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最後にジェームズが一蹴りすると、大木はまるで小枝のように一回転して、線路上からどくと、ぬかるんだ草原に安定して横たわった。車掌の下に戻ってきたジェームズは汗一つかいていない涼しげな表情で爽やかに微笑むと手を出した。
「ありがとうございます」
「……あ、ああっ、はい、いえこちらこそ、ありがとうございます!」
目の前の光景に呆然としていた車掌はジェームズの差し出された手に最初怪訝そうな顔をした後、慌てて預かっていた上着を返した。
ジェームズの手にかかれば大木の移動など大した手間ではなかった。巨木だけあって良く伸びた枝には少しだけ手こずらされたものの、その重さについてはものともせず、ジェームズは線路を塞いでいた大木をその両手の力だけで取り除いたのだった。借りたロープで木を括ってしまえばあとは簡単な作業だった。いつの間には列車から一旦降りた客達がただの野次馬と化し、ジェームズが大木を引きずって動かしていくのを大騒ぎしながら見守っていた。
無事線路から障害物が取り除かれた時には誰からともなく拍手が沸きあがった。それをジェームズは苦笑いして受けとめながら背広を羽織る。
「まあジェームズ!」
列車から優雅な足取りで降りてきたのはヘンリエッタだった。
「こんな乱暴なことをして!」
「でもそうではなければユリゼラへ着くのが一体いつになることか。汽車が動かなければ皆も不自由でしょうし。大丈夫です、服は汚していませんよ」
悪びれないジェームズにヘンリエッタはため息をついた。
「髪の毛が乱れていますよ」
「駅に着くまでには直します」
ジェームズが言った時だった、向かいにいた車掌とヘンリエッタの表情が変わった。ジェームズの背後を見てのものだと察して彼は振り返る。
ゆっくりと馬に乗った人物が一人、近づいてくるところだった。
「マリオン……!」
ヘンリエッタの息を飲むような言葉に、馬上の人物に対してジェームズは見入った。
ユリゼラ公爵マリオン・スクライバー。
……それはまだ少女だった。雲間から差し込む一筋の光にも似た明るいプラチナブロンドの髪と金色と言っていい琥珀色の瞳。ユリゼラ地方にのみ見られる稀少な淡い色彩を持った少女は馬上からジェームズを見下ろした。
大公夫人とユリゼラ公爵とどちらが地位は上だっただろうというジェームズの常識的な思考は一瞬で粉砕された。
「マリオン!またそんな格好をして!だめでしょう!」
まさか大公夫人が、姉が妹に向けるように怒鳴るのを聞くことになろうとは。
そういえばヘンリエッタもまたマリオンの後見人であったと聞く。一喝されたマリオンはあまり堪えた様子もなくひらりと馬から下りた。確かに女性が男性用の乗馬服を着て馬に乗ると言うのは貴族の娘らしからぬ行動である。その金髪も結いあげているのではなく首筋で短く切り揃えられているのだということに気がついて、ジェームズは、この少女は少々変わり者なのではなかろうかとうっすら感づいた。
そしてなにより、眼鏡がひどい。かなりひどい。
ジェームズは密かに思う。その分厚いレンズの間抜けな眼鏡が彼女の愛らしさを台無しにしている。
「こんな姿で申し訳ありません。なにせ領内の線路に大木が倒れたという話を聞き、一刻も早くと駆けてきたもので。領主としても心配ですがわたし個人としても大公夫人が心配で、いてもたってもいられず」
一定の調子で話す態度は年に似合わず落ち着いたものだ。
「大公夫人がこちらまでお越しくださって、わたしはとても嬉しいのです。歓迎いたします」
それなのにひらりと頭を下げる様は花びらが舞うように優雅で軽やかだった。
彼女はジェームズを見て、歩み寄ってきた。態度はかなり大きなこの少女は、顔が小さく四肢は長く、均整の取れた体格ではあるがとても小柄だった。ジェームズは礼儀も忘れて思い切り見下ろしてしまう。一方マリオンもジェームズの視線をまっすぐ受け止めるように見上げた。
