4
「本当にご迷惑をおかけしました。母に代わってお詫びします」
ジェームズの礼儀正しい語り口に、マリオンは先日の一件を思い出すのをやめて顔を上げた。彼は穏やかな笑顔のままマリオンを見下ろしている。
「どうしてあなたが私を招いたのか……イングラム大公夫人を間に挟んでまで、私の顔が見たかったのはわかりかねます。しかし、結果はいくらなんでも想像はつきます」
ジェームズはマリオンを拒んでいるのだ。マリオンにはじわじわと染みるようにわかった。彼がここに来たのは、自分が公爵家の一員になれる可能性について喜んできたのではなく、ただ、母の無礼を詫びるためだったのだ。
ヘンリエッタは、静かに二人を見守っているようだった。マリオンが都まで行くことが叶わなかったため、彼を案内してもらったが、その顛末については口を挟む気は無いようだ。だが経緯を夫に報告するという義務感から二人の会話を聞いている。
「実は、こういった売り込みは、君の母上が初めてではないのだ」
マリオンはにやりと笑ってみた。ふいに要点を外したマリオンの言葉に少しだけジェームズの表情の緊張感が和らぐ。それが失望か期待かはわからなかったが。
「結婚式当日に花婿に逃げられたぼんくらな花嫁に、いったいどれほどの需要がと思ったが、それでもさすがに公爵の配偶者という地位は魅力的らしい。それとなくいろいろな男性から誘いを受けた」
「そこまでお分かりなら聡明な方ですね」
「『自分はこの地をあなたと共に守り立てることが出来る』という主張が一番多かったな。なるほどそれは便利そうだと思ったが、どうにも彼らの熱い視線が気になって」
「熱い視線?」
「彼らの視線は、わたしではなく、公爵家の財産に向いているのだ。もちろんそれも当然だと思うが、そういうのばかりだと若干気が滅入る」
「私も同じですが……」
「でも思うのだ。ベルティ夫人は公爵家の財産など見ていない。それによって救われるはずの息子しか見ていないんだ。皆、命というものはあって当たり前だと思っている。何をするのかしたいのか、それに役立つ財産はどこだという調子だ。だからちょっと変わっていて面白いなと思ったんだ。だからベルティ夫人の勧める君を見たくなった」
一瞬考えてやめた言葉が一つある。
自分がどれほど嘲笑われることになろうとも、息子のために無茶をしたベルティ夫人、その愛情というものに興味が湧いた、など……どうにもわたし自身が惨めっぽい。
「……しばらく滞在したまえ。どうせ冬はつまらない。客人がいてもいいだろう」
「私はあなたの夫になるつもりはありませんよ?」
「結構結構」
マリオンはあっさり笑った。
ただ、マリオンはしばらく見ていたかっただけだ。愛されて育った人間というものを。
と、その時客間の扉がノックされた。そのまま返事を待たずいきなり扉が開き、若い女中が紅茶のセットが乗った銀のトレイを掲げて入ってきた。その女中の顔を見て、マリオンはひそかに呆れた。
……まったくもって好奇心旺盛な。大公夫人やマリオンの夫候補が見たいなどという仕方のない理由で出てきてしまうとは。
ふいにヘンリエッタが勢いよく立ち上がった。そのまま彼女は女中を凝視しながら叫んだ。
「……ど、どういうことですか!」
おや、とマリオンは舌を巻いた。
さすが社交界をしきるイングラム夫人、人の顔を覚えるのがこれほど得意だったとは。
「だめだってば、君に女中の真似事なんて無理だ!」
そういって飛び込んできたのは、まだまだ若い青年だった。彼を見たヘンリエッタは今度はさっきの勢いなど嘘のように長椅子にへなへなと座り込む。呆然とした表情で二人を眺めヘンリエッタは深いため息をついてから言った。
「……どういうことですか、マリオン」
「ヘンリエッタに言うつもりはなかったんだ。これは伏せておこうかと」
マリオンが少し言い訳がましく言うと、顔を向けたヘンリエッタは鋭い目で睨んだ。
「いいから事実だけおっしゃいなさい!」
ヘンリエッタの勢いにジェームズだけがわけがわからないという顔でぽかんとしている。そう、あの時聖ヴァレリー大聖堂にいなかったジェームズだけが。
「……どうしてここに、スコット・アシュトンと、あの女がいるんですか!」
「は?」
間抜けな声はようやく状況が飲み込め始めたジェームズだ。
「まさか」
「や、やあ」
後からやってきた青年は控えめに頭をさげた。
「はじめまして。僕はスコット・アシュトン。こちらはネル・ダーシー」
手の平で指し示された女中の身なりをした若い娘は、得意げに笑う。彼女の悪びれない態度はここに来た時から変わらない。花婿を略奪した相手であるマリオンに対しても、だ。その図太い態度には少々マリオンも呆れるが、今考える事はそれではない。とりあえず、今にも卒倒しそうなヘンリエッタを何とかしなければ。ヘンリエッタは何一つおかしくない。異常なのは確かにこの状況だ。
「まあ見たままお分かりかと思いますが、わたしがこの二人を匿っています」
「どうして!」
