1時間後に告白する百合
遠くに行ってしまうのは寂しいです。もっと、ずっと一緒にいたい。
好きです。
・
「意外と余裕ありましたね」
海外便の場合、空港へは出発二時間前までにくるようにという。幸いカウンターは空いていて、スムーズにチェックインは終わった。
その結果、トランクも預けてしまった私は手持ち無沙汰になる。ぽっかりと空いた一時間だった。
「そうだねー。何か食べる?」
「奈緒先輩は、お腹減ってるんですか?」
「私は機内食出るから。いいよね、機内食って」
「食べたことないです」
「えっ」
私は想わず大きな声を出してしまう。
「飛行機乗ったことないの?」
「国内しかないです」
「国内だと機内食出ないっけ? てか、じゃあ一緒に乗っちゃう?」
私は笑いながら言ったけれど、みぎわは笑わなかった。
私の隣りに立つ小柄な少女、みぎわは、こうして空港まで来ているけれど、飛行機には乗らない。単に私の見送りに来ただけだ。
「私パスポート持ってません」
「わかってるよ……」
「機内食が出るっていうことは、遠いからですよね、イギリス」
「まぁ考え方じゃない? 中東よりは遠いけどアフリカよりは近いっていうか」
私が何とか湿っぽい雰囲気を打ち消そうとしているのに、みぎわは笑いもしない。
「遠いですよね」
「機内食っておいしくてさ、トルコ航空の飛行機には、シェフが乗ってるんだって。いいよね」
「奈緒先輩が乗るのはトルコ航空なんですか?」
「いや違うけど……」
私の二歳後輩であるところの上川みぎわは、真面目な少女だ。これが彼女らしさだとわかっているけれど、でも今日は最後なのだ。こんなときくらい、笑顔でおしゃべりしたい。
百五十センチもないくらいの小柄な体躯で、私より二歳年下。長いストレートの黒髪で、一見したところは大人しい美少女といった外見だ。基本的に引っ込み思案で、人見知りをするタイプだった。
でも、今日は私の見送りに来てくれた。
「あと、一時間なんですね」
「出発便のご案内」と書かれた電工掲示板を見ながら、淡々とみぎわは言う。正確には、出発するまでは二時間近くある。みぎわと別れて、搭乗口に向かうまでの時間があと一時間ということだ。
みぎわの声からは感情は見えないけれど、きっと別れが寂しいに決まっている。私と同じように。
私は高校を卒業し、イギリスに留学する。一年は日本に帰ってこない。今日発ってしまえば、このかわいい後輩の顔を見ることもできなくなる。
もちろん今は遠く離れていても、顔を見ながら通話もできる。でも、基本的にこのコミュニケーションが苦手な後輩は、そんな方法ではつなぎ留められないだろう。
私は隣を歩くみぎわの横顔を盗み見る。高校生という多感な時期だ。私が日本にいない間にどんな虫がつくかわからない。
「大丈夫ですか、忘れ物とか、何か買っておくものとかありませんか」
――忘れ物ならもちろん、ある。
「ないと思うけど。ちょっと歩こっか」
私はあと一時間以内に、みぎわに好きだと言わないといけない。
・
始まりは図書室だ。私が三年で図書委員になったとき、みぎわは一年生だった。
とはいえ私は熱心な委員ではなかった。だからみぎわと一緒に仕事をする日が来たのは、夏になってからだった。
あまりさぼり過ぎるのも悪いかと思い、私はカウンター業務につくため図書室に向かったのだ。
「あれ。あなたも今日当番?」
「冨谷先輩ですか」
みぎわはカウンターの内側に、小柄な背筋を伸ばして座っていた。手元には布製のカバーがかけられた文庫本がある。一目見て、本が好きな内気な子で、だから図書委員をやっているのだろうなと想像がついた。
「そう。三年の富田、よろしく」
私はにっこりと彼女に笑いかけた。だが、みぎわの反応は厳しかった。
「この三ヶ月、ずっとカウンター業務につかれなかったのはなぜですか」
立ち上がった彼女は、私より随分小柄だった。私もとりたてて背が高いわけではないけれど、それでもほとんど頭ひとつ分くらい違う。だが、声は険しく威圧感があった。
「えっと……忙しくて?」
「部活ももう引退されているんですよね」
「受験生だし」
「もちろんそれは理解しますが、勉強をしないといけないのは下級生も同じです」
堅苦しい話し方をする子だなと思った。特に気分を害したわけではない。彼女の言うことはもっともではあった。だからといって、はいすみませんと言う気もなかったけれど。
