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 明朝の清々しい目覚めは久しぶりのものだった。

 ただ、ひんやりとした空気がマリオンを寝台の中に留めている。

 昨日のことを思い返し、マリオンはじわじわとこみ上げてくる恥ずかしさにもだえていた。

 まさか男性にあんな近距離で接することになろうとは!

 寝室まで来たところで、待ち構えていた女中に引き渡された。ということはマリオンが帰城するより先にジェームズはこの状況を考えていたということになる。どれだけ自分が彼に観察されていたのかと不安だ。


 婚約者……、候補……というのもぴんとこない程の日数しか接していないというのに、彼はぐいぐい近寄ってくる。距離感が怖い!

 怖いけど。

 さほど嫌悪を感じていない自分に気がつく。


 そういえば、誰もそんな人間はいなかった。

 孤児院以前のことは覚えていない。孤児院ではまだ自分は幼すぎた。イングラム大公に探し当てられてからは、誰もが次期ユリゼラ公爵として節度ある相対をしてきた。あるいは自分の出生にまつわる好奇心か侮蔑。

 あなたのことを好きだし気にかけていますよ。

 なんて態度は、ヘンリエッタの他にはジェームズくらいしか。


 ……いや、好きって!?

 わたしときたら自意識過剰すぎる!


 マリオンはがばっと勢いをつけて起き上がり、寝台を飛び降りた。寝台の中で丸まっていては恥ずかしいばかりだ。女中を呼んでさっさと身なりを整える。昨日ギャレット家にいってくれたヘンリエッタにも礼を言わなければなるまい。

 外出着ほどではないが美しいドレスに着替え、寒さ避けのショールを羽織ると、部屋を出た。とりあえず書斎に行こうとマリオンは螺旋階段を下りた。マリオンの目覚めを受け料理人達が作る朝食の匂いがする。マリオンはなんとなく匂いに引かれるように降りてみる。厨房は南棟の別棟だ。一番近い部屋は。


 マリオンは閉ざされている一番端の重い扉を開けようとした。しかし、天井近くまで高さがある扉の重量はマリオンの力ではびくともしない。

「おはようございます」

 突然話しかけられ驚いて振り返ると、そこにはもうすっかり身なりを整えているジェームズがいた。


「……おはよう。早いのだな」

「……それほどでも。もう昼近いのですよ。それに、ちょっと気になることがありまして。庭に出ていました」

「なんだ?」

 ああ、とジェームズは何か思い出したようだ。

「そういえばマリオン様がお休みの時間の事件でしたね」

「なにかあったのか?」

「昨日ちょっと。でもその件はまた後で。それよりもその部屋は?」

 マリオンは思いついてその扉を示した。

「開けてくれるか。鍵はかかっていないのだが、なにせ扉が重い」

「喜んで」


 ジェームズが進み出て片手で両開きの一方を押し開ける。それは重々しい音をたて、そしてそれに見合わぬ軽々しい様子で開いたのだった。シナバーの力というのは実に大したものだと純粋に感心しながらマリオンは部屋に入る。

 予想していた風景とまみえた。今まで一度も入ったことが無いわけではない。

 マリオンは東の壁のカーテンを開けた。めずらしく、ジェームズがあっと短く驚きの声をあげた。カーテンの下には目に鮮やかな光があったのだ。


「美しいだろう。立派なステンドグラスだ」

 そのステンドグラスを二人は見上げた。

 東南の一番端のこの部屋は、高い天井の東側の壁に大きくステンドグラスが施されていた。稀少な深い青や鮮明な赤が使われ、この一枚が城内でも特別なものであるということはわかった。

「あまりまじまじと見たことは無いな」

「でも目立つ場所にあるものですから大事なものなのでは?宗教か歴史による画のようですね」

「このような光景は思いつかないが……」


 ステンドグラスの中央に主役として描かれているのは美しい女性だった。艶のある緑色の髪に優しい目を持つ彼女の伸ばされた右手には、一羽の黄金の鷲が止まっている。また右手には先端に黒い玉石がついた黄金の杖を持っていた。女性の背景には青々と茂る葉を持つ巨木が描かれている。


「そんなことも知らないのか、公爵様は」

 ひんやりとした部屋の温度を更に下げるような冷ややかな声がした。二人そろって振り返ってみれば、そこにはいつの間にかエドガーが立っていた。


「どうしてここに?」

 エドガーは恭しく……慇懃無礼に頭を下げた。

「昨日大公夫人が我が家を訪れてくださいまして。大変光栄な話です。大公夫人が忘れたハンカチを届けに来たのですよ。本当にかの方は素晴らしい。どこかの馬の骨とは違う本物の貴族だ」

 暗に、どうしてお前が来なかったと責めているなとマリオンは感づく。多分マリオンが訪問していたとしてもなんらかの嫌味は言うだろう。とにかく自分は気に入られていないのだなと痛感するがどうしようもない。


