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 今朝の盗賊騒ぎのお陰で城内は手薄だ。

 ジェームズとスコットは盗賊連中を連れて警察と共に町に向かってしまっている。エドガーは昨晩負った怪我のため、城内の部屋でまだ眠っている。使用人も残ったものは仕事で忙しい。

 慌てて城内に飛び込み中央の大階段を上るところでさすがに女中の数名とすれ違った。彼女達は主人の慌てた様子に驚いていたが、マリオンは声をかけなかった。

 かけるべきか?と思ったが、ヘンリエッタが大公夫人であるという立場を考えた時に大事にするのは気が引けた。


 大階段を駆け上がり、尖塔のある北棟の廊下をかける。狭くなった通路の先には更に細くなった階段が、そしてそこを超えれば階段ですらない、ただ梯子がかかっているだけの尖塔への上り口があった。

 国内の情勢が危ういときには見張り台として使われていたが今はその役目を果たさなくなって久しい。しかし落ちれば死ぬ高さは今も間違いなく持ちえている。


 頼り無い梯子を登ってみれば、吹き抜ける風がマリオンの短い黄金の髪を巻き上げた。この間ネルと話した屋上も高かったが高さで言ったらこちらのよほど高い。屋上に出てみればすでにその場にいる三人で一杯になってしまうような手狭な見張り台だった。


「ヘンリエッタ!?」

 マリオンは叫んで手を伸ばした。あと少しでヘンリエッタのドレスの裾がつかめてしまいそうな距離だ。

「触らないで!」

 振り返ったヘンリエッタは血走った目でマリオンを睨んだ。ネルはその向こうで境に押し付けられてばたばたと暴れているが、腰まで外に出てしまっているような状況だ。必死に岩で出来た縁をつかんでいるが特にでっぱりなどもなく、姿勢は不安定すぎた。


「ヘンリエッタ、落ち着いて」

 マリオンは一度大きく息を吸った後、なるべく物静かな口調で話しかけた。

「そんな乱暴なことをして、どうしたというんですか」

 そろそろと動いてヘンリエッタの背後からなるべくお互いの表情がわかるように横に出て行く。

 ヘンリエッタはその紅の塗られた唇をきゅと引き結んでいた。いつもの冷静で穏やかな彼女の表情ではない。


「その場所は、危ないでしょう?」

 しかしこんなドレスを着て良くぞあの梯子を上ったものだと思わず感心してしまう。ネルは裾をしっかり捲り上げそうだがヘンリエッタはそんな「品のないこと」はするまい。

「ヘンリエッタ」

 繰り返される言葉にヘンリエッタはようやく口を開く気になってくれたようだった。


「……ずるいの」

 子供が駄々をこねているような呟きだった。マリオンはその弱々しい口調に思わず息を止めてしまう。


「ずるいのよ。なんでわたくしはだめでこの娘ならいいの!?」

 驚くような言葉にマリオンは目をしばたかせた。一体何を言っているのか、とっさに言葉が理解できない。最初によぎったのは、まさかヘンリエッタはスコットを好きだったのかということだったが、それがとんだ見当違いだということにはすぐ気がついた。今までにマリオンが捕らえていたいくつかの奇妙な説明のつかない事象。それがヘンリエッタのたった一言で全て組み合っていく。


 社交界については相当の情報を持ちえているであろうヘンリエッタが、知らないと言った過去の貴族の駆け落ち事件。

 とても彼女が持つに相応しくない、安っぽい指輪。

 そして、引き裂かれていたネル宛の手紙……。ああ、あれはネルが見た後で証拠隠滅のために隠したのではなく、ヘンリエッタがネルに先んじて読み、引き裂いていたのではなかろうか!


