコを吸うことだけがささやかな幸せだった。

 売れる絵が常にいい絵だとは思わない。ギャラリストとして、まだ誰も知らない天才作家の作品を扱うことは夢だ。

 だけど、本当にそんな幻の作家などいるのだろうか? 知られなかった作家は、いなかったのと同じことになるのではないか。

 だからこそ、椋の絵が売れて私は嬉しかった。

 とはいえそれは、椋の絵の価値が認められたことを意味するわけではない。ただ、金に換算できたというだけだ。たまたま好景気だったからかもしれない。たまたま、抽象的な絵画を求める客が多い時流だったのかもしれない。ギャラリー自体の名が売れたからかもしれない。

 誰も、彼女の絵なんて真には見ていなかったのかもしれない。

 あるいは、売り出された作家だけが売れるのだとしたら、彼女の絵を飾り続けた私の執念なのかもしれない。

 答えは誰が知っているのだろう。


 〝百年後には、あなたも私もいない〟


 ・  ・  ・


 展示室は、企画展が盛況だったわりに、常設展は空いていた。ファン・エイク、レンブラント、カラバッジョ……絵画史に残る作品が並んでいるのに、その前には誰もいなかった。

 そんな状況だったから、日本の作家のコーナーとなればなおさら人は少なかった。

「地元作家コレクションだって」

「いいよ、もう歩き疲れた」

「じゃあカフェ行こっか」

 美術館の空調は完璧に保たれている。

 もちろん、私のギャラリーだってその点は気をつかってきた。タバコの煙がうつらないよう、色々と苦労もしたのだ。

 展示室が空いているおかげで、私はいくらでもゆっくりと絵を鑑賞することができた。

 私のように、立ち止まる鑑賞者はほとんどいなかった。だから、少し遠くから、ハイヒールの立てる足音が響いてくるのがよく聞こえた。

 音は、私の近くに来て止まった。

「随分長く、その絵を見てるんですね」

「ええ」

 私は老い、ギャラリーの経営は他の者に譲った。アドバイス程度に口を挟むことはあるが、以前ほど仕事はしていない。だがまだ心身ともにしっかりしているつもりだ。杖をつきつつ、この美術館に訪れるのが日課だった。

「私は昔、この絵の所有者だったんです」

 私は壁にかけられた絵を見上げる。自然な筆致と奥深い色、ともすれば目が滑るような画面なのに、目が惹きつけられて離せない。

 繊細で臆病で、子どものようで同時に狡猾で老練。でも印象はそんな風に言葉にした端から逃げていく。

「へぇ」

 追っても追っても、捕まえられたと思った端から、彼女は私の手のひらから滑り抜けていく。

「少しね、入院した時期があって、健康が不安になってしまって。美術館なら作品を長く保存してくれる。そう思って寄託しました」

 私はこの絵だけは守る必要があった。私の命が尽きるとしても、それよりもこの絵には、長生きをしてもらわなければならなかった。

 誰か著名なコレクターに買ってもらうことも考えたが、ぞんざいな扱いをされるのがいいところだ。私は長らくのコネで学芸員と交渉し、他の有名作家の作品と抱き合わせにする条件で、この作品を寄託することにした。今、私のギャラリーの壁を飾り続けたこの絵は、置き場に迷ったようにひっそりと隅に飾られている。

「マイナーな作家ですよね。爆発的に売れたわけでもない。教科書に載るわけでもない。大した価値もない。ほとんど誰にも、知られてない」

 女はすらすらと口にする。私の耳に残り続けている声そのものの響きで。何でもないように、あっさりと言う。

「結局私はあなたに騙されたんですか?」

 私は振り向く。

「誰にでも知られている現代の画家なんている? 誰もいないでしょう。たったの百年さえ、まだ経っていないのだから」

 そこに、自画像と鏡映しになったように、女が立っている。

 私は彼女の印象を言葉にしようとする。光のようでもあり、荒々しくもあり、美しくかつ歪んでいる。時を止めた自画像と違い、時間の層が彼女の上には降り積もっている。

「まだよ。まだ、百年経っていない」

 でも、私は諦めない。何を差し置いても、私は捕まえるだろう。

 彼女を、そして答えを。

「随分と執念深いのね、あなたも」

 女は帽子をかぶっていて、赤い裏地のあるパンプスを履いている。やはり細身で、危ういくらい華奢だった。あの頃長かった髪は茶色いボブに整えられている。

 私は皺だらけになった手を伸ばして、彼女の耳に触れた。

「答え合わせまではもうちょっとだけ、時間がありそうね」

 彼女はそう言って、私のよく知る表情でくすりと笑った。

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