「それはそうだけどさ、そもそも図書室の貸出業務を生徒がやるっていうのがおかしいと思わない?」
「話を逸らさないでください」
「そもそも常勤の司書さんがどうしていないのかな」
「そういう話ではありません。富谷先輩の義務について私は言って……」
「富田だってば。人を非難する前に名前くらい正確に把握したら?」
かあっと彼女の顔が赤くなる。ほとんど言い争いになりかけていた会話が中断したのは、図書室に友人が入ってきたからだった。
「あれ、奈緒ちゃん真面目じゃん」
「仕事中ですー」
「えー、図書委員さん、オススメ教えて下さい」
けらけら笑って佐久間は言う。地毛だと言い張っている茶色い髪を、今日はポニーテールにまとめていた。さっき、図書委員の仕事をしにいくと言ったら「図書室行ったことない」と言って興味深そうにしていたから、きっと来るだろうと思っていた。
「私新人だからわかんないわ。この優秀な後輩に聞いて」
私はぐいとみぎわの腕を掴み、佐久間の前に差し出す。
「えっ……」
気丈な態度を取っていたみぎわは、急に佐久間の前に立たされてあたふたしていた。こうしてみると、小動物みたいでちょっとかわいい。
「私より断然図書委員としては経験を積んでらっしゃるから」
みぎわは私を睨み付けてくる。でも怖いというよりかわいくて、全然迫力はなかった。
「どういう本がお好みなんですか」
「え、わかんない、読まないし」
「傾向でいいですので」
「だからー、わかんないって」
それでも生真面目にみぎわはヒアリングをして、のらりくらりとした答えを返す佐久間に必死に向き合っていた。
・
空港にいると、何となくわくわくする。
大きな荷物を持って行き来する人、忙しそうなビジネスマン、浮かれたカップル、見慣れない言葉を話す異国の人たち……。
電子機器や薬、本。どこか遠くへ携行するためのものが、店先には並んでいる。家に持ち帰るための品々ではない。そのことが気持ちを沸き立たせる。
――私はもう明日からは、みぎわと同じ国にはいないのだ。
「朝ご飯食べた?」
「食べました」
「どんなメニュー?」
「白米と焼き魚、納豆、味噌汁、漬物です」
「それはまた模範的だねー」
「朝食を食べることは一日の活動において重要です。奈緒先輩は、また何も食べてないんですか」
「だからさ、機内食があるんだよ。ていうか機内食の前にも何か出てくるし、ナッツみたいなやつ」
とりたてて裕福な家というわけではないけれど、私はそれなりに海外旅行の経験がある。小さい頃はよくハワイにも連れて行かれたからそのイメージが強いかもしれない。
とはいえ一人で飛行機に乗るのは初めてだし、これからは知らない人ばかりの土地で、ずっと英語を話して過ごさないといけないのだ。
「わかりません」
みぎわは本当に海外旅行をしたことがないらしい。そういえば、英語もあまり得意ではないと言っていた。
「どっか行きたい国とかないの?」
私たちは見るともなしに、雑貨屋などの店を見ながら歩いた。特に買う物があるわけではない。一時間という時間を潰すためだった。
でももちろん、ただ潰してしまってはいけない。この一時間はどんな時間より貴重だ。もう一時間後に私は搭乗口をくぐり、みぎわと別れなければならないのだから。
みぎわはここまで見送りに来てくれた。真面目な彼女が授業をさぼってまで。
彼女を呼んだ時点で、私はひとつの賭けをしていた。
――もしみぎわが、見送りに来てくれたら告白する。
「……イギリス」
「え、ごめん、何?」
夏以降、私は図書委員の仕事をまじめにやるようになった。実のところ、留学に関する手続きが残っているぐらいで、暇だったからだ。そんな風に暇な三年生は私ぐらいだった。それに、真面目に委員の仕事をしていたのもみぎわくらいだったから、私たちはよく顔を合わせた。
みぎわは生真面目でかたくなだった。私たちは何度も言い争いをした。でも、だんだんそれが楽しくなってきた。
言い争っているうちに、少しずつ、みぎわも打ち解けてきているようだった。
機械のような受け答えをしていた彼女が、だんだんと心を開いてくれるようになると、それが嬉しくて私は彼女に夢中になっていった。
「スコットランド、とか、いいですよね」
隣を歩く彼女をちらと見て、好きだなと思う。今日は制服ではなくて、柔らかいクリーム色のブラウスと、長めのスカートを履いている。上品でとてもかわいらしく、彼女に似合っていた。