「……ヘンリエッタ、あなたはもしかして、かつて駆け落ちしたのか。身分違いの相手と」

 マリオンは一言一言を区切るようにはっきりと告げる。ヘンリエッタの肩は大きく震えた。ネルを押していた力はその一瞬、緩んだのだろう。ネルは力を振り絞ってヘンリエッタを突き飛ばすように塔の外側から、こちら側に身を戻してきたのだった。あっ、とヘンリエッタは短い声をあげる。勢い余ってお互いにぶつかり合って、三人は塔の狭い最上部の床に転がった。


 ネルもさすがに塔から突き落とされかけて、真っ青な顔をしている。相当力をこめていたのか、肩で息をしていた。ヘンリエッタも呆然と床を見つめている。

「……あなたはネルに嫉妬を」

 マリオンはまさかそんなことは、とどこか半信半疑のまま問いかけた。今までの不可解な出来事は確かにこの結果を示しているように思える。しかしマリオンの知るヘンリエッタ・イングラム大公夫人にそんな過去は実に不似合いで、とても想像がつかなかった。


 そしてそれ以上に、視野に入れることすら思い至らないような平民のネルに、ヘンリエッタが嫉妬など。

「……わたくしの時代には、どうやって出来ないことだった。わたくしだって、駆け落ちしてもいいくらい好きな相手はいたのよ!」

 ヘンリエッタの悲鳴じみた言葉に、普段、放つ言葉は痛烈で遠慮のないネルも口を挟むことが出来ない。


「駆け落ちしたけど逃げ切れなかったのですか」

 ゆっくりと顔を上げてマリオンを見つめたヘンリエッタの瞳はそれを肯定した。彼女は短く言葉を切って話し始めた。

「もともといずれ大公に嫁ぐ事はほぼ決まっていたから、そんな駆け落ちがあったことすら内密にされたの。醜聞ですもの……。ハワードはきっと知らないわ」

「後ろめたいの?」

 ネルが呟くように尋ねると、ヘンリエッタは少しだけ首を傾けた。だが肯定とも否定とも取れる曖昧なものだ。


「わたくしに残されたものは彼がくれた小さな指輪だけ。彼の行方はそれからもうずっとわからないの。でも、長い年月が流れて、ハワードと実りある夫婦生活を送って、子供も生まれて、全てもう遠い思い出にしたはずだったのに」

 ゆっくりと語るヘンリエッタの遠くを見つめる瞳からは静かに涙が零れ落ちていた。


 ……ああ、これほどに地位も知性も経験も持ちえた豊かな女性でも、過去の記憶で涙を流すのか。

 マリオンは今あった殺人未遂もよりも強く衝撃を受けて彼女の涙を見つめていた。だがヘンリエッタはまだ憤りを……一体何に対する憤りなのか、彼女自身もわからぬままに、その感情をネルにぶつける。


「この娘が現れたせいで!」

「ネルよ」

 むっつりとネルは言う。

「あたしがうらやましいなら、せめてあたしの名前くらい覚えたら?」

「……どうしてあなたはそうやって、世界の全てが自分の手にあって当たり前な顔をしているの」

 ヘンリエッタの言葉は言いがかり同然だ。


「わたくしは本当に欲しかったものだけは何一つ手に入らなかった」

「あたしだって命より大事なスコットのために、命に等しく大事な絵を手放した!」

 ネルはその言葉に一気に激昂する。

「あんたは何だって持っているのに!」


「それでも彼は手に入らなかった。わたくしの勇気が足りなかったせいだとは言わせない。二十年前は今よりずっと身分の違いは重かったのよ。それに女性の地位だってずっと低くて。だからわたくしはそういったものを変えるために得られた地位を持ってやれるだけのことはやってきたわ。そうやって納得して。わたくしの中ではあれは過去のことだったのよ。どうして今になってここまで心が乱されるのか、わたくしにだってわからない!」


 直接ネルに関わらなくとも、大学に女性が入学したり識字率があがったり、ヘンリエッタの行動が社会の在り様を変えたこともそれはまた確かだ。そんな行動を起こしていたヘンリエッタだから「愛した男性と多少強引な手段でも一緒にあろうとする女性」見て、自分が嫉妬するなんて思いも寄らなかったのだろう。

 まだ恋も知らないマリオンにはヘンリエッタにかけるべき言葉を見つけられない。


「幸せそうなネルを見るとどうしても怒りを感じてしまう。ネルは悪くないとわかっているのに。どうして今の時代なら許されて、わたくしの時代は許されなかったのか、それがうまく理解できない。わたくしだって彼がとても大事だった!」