「いや、スコットはきっと実家をもう頼れないだろうと心配して探してみたらなんとか見つかったので。婚礼の一ヶ月後くらいでしたか。話を聞いてみたら、やはり生活に困窮していたようなので、とりあえずこちらに身を寄せたらどうだろうとお話しました」
「どうして!」
「スコットは友人ですから。困っていたら助けたいと思うものです」
マリオンは極力平坦に、そしてにこやかに説明した。自分が非常識なことをしているという自覚は当然あるのだが、かといって今更引っ込みも付かない。ならばヘンリエッタを煙に巻いてしまえという思惑である。
「どうして……」
「ヘンリエッタ、聡明なあなたですのに、先ほどから『どうして』ばかりですね」
「マリオン、ふざけている場合ですか!」
「ああ、そういえば紅茶を持ってきてくれたんですよね、ネル」
「別に持ってきたわけじゃないわ。大公夫人の顔を見たいと思っていたから、この部屋に入る口実が欲しかっただけよ。そんな高貴な人間なんてあたしみたいな身分じゃ見る機会なんてないから。めずらしー」
ネルは取り付くしまもないそっけない口調で答えた。そのまま無遠慮な視線でヘンリエッタをじろじろ眺めると一応満足したのか、そのままあっさり背を向けて出て行ってしまった。なっていない置き方でティーセットの乗ったトレイを残して。
彼女はこの城でスコットの紹介で引き合わされてからずっとこの調子だ。普通助けてくれた相手にはそれなりに敬意を払うものではないかとも思うが、一方でネルの面白くないという気持ちもマリオンにはわかる。
彼女にとってマリオンは『公爵』だからというだけで、自分の愛するスコットを手に入れようとした女だ。それだけでも腹立たしいのに、ましてやそんな相手に助けられている現状はまったく納得できないものだろう。もともとネルは自尊心の強そうな相手だ。
こんな状況になるのが嫌なら駆け落ちなどしないでもっとよく考えればいいのに、と思ういじわるな気持ちもマリオンにだって無くは無い。だが後先見失ってしまうほど彼を愛しているのだとすれば、彼女の真剣さにマリオンは責める気持ちを失ってしまう。その情熱は確かに自分がスコットに対しては持っていないものだからだ。
だからマリオンはネルの発言に対しては苦笑いで流すだけだ。
スコットはヘンリエッタの出て行った扉が閉まるのを見てからその場に跪いた。
「本来であれば、大公夫人の前に出られる立場ではありませんが、一言お詫びを申し上げたく伺いました」
「……スコット。あなた自分が何をしたのかわかっていらっしゃるの」
ヘンリエッタは落ち着きを取り戻しながら、スコットに声をかけた。おそらく怒りはあるだろうが表情からは読み取れない辺り、さすが貴婦人の鑑というだけある。
「わかっています。今はユリゼラ公爵の慈悲にあずかっていますが、それが許されないということももちろん。なるべく早く出て行こうとは思っています」
「出て行ってどうするんだ、スコット」
マリオンは肩をすくめた。
「ネルは画家だと聞いた。最近あちこちの貴族に肖像画を頼まれて名を上げ始めていた。スコットと知り合ったのも、アシュトン家の肖像画依頼がきっかけだろう。だからと言ってこんな状況ではネルも仕事ができるわけじゃない。どうやって食い扶持を探す」
「仕事の貴賎を考えなければなんだってできるはずだ。なんなら肉体労働だって……」
「やめて!勘当されたとはいっても貴族の子弟がそんな下賎な仕事なんて」
ヘンリエッタは叫ぶように言う。マリオンは畳み掛けた。
「まあそんなわけです。ヘンリエッタ。あなたにこの件を黙っていた事はお詫びします。でもわたしも古くからの友人が苦労するのは忍びない。彼ら二人が落ち着くまでどうか大公や社交界には御内密に」
「言えませんよ……こんなこと……」
がっくりと俯いてしまったヘンリエッタとは逆にマリオンは少しばかり上機嫌だ。ネルが出てこなければバレなかったのに、と思うが、結果的にはヘンリエッタをうまい具合に巻き込むことができた。
「ヘンリエッタ、せっかくですからお茶を飲みましょう。スコットもまあ座りたまえよ。それに」
マリオンは窓際でことの推移を見守っていたジェームズに微笑みかけた。
「花婿候補殿も」
複雑な事情を見られてしまったが、そんなことで逃げ腰になる相手なら別に用は無い、とっとと実家に戻れとばかりの笑顔だ。多分ジェームズにも伝わっている。
「頂きましょう」
ジェームズは、マリオンの想像よりもはるかに落ち着いた様子で微笑を返してきた。そのままテーブルのほうに歩み寄ってきた。立ち上がってどういう表情をしようかまだ迷っているらしいスコットに手を出しだし、物怖じしない。
「よろしく。ユリゼラ公爵マリオン・スクライバー様の婚約者候補のジェームズ・ベルティだ。君が駆け落ちしてくれたお陰で私にも縁が巡ってきた。感謝します」
なかなか根性は座っているようだ。
マリオンは自らティーポットから紅茶を注ぎながらジェームズを観察している。しかしどう考えてもこの会合は正気じゃない。
逃げられた花嫁、逃げた花婿、打算の後釜候補。
唯一まともだと思えるヘンリエッタの様子を見れば、彼女は案の定疲れきった顔をして三人を眺めていた。