「お酒飲める年になってから行くと面白そうだよねー」
「イギリスのご飯は、まずいとよく言いますね」
通りがかった日本食レストランのメニューに目をやりながらみぎわは言った。
「どうだろ、フィッシュアンドチップスとか悪くないじゃない?」
私はあまり食べ物にはこだわりがないし、言われるほどイギリスの食事も悪くないと思う。未成年だから一応酒はだめだけれど、パブにも行きたい。
「自炊とかするんですか」
「暇があればやりたいけどねー」
語学学校での授業は、真面目に取り組めば相当大変らしい。日本人同士で連んでろくに勉強せず、遊び回る留学生も多いとはいう。でも、せっかく親に安くない学費も出してもらっての留学だ。できる限りのことはするつもりだった。
「私、最近よく料理してるんです」
「えー偉いじゃん」
「だから、もし……」
日本食のメニューには、うどんや寿司、ハヤシライスなど雑多な食べ物が並んでいる。
「何かもし必要なものがあれば送りますよ。日本のご飯とか」
「だいたいのものはイギリスでも買えるよ、すごいんだよ、イギリスのスーパー」
「日本で買った方が安いと思います」
「でも送料かかるし変わんなくない?」
それに何か頼むならみぎわでなく母に頼む。そこまでみぎわに迷惑をかけるつもりはないつもりだったのだが、みぎわは不機嫌そうに黙ってしまった。
――あと四十五分。
イギリスは地の果てではない。都会だからだいたいのものは手に入る。でも、それなりにやっぱり遠い場所だ。私たちに残された時間は少ない。
室内より、天井のないところのほうが、落ち着いた気持ちで言えるかもしれない。
「外に行かない? 飛行機、飛ぶのが見れるの」
みぎわはこくりと頷いた。
人に慣れない猫みたいだったみぎわと連絡先を交換して、奈緒先輩と呼んでくれるようになったのは何月頃だっただろう。
〝すごいねあの子、私本ってあんま読めないんだけどさ、あの子にオススメしてもらった本はちゃんと読めたよ〟
佐久間に褒められたときには我がことのように嬉しかった。佐久間もよく、私につられて図書室にたまにやってくるようになった。三人でわいわい話すのは、何だかんだと楽しい時間だった。
外に出ると、むっと蒸し暑い空気に襲われた。
「あっつ!」
このままだときっとあっという間に、出発の時間が来てしまうだろう。ちゃんと二時間以上前に空港についたのだ。乗り遅れるようなことがあってはいけない。
私はちらと後ろを振り向く。小柄な手足の、遠目から見たらどこかお人形のような、小さな女の子。
彼女を好きになったのはいつだったのだろう。
はっきりとはわからない。放課後に図書室に行くことが、いつの間にか楽しみになっていた。
相手は将来性のある後輩だし、女の子だし、とそんなことを悩まないでもなかった。でもそんなことより私にとっては自分の感情が絶対だった。
好きになってしまったものはしょうがない。
そして、留学に行くのもずっと前からの夢だ。どちらも諦めたくなかった。
「イギリスはもっと涼しいんですよね」
「そうだといいけどなー」
この暑さだというのに、飛行機が飛び立つのを見たい人は多いようで、人の姿はそれなりにあった。大きなフェンスがあり、その向こうに巨大な飛行機がいくつも並んでいる。
私たちはフェンスに近づく。轟音を立てて今まさに一機が飛び立とうとしているところだった。
数分後、ここに立って、私が乗る飛行機を見送る彼女のことを想像する。
「私……あのさ」
私は唾を飲み込む。言うのだ。今言わないで、いつ言うというのか。
「はい」
生真面目な顔でみぎわは私を見返してくる。その白い頬を見ていると、じわりと手に汗が浮かんできた。
「最近何か変わったことあった? たとえばさ、何か私に聞きたいこととかない?」
私はなぜか、みぎわに問いかけていた。自ら告白をするはずだったのに。
離れてしまうから、振られても気にならないかといったらそんなことはない。この無情な後輩は、意味が分からないとか、無意味だとかそんなことを言ってこっぴどく私を振るかもしれない。正直言って、すごく想像がついてしまう。
やっぱり怖い。
「もうすぐお別れなんだよ。今のうちに、聞きたいこととかあるなら教えて」
私はから笑いを浮かべる。
「そうですね……」
みぎわは口ごもる。私はゆっくりと、彼女の言葉を待った。