「やあジェームズ・ベルティ」
マリオンは数ヶ月前の花婿トンズラ事件などまるでなかったかのような鮮やかな笑顔でジェームズに手を差し出して握手を求める。
「わたしがマリオン・スクライバー。歓迎するよ、わたしの花婿候補殿」
小柄で華奢な公爵といかつい顔で大柄な花婿。
その場を目撃した列車の乗客乗員は、同じ印象を幻視の様に皆抱いていた。
ああ、金の小鳥と黒い熊のようだ、と。
ユリゼラ公爵城は広々とした平地にある。
大アルビオン連合王国は、三百年前に統一王の手によりアルビオン地方の四つの小国を主として統合された。その際各小国の王家は連合王国公爵として生き残ったのだった。それぞれ独特の文化があったというが、統一後の人や文化の交流や焚書や国教の浸透、教育の結果などもあり、地域の独自性の大部分は失われてしまっている。
ユリゼラも戦乱の時代には国の要所として要塞化されていた城を多数持っていたが、今は大アルビオンにとって重要なもの以外は手付かずのまま朽ちていくばかりである。現公爵邸ももとは王家の狩りのために使われていた小さな小屋のような別荘だったが、地の利が良いこともあって、数代前から順次改築が行われ今となっては非常に立派な城となっていた。
統一前の古城は、今は鉄道が通っている渓谷の上に張り付くように立っているが、それも放棄されていた。
「まあ人は居心地の良い場所を好むものだ」
マリオンは自分の城を前にしてそう言い放った。
停止した列車の前でジェームズとヘンリエッタを出迎えたマリオンは馬車を用意していた。巨木は簡単にどけたが、その後、線路が歪んでしまったことが鉄道技師の目によって確認された。仕方なく乗客は鉄道会社が用意した馬車を待つことになり、二人はそのままマリオンの馬車で城に向かうことになったのだった。
人工的にひかれた水路による池を前に佇むユリゼラ公爵城は実に堂々とした石造りの建物である。
「わたしもここに住んでそれほど長くないのだが。もしかしたらわたしの知らない秘密の通路やらもあるかもしれない。とりあえず秘密の小部屋は見つけた」
とつけたしてみると、城の姿に見入っていたジェームズ・ベルティは一瞬だけマリオンに目線を向けた。しかし自分の好奇心を恥じたようにすっと目をそらす。
どうやら花婿候補殿は無口な人らしい。
マリオンは内心で頷いた。
……正直、結婚したという実績さえあればあまり花婿殿の性格には頓着しないつもりだ。まあ野心的過ぎるとすれば面倒くさいので出来れば避けたい。そもそも男性になどあまり期待もしていない。女性の嫌な点ももちろんわかっているが、男性の面倒くささも充分知っている。それは七歳から十五歳までの学生生活で思い知った。
結婚をしたほうがいいのかどうか、マリオンには正直わかりかねるが、でも祖父があれほど段取りしたことなのだから、相手は代わってもするべきなのだろうとぼんやり考えている。
時々スコットのように、マリオンを女だからというだけで見下さない稀有な人間もいるが、極少数だろう。そしてそういうありがたい人間はなんと婚礼当日に駆け落ちするというとんでもないことをしでかしたのだ。
人というのはとにかくわからない。
マリオンは冷めた諦観を抱えている。
「さあ、中にはいりましょう。昼はともかく夕刻になればすぐに風が冷えます」
マリオンはヘンリエッタに示した。花壇や植木によって左右対称の幾何学的な模様が描かれた庭園を横目に見ながら、城内に入る。
石造りだがその中はこの地方特有の毛足の長い織物が壁にかかっていたり床に敷かれていたりと寒さ対策は万全である。ジェームズとヘンリエッタを迎えるに辺り、温かく過ごせるように精一杯準備したつもりだ。
南側の最も庭が良く見える中央のホールに案内する。マリオン一人のためにはこの城はあまりにも広く、現状使っていない部屋が多いのである。一階の南側に庭に面して並ぶ部屋は扉でいくつも区切られている。この扉を全て開け放てば巨大なホールとなり、舞踏会も開くに困らないのだが、使う状況も無く、部屋は区切られたままだった。