「昨日は少々体調が悪く、休ませてもらったのだ。ギャレット家には失礼をした。この埋め合わせは必ずしよう」

「大公夫人が起こし下さったのだ。あなたから返してもらうものなどなにもない」

 ……ギャレット一族がマリオンをどう思っているのか、その本心はわからない。貴族らしい礼節に隠されて曖昧だ。ただ、エドガーだけは極めて攻撃的で。

 それは先代公爵……祖父への忠義の裏返しであり、胡散臭い自分は仕方ないのだろうと諦める。ただ、あまり来客のジェームズにこんなみっともない場面を見せるわけにもいかないだろう。


「それで、この風景はなにをモチーフとしているのだ?」

 マリオンが問うとエドガーは馬鹿にしたように鼻で笑ってから言った。

「ユリゼラ地方の古代宗教の主神とその妻だ」

「古代宗教の伝承なんて残っているんですか」


 まるでマリオンの気持ちを察したようにジェームズは口を挟んだ。マリオンより先に口を出すというのも少々礼儀外れであるが、彼が疑問を口にすることで、マリオンの無知がこれ以上責められなくてすむ。

 エドガーはジェームズへの態度をまだ決めあぐねているようだが、少なくともまだ公爵の夫ではないし、かろうじて貴族であるといえるレベルの彼ならばそれほど礼を尽くさなくてもいいと考えたようだった。


「残っている。口伝であるから焚書や戦火も免れた。まあ今となっては老人達がかろうじて把握している程度であって、いずれ消え行くだろうが。一時期国教による弾圧が激しかったが、今は宗教というよりは民話や神話扱いで寛容に扱われている」

「ではこのステンドグラスは相当古いものなのですか?」

「いや、作られたのは先代様だ」

 祖父のことが出てきてマリオンは驚く。エドガーはかまわずに続けた。

「亡くなられる少し前にもともとあったガラス窓と壁を一部取り壊して、ステンドグラスに変えたんだ。相当な金がかかったと聞いている」


 エドガーはまず黄金の鷲を指差した。

「これが主神、アギラ。太陽と光を示す黄金の羽と目を持つ鷲として描かれている。こちらはその妻ヴェルディ。ヴェルディはアギラを休ませることのできる大木……世界樹の化身だ。ヴェルディは世界樹の枝でできた杖をもつ姿で描かれる」

 エドガーはそれから意地悪さを含んだ笑みを見せた。

「先代か先々代まではヴェルディの杖が公爵家に伝わっていたらしい」

「……神話だろう?」

「ヴェルディの杖を模して、大アルビオン統一前のユリゼラ王家が王杓として作ったといわれている。黄金と緑色のダイヤモンドで作られた王家の至宝だ」

「緑色のダイヤモンドとはすごい。歴史的価値も宝飾的価値も資産価値もかなりのものでしょう」

「今は無いんだよ」

 エドガーは肩をすくめてからそっけなく付け足す。


「あんたの父親の生誕祝賀の時にはあったと聞いている。誰かが盗んで持ち逃げしたかもしれないね」

 マリオンの頬にさっと朱がさした。彼が何をあてこすっているのかすぐに見当ついたからだ。

 父親と母親が身分の差を越えてどうして知り合ったのか、イングラム大公に聞いたことがある。彼も全てを知っているわけではないがと前置きした上で教えてくれた。

 母親はたいそうな美女だったらしい、そして公爵跡継ぎであった父親は趣味として美術を嗜んでいた。絵画か彫刻か、何かはわからないが、母親は父親の芸術作品のモデルをやっていたのではないかということだった。

 その確信が持てないのは、父親の作品に人物像が何一つないからだ。彼の作品として残っているのは風景画や静物画が殆どで、幾つか残されている彫刻も馬だけであった。


 ただそういうことであれば母親はこの城に出入りしていた可能性はある。だからエドガーはそんなことを言ったのだろう。

 貧しい女が盗んだのでは?と。


「それは大変なことですねえ」

 マリオンがぎゅっと唇を噛み締めた横でジェームズがのんびりとした声をあげた。

「私はユリゼラは人情のある地方と聞いていましたが、それならば住民達はのんびりとしていて、事件などなにもないようなところだと考えていたのですが、いやはや、そんな盗難などという事件があるようでは治安の悪さは首都と変わりませんね。嫌な時代になったものです。それで以降、何か治安について対策は練られたのですか?」

 おっとりとして嫌味もないが、完全に話題をそらしたことには意図が感じられた。


 エドガーは一瞬虚を突かれたような顔をして言葉を詰まらせたが、しぶしぶとばかりにそれに応える。

「もちろん犯罪に対しての対策は練られている。大アルビオンとしての方針もあるからな。我々ユリゼラ地方貴族としても領民の安寧は望むところだ。公爵もいろいろ考えているようだし。だが王杓事件に関しては未解決のままだ。そもそも亡くなられた先代様が大事にすることを望まなかった」

「なるほど!ではヴェルディの王杓はこの地に眠る謎のままというわけですね。もしかするとまだこの城のどこかにあるかもしれないと考えると子供のようにわくわくします。ああ、これは失礼。一応犯罪かもしれませんから不謹慎でしたね」