「奈緒先輩は、好きな……好きな、料理とかありますか」
間近に留まっていた飛行機が動き始める。
「え、なんだろ。ナポリタン?」
「ナポリタンってなんか麺が柔らかすぎないですか?」
「そう。あのべちょっとした感じがおいしいよねー。やっぱり暑いから中入ろっか」
私は臆病者だ。
嫌われてはいないと思う。でもそれはイコールで好きっていうことじゃない。付き合いたいかどうかはまた別だ。
みぎわはかわいいし、私より若くて未来もある。
「待ってください、先輩こそ、私に言いたいことあるんじゃないんですか?」
室内に戻りかけた私を、みぎわが呼び止めた。
どきりとする。やっぱり、何か感づいているのだろうか。今日私が、彼女に告白しようとしていることを。
「……あのね、実は、私」
私はごくりと唾を飲み込む。好きだ、と言うつもりだった。あっさり言ってしまえばいい。もし振られたらそれまでだ。
気にすることはない。どうせ、もうすぐ飛び立つのだし。
そう思っていたのに、私の口をついたのは別の言葉だった。
「さっき食べてないって言ったけど、今日は朝ごはん食べたんだよ」
私は無駄に笑ってみせる。みぎわの表情は変わらず、感情は読めない。
「何を食べたんですか?」
「お母さんが用意してくれてたから、ベーグルと紅茶」
こんなはずじゃなかった。どうして朝ごはんの話などしているのだろう。
「イギリスぽいですね」
「でしょ?」
「でも向こうでそういうのは飽きるほど食べるんじゃないですか」
「えー、いいもん、私イギリス飯好きだし」
残り時間は少ないのだから、とにかく好きだと、今伝えないといけない。胸が苦しい。
笑みを浮かべつつも、私は実際、まるで笑えていなかった。
また一機、飛行機が飛び立っていく。
留学に行くのは前からの夢だったから、諦めたくはなかった。でも、みぎわと離れたくもない。
考え始めると体が割かれるようで、告白の言葉などどうしたって出てこなかった。
・
「奈緒先輩、図書カードはちゃんと所定の位置に戻して下さい」
「所定って何? 戻されたところが本来の位置なんじゃない?」
「返却ボックスも、溜まってるじゃないですか」
「今やろうとしてたとこ」
「また二人? 元気にやってるねー」
佐久間は私たちのいる図書室に、よく遊びに来るようになった。
「みぎわちゃん、これありがとう。面白かった」
彼女がみぎわから薦められたのは片面にイラスト、片面に小説が書かれたきれいな本だった。普段佐久間は本なんて読まない。だから、みぎわに勧められたからといって彼女がちゃんと読み通したのは凄いことだった。
私も同じ本を読んでみようとはしたけれど、いまいちぴんとこなかった。
「奈緒ちゃん、図書委員なのに全然本読まないじゃん」
「だって別に暇そうだからなっただけだし」
「そうだと思った」
図書室の利用者はそう多くなかった。自習をしている生徒が何人かいるくらいで、基本的に仕事はほとんどない。だから、私たちは多くの時間を、業務よりおしゃべりをして過ごした。
佐久間が遊びに来ているとき、ほとんど喋るのは私と佐久間だった。みぎわと佐久間がしゃべることは稀だ。でも、佐久間はすごくみぎわの能力をかっているようだった。
「みぎわちゃんは、すごいね。やっぱり色々本とか読んでると違うんだねぇ」
ちりちりした苛立ちを感じた。みぎわを先に見つけたのは私なのに。
「そりゃあ私の後輩だからね」
「なんで奈緒ちゃんがいばんの? 何か奈緒ちゃんもみぎわちゃんにオススメしてもらって読んでみたら?」
いつの間にか当たり前のように、カウンターの内側に入って座っている佐久間は言う。
「みぎわちゃんならきっと的確にオススメしてくれるよ」
じっと座っているみぎわの肩に手をやって佐久間は言う。
その頃には私はみぎわのことに随分詳しくなっていた。学年でも一番背が低い女の子。本が好きでちょっと内気。いかにも成績は良さそうだけれど、実はそんなに飛び抜けてよいわけでもない。決まりは守るタイプ。でも学級委員になったことはない。
「ふぅん。みぎわ、オススメある?」
私はついつっけんどんに言う。
「何ですか」
「私におすすめする本」
私は佐久間に対して苛立っていたのだ。みぎわの肩に手をやって、なれなれしくしている彼女に。でも、やめろとは言えなかった。
「どういう本がいいんですか」
「私、文字読むの苦手なんだよね」