長旅で疲れてしまったわ、とヘンリエッタは長椅子に座り込んだ。それを労わり、女中に茶の仕度を命じてからマリオンはガラス越しに庭を見ているジェームズに近寄った。
「お母上のご容態は?」
「……元気なんですよ。もし御心配をかけていたら申し訳ありません」
ジェームズは苦笑いだ。
だが彼の表情にマリオンは自分にはあまり縁がなかった家族の温かみを感じた。
「……それはなによりだ」
マリオンはなるべく自分の内心を悟られないように、穏やかな笑顔を浮かべながらそう気遣った。
ジェームズの母親が、ユリゼラ地方を訪れたのは今から三ヶ月ほど前のことである。一応事前に連絡をしようとする気遣いはあったようだが、なにせ辺境である。マリオンが、その手紙の中身を読み、さていかように断りの文言を書こうか思案しているころには、彼女はユリゼラ城の前にたどり着いていた。
来てしまったものは仕方ないとマリオンは彼女と面会することにした。ジェームズの母親は、痩身ですでに白髪の老女だった。かなり年取ってからの末の息子であるのだと彼女は語った。
「どうか、私の息子をあなたの夫に」
手紙の内容と同じに、そう告げた彼女は、老いなど感じさせない強い言葉と表情を持っていた。
「その件だが」
今と同じ客間だった。彼女は長椅子に腰掛け、マリオンはその向かいで彼女の言葉の行方を見守っていたのだ。太陽が今よりはるかに強い光を注いでいた季節の話である。
マリオンが断りの言葉を発しようとしたのを遮って、彼女は続けた。
「私のことは頭がおかしいとでも思われるでしょうね」
「そんなことは」
「いいえ、私だってこんな事はどうかしているとわかっています。仮にも公爵家に我が家のような末端の貧乏男爵家の息子を婿に出そうとするなんて。でも私にはこれしか手段が無いのです」
彼女なりに、自分の行動の愚かさは理解しているとだとわかったマリオンは、つい口を挟むことが出来なくなってしまった。この行動が非常識だと身内に罵られても、社交界で噂になって貶められようとも、彼女はどうしてもこうせざるを得なかった。
まるで自分のようだとマリオンは口を噤む。
「手紙にも書きましたが、私の息子はシナバーです。いかほど強い力を持とうとも、彼が人を殺すなど、私には耐えられない。もちろん殺されることも。もともと軍人にも反対でしたが、私達親に彼の学門へ進む道への資金を用意できなかったがゆえに、彼はそうしてしまった。今でも後悔しています」
「あなた方が精一杯子供育てたのであれば、悔いることでは無いでしょう」
「自分の力が足りないことを悔やむ事はあるのです」
ジェームズの母親は寂しそうに微笑んだ。
「ですからこれは私の個人的なわがままでのお願いです。家族は何ひとつ知りません。どうか息子ジェームズをあなたの夫としてください」
「それはあなたが何を望むために?」
マリオンは遠慮なく切り込んだ。おそらく回りくどい会話などこの御婦人は望んでいないだろうとわかったためだ。案の定、ベルティ夫人は澄んだ目で怯むことなくマリオンを見つめ返す。
「ジェームズの士官学校の奨学金を肩代わりしてください。それであの子は自由になれる」
「借金を返したからといって、シナバーである以上、最大の重荷である国家緊急時の徴兵は免れないだろう?」
「それでも最前線は避けられるかもしれません」
それは答えになっていない。そう考えてマリオンが沈黙していると、ベルティ夫人はため息をついて答えた。
「……息子の性格の問題です。きっとあの子は自分が軍人であれば、そのほかのシナバーを守るために自身が戦うべきだと考えて、最大に危険な場所に一人で踏み込むでしょう。それが恐ろしい」
「ではもう一つ。彼の利点はわかったが、それに対してわたしには何かメリットがあるのだろうか?」
ベルティ男爵夫人は迷いも無く告げた。
「息子はあなたの良き味方となるでしょう」
凛とした表情でいう夫人の言葉に現実的な説得力はなかった。しかし。