 エドガーは苦々しい顔をした。マリオンに対して嫌味な態度をとったことについてジェームズから反撃されたということに気がついたらしい。

 ふん、と一度不愉快そうに鼻を鳴らして、そのまま挨拶もせずに二人に背を向けて歩き去ってしまった。


「……君がそんなに多弁だったとは知らなかった」

 マリオンの言葉にジェームズは飄々と言葉を返す。

「軍時代、嫌な上官がいましてね」

 なるほど、あれは嫌な上官を煙に巻く態度だったというわけか、と察したマリオンは少しだけ微笑んだ。


「ありがとう」

「私は普通にユリゼラの治安についてエドガーにお尋ねしただけですよ」

「そうだな。彼も悪い奴ではないし有能だ。先代が死んで老人連中が右往左往している間、領内を率先してまとめてくれたらしい。それだけにどこの馬の骨とも知れないぽっとでの女公爵など気に入らないのだろう」

「……そうでしょうかねえ……」

 妙に含みのある返事にマリオンは思いきり見上げる形でジェームズを見た。あまりにも身長差がありすぎて普通の状態だとマリオンの目には彼の胸しか見えない。

「何か」

「いいえ」

 ジェームズはにこやかに見下ろした。


「それにあなたは先代のお孫さんなのでしょう。どこの馬の骨という言い方は卑下しすぎでは?」

「この地で生まれ育ち、歴史や伝承にも詳しい彼にしてみればわたしは得体の知れない存在だ。わたしが五歳まで孤児扱いだったことくらいは聞いているだろう」

「ええ、まあ」

 両親が祖父に秘密で出した婚姻届。母が父から渡されたというマリオンの祖母に当たる人物のカメオのペンダントと、イングラム公が始めて会った時に驚いたほど父の幼少時代そのままであったというマリオンの顔立ち、そしてユリゼラ地方特有の髪と瞳の金。それらがあったから親族として認められたが、それでも。


「……きっと祖父はわたしを後継者と認めてはいなかったのだ」

 マリオンの静かな言葉にジェームズはしばらく何も言わなかった。

 マリオンも何を言われたいのかわからない。


 五歳のあの日、突然自分の運命が大きく音を立てて変わった。

 イングラム大公の使いが来て孤児院の修道女と長い時間話し合っていた。その後イングラム大公の屋敷に連れて行かれて綺麗にお風呂に入らされて磨かれて、髪もすっきりと切られて、着替えさせられた先でイングラム大公と出会った。

 彼は「ああ、君は小さい時の父上にそっくりだよ」とうっすら涙目で言ったのだ。

 けれどそれ以降もけして祖父に会うことはなかった。妻はとうに亡く、さらに息子が夭折して今後を案じた彼が孫をイングラム大公の手を借りて探し出したのだと言う事はやがて知ることが出来たが、最後まで祖父には会えなかった。


 「学校を卒業した頃には」と大公も不安げに説明したがその前に病で祖父はたった三日床についただけで亡くなってしまったのだ。死に目にすら会えなかったし、真夏だったため遺体の腐敗を恐れ、葬儀はあっという間に執り行われてしまった。マリオンが着いた時にはすでに何もかもが終わっていた。

 そして母も父も祖父も知らないまま、広大な領地と公爵位、そして財産だけがマリオンのものとなった。


「グリーンダイヤモンド」

 マリオンの暗い記憶から気をそらしたのはジェームズの呟きだった。

「どうしたんだ?」

「どうしてこのステンドグラスは女神の杖の宝玉が黒いのかと」

「……そういえばそうだな」

 アギラは眩い黄色。ヴェルディの髪は鮮やかな緑、空ははっとするほど明るい青、それぞれ鮮明に色ガラスが使われているというのに、肝心のヴェルディが持つ杖の先端の宝玉だけが黒い。


「何か注文時に手違いがあったのだろうか」

「伝承を知るものも少なくなっているとエドガーは言っていましたからそういうこともありそうですね」

 すでに天高い光に照らされてステンドグラスは実に美しい。しかしマリオンはやがて再びカーテンを閉じた。


「何か食べたか?」

「いいえ、まだ」

「では一緒に朝食でもいかがだろう。そのあとに約束していたように古城にいってみようじゃないか」

「別に無理して今日じゃなくても」

「いいんだ。今日は天気もいいし。ステンドグラスがあるから見えないが、実は古城はこの城のまっすぐ東なんだ。もしこれがステンドグラスじゃなくてただのガラスなら、この窓からきっと古城が見えていた。それを思い出したんだ」

「そういえば先程庭を歩いているときに古城の姿が見えました」

 その言葉にマリオンは今日出会って一番最初のジェームズの発言を思い出した。


「庭で何をしていたんだ?それに何か報告があるとか」

「ああ」

 ジェームズは頷いた。

「昨日、スコットが庭を散歩していたんですが、城の高い場所にあった鉢植えがいきなり落ちてきて、危うく大怪我をするところだったんですよ」

 こともなげな彼の言葉を理解した瞬間マリオンは叫んでいた。

「早く言え!」

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