「本当ですか? 奈緒先輩は、実はテストの点も悪くないですよね」
「そうそう、こいつ実は学年一位取ったことあるからね」
横から佐久間が口を出してくる。私は舌打ちしたくなった。
「言わないでよ」
留学が夢だったし、勉強はいつもやっている。でもそれを後輩の前で言われるのは恥ずかしかった。
「別にいいじゃん、事実だし」
「考えておきます」
みぎわはそう言ったけれど、なかなか私に対して本を勧めようとはしてこなかった。
佐久間には気軽に勧められても、私に対しては嫌なんだろうか。催促するのも気にしていると告げるようで嫌で、その話題はそのままになっていた。
ようやく彼女が私に本を差し出してきたのは、私の留学が決まった頃のことだった。
「これ、こういうのは、もしかしたら好きじゃないかもしれないですけど」
ドストエフスキーの「やさしい女」という本だった。
「ありがとう」
それはみぎわの私物らしかった。ドストエフスキーなんて、今の日本にほんとに読む人間がいるとは思わなかった。いかにも読むのが面倒そうだ。
さほど分厚い本ではなかった。みぎわのオススメと言うなら、興味はあった。けれど私は、どうしてもページを開く気にはなれなかった。
「そうだ、借りてた本、持ってきたんだよ」
建物の中に入ると、冷房が効いていて心地よかった。時計を見ると、もう残された時間はあと三十分を切っていた。
早くしないといけない。一体私は何をやっていたのだろう。
飛び立つ飛行機を見ながら愛の告白というのは、悪くないシチュエーションだと思ったのに、やっぱり言えなかった。
「読み終わりましたか?」
「ええと……だいたい?」
「読んでないなら、まだ返さなくていいですよ」
みぎわは呆れたように言う。
でもきっとこのまま、私はこの本を読むことはない。
「でも、いつ返せるかわからないよ」
私の言葉に、みぎわは反応を返さなかった。かたくなな横顔のまま黙っている。
彼女の生真面目なところや、たまに見せる素朴な表情や、そうしたものの全てが好きだった。
私はなぜ、言えないのだろう。
相手が同性だから? 後輩だから? どちらもなくはない。でも、やっぱり振られるかもしれないことが怖いのだ。
「別に絶版本でもないですから、また買うからいいです」
「それなら私が買うよ」
「それじゃあ意味がないです」
「なんで、ほらそこに本屋あるじゃん」
私は少しむきになっていたのかもしれない。みぎわを伴って、強引に本屋に入る。たくさん本が並んでいるように見えたのに、みぎわに借りた本はなかった。何度棚を見ても、やっぱりない。
もともと私はちゃんと、読んでから返そうと思っていた。遠く離れてしまうのだ。その前に、と思った。
だけどどうしても、ページをめくれなかった。
私はいつから、こんなにみぎわを好きになったのだろう。思いだそうとしてもわからない。
平台に積まれた恋愛小説の数々を流し見する。感動的な恋愛物語であることがどれにもでかでかと書かれている。でも、私のこの気持ちを正確に表している小説なんてないだろう。
「何か飛行機で読むのに買ったりしないんですか」
「うん、携帯あるし」
その時点でまた、すっかり時間が過ぎていた。あと二十分ほどしかない。
こんなはずじゃない。一時間あれば、何とかなるだろうと思っていた。
簡単なことなのだ。好きだと伝えればいいだけ。それでどうなるかはまた別の問題。とにかく私がすべきなのは、遠く離れてしまう前に伝えること。
私は本屋を出たところで立ち止まる。
どちらも何も言わなかった。どうしたらいいのだろう。私は隣に立つみぎわの顔を見下ろす。頬に触れたいな、と思う。できれば頬以外のところにも。
じっと見ていると、見られていることに気づいたのか、みぎわの耳が少し赤くなった気がした。
「奈緒先輩、もしかして、私に何か言いたいことありますか」
「えっ、あ、あるっていえばあるけどないっていえばないかな」
赤らんだ顔で見上げられて、私は思わず挙動不審になってしまう。
「あーそういえば私、化粧水が欲しいかもしれない」
私はそのまま歩き出す。少し遅れて、みぎわは着いてくる。
「いややっぱ欲しくないかも」
「どっちなんですか」
「わかんない、もう何もわからない……やっぱりイギリスで買おっかな」
私はみぎわの方を見ずに、店先を眺めながら歩き続けた。頭の中がこんがらがって、うまく像を結ばない。
「あ、プラネタリウムカフェだって。寄ってく?」