 わあっと、何も世を知らない娘のような勢いで冷たい床に身を伏せてヘンリエッタは号泣し始めた。


 マリオンはネルの様子をうかがった。ネルはヘンリエッタをじっと見ていた。誰も言葉を発しない無言にマリオンは必死で考えた。

 ヘンリエッタの恋心はずっと心の中で眠っていたのだろう。彼女はさまざまな行動によって自分の過去を思い出にしたつもりだったが、ネルの登場によってそれは現在の生々しい感情となって噴き出してしまったのか。

 今朝の、ステンドグラスから注ぐ輝かしい光を見つめるネル、そしてスコット。寄り添う二人の姿が、ヘンリエッタの心に最後の楔を打ち込んだのか。


「梯子をはずしたのはわたくし」

 しゃくりあげながらヘンリエッタは小さな声で告白した。床に伏しているせいで声はくぐもって良く聞こえないが、彼女の後悔と混乱は理解できた。

 梯子?とネルと顔を見合わせた。そこで、マリオンは風邪をひいて寝込む原因となったあの屋上から降りられなくなった事件を思い出す。


「ネルの姿しか見えなかったから、まさかマリオンまで屋上にいるとは思わなかったの」

「じゃ、じゃあ、まさかいろいろと他にも……まさか、あの落ちた鉢植えは」

「あの場所をネルが毎日同じような時間に通ることは知っていた。前日に二人仲良く歩いているのを見かけてしまって、どうしても怒りを抑えられなかったの。階下は良く見えなかったからネルかと思って鉢植えを落として。あの時は傷つけるつもりじゃなかったのだけど……」

「その日はたまたまスコットだったのか」

 マリオンはため息をついた。そして続ける。


「……ネルの手紙が破かれていたのは」

「……返事の中身までは知らなかったけど、ネルが友人に助けを頼んだことは知っていた。それで助けによって完全にスコットと一緒に生きていく道筋ができたら、と思うと、どうしても嫉妬で……ずるいなんて思ってしまって……」

「だから破いたのか……」

 ネルは短く声をあげて皮肉っぽく笑った。


「あれさ、もう一度手紙を送って返事をもらったよ。断られたんだ。それどころか、貴族の坊ちゃんとくっついたなら、こっちに金貸してくれって逆に言われたくらいだったんだ」

 ネルはあっけらかんとして言う。

「うまくいかないな」

 口調の明るさのわりにネルの目にもじんわりと切ない涙が滲んでいた。

「今の時代だって、あんたの言うほど楽じゃない」

 責めるのかと思ったが、ネルは違う言葉を続けた。


「うまくいかなくてごめん」


 聞いたこともないネルの謝罪に、ヘンリエッタは顔を上げた。

「きっとあんたは自分の過去を教訓に、いろいろ次の世代のために道を切り開いてくれたんだろう。それなのに、期待された次の世代のあたしがうまくやれなくて悪かったね」

 悪かったね。

 意外なその言葉をヘンリエッタは噛み締めるようにネルを見つめていた。

 ヘンリエッタの中で閊えていた何かが、ごとんと音を立ててあるべき場所に落ちたような顔だった。


「ヘンリエッタ」

 マリオンはそっと手を差し伸べた。いつも差し伸べてもらうばかりだった、相手に。握った手は涙で湿っていた。


「あなたがもし本当に、過去の恋を完遂できなかったことを悔やんでいるのなら。わたしがあなたの手助けをするからやり直してみようじゃないか。その相手を探してまた会いに行けばいい。イングラム公がなんといおうとわたしはあなたの味方をする。イングラム公にも世話になったが、あなたにはもっと大切に、妹のように助けてもらったのだから。でもあなたはそんなことを望んでいるのか?」


 ときどきぎこちないヘンリエッタとハワードだが、世の中には完全にすれ違い、それを正す気もない貴族の夫婦など珍しくない。それに比べたら二人の関係はよほどまともに思えた。うまくいってないとすれば、それはヘンリエッタの罪悪感のせいだ。ではどうして彼女はハワードに罪悪感を抱くのか。