「もう時間がそれほどないように思いますけれど」
「あと何分?」
「十九分です」
私は、告白をしないといけない。もう場所なんて選んでいられない。今伝えることが大事なのだ。明日にはもうお互い遠いところにいるのだから。
私はそう思って、みぎわの両肩に手を置いた。
「あのね、みぎわ」
そこはカフェの前だった。並んでいる客こそいないものの、近くにいる誰かに声を聞かれても不思議じゃない、人通りのある場所だ。でももう仕方がなかった。
とにかく、伝えないといけない。時間がない。
「あと十九分だから言うけど」
「十八分になりました」
「十八分だから言うけど、みぎわと図書委員の仕事するの、楽しかったよ」
「ありがとうございます。私も楽しかったです」
お手本みたいに無機質な言葉が返ってくる。
そうじゃない。私が言いたいのはこんなことじゃなかった。もっと特別な時間が私たちの間にはあって、そして私はみぎわを好きになった。それは奇跡のようなことで、こんなところでうまく簡単に言葉にできることじゃない。
二人きりで床の掃除をしたり、誰も来ない図書室でヒソヒソ声で話をしたり。たわいのない時間も、私にとっては全て大切だった。
「あのね、本当は今日、みぎわしか呼んでないの」
私は最初、みぎわに対して「みんな見送りに都合がつかなくてひどい」と愚痴を言った。佐久間も家族も、誰一人見送りに来ない、だからみぎわに来て欲しい、と。
両親からは行こうかと言われたが、丁重に断った。私はもともと見送りに来てくれないと寂しがるようなタイプでもない。
彼女が来たら、好きだと伝えようと思っていた。
来なかったらそれまでだ。来てくれたなら希望はあるはずだ。だから思い切って告白したらいい。そう思った。完ぺきなプランのはずだった。そのために早めに空港にも来た。
「知ってました」
目線を落として、ぽつりとみぎわは言った。
「えっ?」
「だって、佐久間先輩も呼ばれてないって言ってましたし」
「なんで、いつ佐久間に聞いたの!?」
佐久間が図書室に来るときに会話はしていたが、二人で連絡を取っているとは知らなかった。
「普通に携帯でですけど……」
「何それ仲良しじゃん、ひどい」
「ひどくないです。私の分もよろしくと佐久間先輩は言っていました」
プラネタリウムカフェに入るお客さんが、メニューを見たそうにしていたので、申し訳なくて脇にどく。
時間がない。一体どこに向かえばいいのか、ますますわからなくなってくる。私は適当な方向にただ歩き出す。
「あのね、じゃあついでに告白するけど。私実は……実は」
「はい」
「本、とか読むの別に苦手でも何でもない」
「そんな気はしてました」
「なんで?」
「冲方丁をちゃんと『う』の段に戻してたので」
この後輩は、私のことをどこまで見通しているのだろう。いっそのこと、恋情まで知られているならそれはそれでいいから、知ってるよと教えてほしい。そうしたら私は、告白しないで済む。
「何でも知ってるね、みぎわは」
「何でもは知りません」
「じゃあこれは? ええと……実は全国模試で二位を取ったことがある」
私は必死に、普段人には言いたくない事実を思い出して口にする。
「すごいですね」
「衝撃の告白でしょ?」
「実は佐久間先輩から聞いたことがあります」
「あの女!」
こんな話をしている場合じゃない。
私がみぎわに言うべき事実は他にあるはずだ。
私は携帯をちらと見る。あともう十六分しかなかった。搭乗フロアに戻らないといけないし、残された時間は実際にはもっと少ないだろう。心臓がぎゅうと締め付けられる。図書室でお喋りをしているときには、そんな時間がいつまでも続くのだと思っていた。でも、本当はそんなことはなかったのだ。
搭乗の時間が近づく。私たちが一緒にいられる時間が終わってしまう。
「奈緒先輩の頭がいいことくらい知ってます。留学だってあっさり決めていました」
「もうやめて、言うんじゃなかった」
「どうして恥ずかしがるんですか」
「キャラじゃないから」
「よくわかりません」
みぎわが真面目な顔で私を見上げてくる。そんな目で見つめないでほしい。
私は告白ひとつうまくできない、臆病でちっぽけな人間だ。
「奈緒先輩」
調子がつかめない。私は私らしくうまくやりたいのに、この後輩の前だとだめになってしまう。みぎわを見返せなくて、私は空港の床を見る。その時ふと携帯が振動していることに気づいた。
「あ、佐久間だ。ごめん、出るね」
ちょうど彼女から着信が来ていた。もちろんみぎわと過ごす残りの時間は大事だが、飛行機に乗ったら佐久間とも話せなくなる。
だから私は少しみぎわと距離をとって、電話に出た。ちょうど彼女にいろいろと言いたい気分でもあった。
「あ、もしもし奈緒ちゃん? まだ時間大丈夫だった?」
「ねぇ、みぎわにいろいろ言ったんでしょ、勘弁してよ」
電話の向こうで、佐久間はきょとんとした声を出す。
「何のこと?」
「模試のこととか、今日見送りに呼ばれてないとか」
別に佐久間とみぎわが仲良くするのを私が阻止する権利はない。でも、そんなにほいほいみぎわに伝えられてしまったら、年上の威厳も何もあったものじゃない。
「教えてないよ?」
「え?」
さあっと現実が遠のく気がした。
みぎわはさっき、佐久間に聞いたと言った。つまり、みぎわか佐久間のどちらかが嘘をついている。私はどちらを疑うべきなのか。答えは明らかだった。
「ごめん、勘違いだった。電話ありがとう、でももうすぐ行くから」
私は短い時間で佐久間に別れを告げる。イギリスに着いたらまた連絡する、と言って電話を切った。
このご時世、wifiさえ繋がれば海の向こうとでも連絡は簡単に取れる。でも、それじゃあだめだ。
「終わりましたか?」
いつも通りの表情で、みぎわは私を見ている。
・
時間はもう残り少なかった。
どうしたらいいのか、全然わからない。
「あと十分だ」
私たちは、あてもなく歩いた末に、到着フロアに来ていた。ちょうど飛行機がついたのか、ドアからは多数の到着した客たちが出てくる。
「佐久間とよく話すの?」
私たちはまるで、誰か家族を待っているかのように、ゲートの柵の近くに立っていた。
「たまにです。それにするのは、奈緒先輩の話ですよ」
「何それ、私もまぜてよ」
不安げな顔でゲートを出てきた人たちが、家族を見つけて駆け寄っている。
「だめです」
でも、私たちに知り合いが降りてくる予定はない。少しずつゲート付近の人が減っていく中、私たちは同じ場所で立ち尽くしていた。
私はいつか、ずっと先かも知れないけれどここに再び戻ってくる。留学が終わったら。
あと八分。
「私の模試の順位、どこで知ったの?」
みぎわは「佐久間に聞いた」という答えを繰り返さなかった。
「塾の、古い記事で。この塾出身の成績優秀者、ということが書いてありました」
私は確かに駅前の塾に通っていたが、そんな風に記録が残っているとは知らなかった。
「今日、佐久間が来ないっていうのは?」
「鎌をかけました」
悪びれる様子もなくみぎわは言う。
――本当は、こんな話をしたいわけじゃない。
残り時間は少ないのだ。私は、彼女に告白をするつもりで来たのだ。
「じゃあ、私が『みんな都合が悪くって』とか言ってたの、どういう気持ちで見てたの?」
「奈緒先輩」
「バカにしないで」
言いたいのはこんなことじゃなかった。
彼女に見透かされていたのが恥ずかしかった。私は私のなりたいような人間からはほど遠い。楽々とよい成績を取って、軽やかに海外に行く、そんな人間でありたかった。だからそういう振りをした。
でも本当はこつこつ勉強をするのが好きだし、本も読むし、うじうじ悩みがちな人間だ。
だから、好きだという一言も言えない。
「笑ってたんでしょ、年上のくせにって」
すべてをみぎわに見抜かれているような気がした。
時間は砂のようにこぼれ落ちていく。
その一粒一粒が本当は貴重なのに、私はそれを取りこぼす。
「違います、先輩」
「いいよ。わかってるから」
何とかさん、と付近に立っていた女性が叫んでいる。ゲートから出てきた男が彼女に近づき、強く抱きしめた。そんな風に振る舞う自分たちは、想像できなかった。
ここで、私と彼女は行き止まりなのだ。
「もう行かなきゃ」
「……先輩、どうして渡した本、読んでいないんですか」
みぎわがぽつりと言った。
「だからそれは悪かったって。気になるならやっぱり返すよ」
「返さないで下さい」
みぎわは私を強く睨み付けていた。
「ちゃんと、読んで下さい」
それは私が今まで見た中でも、一番強い彼女の視線だった。
「……わかった」
そこまでして私にドストエフスキーを読ませたいのだろうか。それとも、何か遠回しな形で伝えようとしているのか。お前はやさしくないぞと、タイトルで暗に言っているとか。
借りたままにしていても、一体いつ返せるだろうか。私が日本に戻ってくる頃には、彼女も受験生だ。私のことなんてもうすっかり忘れているかもしれない。
あと五分だった。潮時だ。
付近を大きな荷物をかかえた家族連れがカートを押していく。カートがみぎわのカバンをひっかけそうになり、私は慌てて彼女の腕を引いた。
「大丈夫?」
「あ、はい」
私はまだみぎわの腕を掴んだままだったことに気づいて慌てて離す。
「ここ、邪魔になるからもう行こう」
私たちがいるべきなのは到着ゲートではない。出発ゲートだ。
空港には様々な人たちが日々到着し、別れ、そして再会している。
この中に、情熱的な告白をした人もきっといるに違いない。けんか別れした人も。無数の人が行き交って、すれ違っていく。
エスカレーターに乗り、前に立つみぎわの後ろ頭を眺めた。
「ちゃんと、読んで下さいね」
みぎわの最後の言葉はそれだった。
「わかったってば」
私はそう繰り返す。
残りあと四分で、私たちは別れた。告白などもちろん、しないままだった。
・
一時間が過ぎた。私は結局、何も言えないままあっさりみぎわと別れ、搭乗口に来た。
ゲートオープンを座って待ちながら、私は呆然としていた。
今日、告白しようという決意は何だったのだろう。ぎすぎすしたまま、別れてきてしまった。せっかく二時間以上前に空港に着いていたのに。彼女は来てくれたのに。
今から一時間前をやり直したい。でも、やり直してもきっと言えない。
好きなのに。
こんなに好きになったのは初めてなのに。自己嫌悪でいっぱいになる。みぎわは飛行機が飛び立つまで空港にいて見送ると言っていた。まだ同じ空港にいるのだ。でも、私たちの距離は遠い。
涙がこぼれてくる。感動的な告白どころか、まともな別れの挨拶もできなかった。私はちっぽけで駄目な人間だ。
留学も、彼女も諦めたくないと思ったのは確かだった。どちらも心の底から欲しいと思ったのだ。それなのに、今はもう出発したくないとさえ思っている。せっかく両親に留学費用も出してもらっているのに。
――本当に、私はだめだ。
そろそろ搭乗開始時刻だからか、だいぶ周囲は混み合ってきていた。日本人が多いが、英語を喋っている人、もっと別の言語を喋っている人など様々な人がいる。
これから私は一人なのだ。がんばらないといけないのに。好きの一言さえ、言えなかった。
私はカバンからみぎわの本を取り出した。逃げ続けてきたけれどせめてちゃんと、イギリスへのフライト中に読もうと思う。
ファーストクラスの乗客が呼ばれ始めている。もうすぐ搭乗だ。
せっかくの時間を、私は無駄にしてしまった。
みぎわが貸してくれた本を、わざと読まないでいたわけではない。何となく、怖いような気持ちで読めないでいたのだ。読み終わったら返さないといけないせいでもある。
彼女がなぜこの本を私に勧めたのかもわからなかった。私はわりと本を読むけれど、さすがにこれを読んだことはなかった。でもみぎわが選んだものだから、何か意味があるのだと思う。
読んで、ちゃんと向き合おう。そして改めて自分の気持ちを見つめよう。そう思ってぱらぱらと本をめくった時だった。
「あれ?」
最後のページに、紙が挟まっている。とても薄い紙だった。授業でよく使うわら半紙のようだった。こんなものが挟まっているとは気づかなかった。
もし、真面目にその本を読んでいたらもっと早くに気づいたのかもしれない。
シャーペンの薄い字で書かれたそれは、短いラブレターだった。
いつ? わからない。貸してくれたとき? 誰が? そんなの決まっている。私ははっとして搭乗口を見る。エコノミークラスの番号が呼ばれ始めている。私は慌てて携帯を手に取った。
繋がるだろうか。彼女はまだ、そこにいるだろうか。
もう一時間は過ぎてしまった。遅いかもしれない。ここまで来て飛行機に乗り遅れるわけにはいかない。残された時間はあと何秒だろう。祈るような気持ちで私は呼び出し音を聞く。
「はい」
彼女が電話に出た途端、私はすぐに口にした。
「ごめん、好き」
電話の向こうで、彼女は今まで聞いたことのないような声で笑った。
「『ごめん』は余計です」
私のもつられて笑いながら、涙がこぼれるのを感じた。
「今度は、出迎えに来てね」
一時間と、十五分。待ってます、と呟いたみぎわの声は、今まで聞いたどんな声より甘かった。