 それこそハワード・イングラムを愛しているからではないのか。


「子供たちが大切なのだって、ハワードとの子だからじゃないのか?」

 子供の存在を思い出して、ヘンリエッタの目にわずかながら覇気が戻ったようだった。

「あたしが言うのもなんだけど」

 ネルは珍しく遠慮がちに言う。

「最初から世界で唯一無二のものもあるけど、大事にしていくうちにそうなるものだってあるんじゃないのかな」

 三人、冷たい床に座り込んだまま、見つめあう。でも石の床も自身の体温でもうそれほど冷たくなかった。


「ヘンリエッタ、あなたはそれでもまだネルを妬むのか」

 ヘンリエッタは今も静かに啜り泣いていた。しかしネルもそれに対してきつい言葉を投げかけない。

 ネルも基本的には優しい人間なのだろう。失われた恋に泣く、かつては世を知らない娘だった女を嘲ることが出来ない程度には。


「……わたくしの愛する家族は」

 やがてヘンリエッタは泣き止み、まっすぐネルを見た。

「ハワードと子供達なのに、ね」

 ヘンリエッタにとって過去の駆け落ちは終わった話だったのだ、遠い昔に。ただまとわり付いていた後悔という名の亡霊がそれを惑わせた。

 ネルには災難だったが彼女の尊大な態度がもしかしたらヘンリエッタの亡霊を起こしてしまったのかもしれない……それはネルもうっすら察しているようで少しだけ気まずそうだった。


「ごめんなさい」

 ヘンリエッタは聞き取れないほどに小さな声で言った。それが今はこの場にいない夫、ハワードに対してのものなのか、それともネル宛のものかはわかりかねた。そしてネル自身がそんなことはどうでもいいというかのように、ただ頷く。


「どうだろう」

 マリオンは二人に恭しく言った。

「これから三人で順番に、気をつけてあの梯子を降りて狭い階段を下って、そして温かい応接室で紅茶を飲むというのは。ここはいささか寒い」

 大真面目な提案に、ヘンリエッタもネルも一瞬間を空けてからおかしそうに噴き出した。

「……そうね。わたくしは蜂蜜をたっぷり」

「あたしは贅沢に濃いミルクを」

「ではそのように女中に申し付けよう」


 ゆっくりと、誰が先ということもなく三人は立ち上がった。ヘンリエッタに促されて、ネルが梯子に足をかけた。顔を上げたマリオンはヘンリエッタと目が合う。彼女はまっすぐなマリオンの視線に恥ずかしそうに微笑んだ。


 ああ、亡霊はきっと立ち去ったのだ。

 マリオンはそう感じた。まっすぐに前を向いて何をすべきかわかっていて道を間違えずに進むことの出来るヘンリエッタにも、過去の辛い思い出は亡霊のように付きまとっていた。彼女は外にそれを出さない分、内側でずっとその亡霊を育ててしまっていたのだろう。

 でもその亡霊は立ち去った。それを退けた祈りの言葉を自分はずっと忘れないだろうとマリオンは思う。


 それはヘンリエッタへの「ごめん」というネルの言葉。また、ヘンリエッタの謝罪もネルのとげとげしさを少し和らげたはず。

 誰かがわかってくれたという証の言葉はきっと教会への千の祈りよりずっと人を動かす。


 でも。

 こうして他人事として今の事件を見たわたしも。

 ……わたしもわたしの中に亡霊を飼っていないだろうか?

 ふっとマリオンは不安になった。


 その時だった。急に突風が尖塔の屋上を駆け抜けた。ヘンリエッタのドレスの裾が風にあおられて大きく膨らむ。短い悲鳴をあげて、ヘンリエッタがよろけ、低い手摺に手を付いたが石の手摺はつるりと滑る。大きく姿勢を手摺の外に向かってよろめかせたヘンリエッタにマリオンは血の気が引いた。とっさに手を差し伸べて、彼女の手を握って引き寄せる。ヘンリエッタはまた屋上の内側に転がりこんだが、反動で今度はマリオンが塔の外側に放り出されることになった。


 ああ、無事であったなら即刻手摺を高く安全に改修しよう。

 思いついたのはそんなことだった。気が付いてみればマリオンの足はすでに床を踏んでいなかった。ぐるりと視界は一回転して、形を成さなくなる。ヘンリエッタの悲鳴が遠くで聞こえた。


 自分が塔から落ちたのだと思った時にはもう取り返しが付かなかった。マリオンの手は何ももう触れていない。空の青さだけが異常に鮮明に見えた。

 尖塔から落ちたなら、一度階下の塔にぶつかってそれから地面に叩きつけられる。まず間違いなく助からない。

 暗い絶望感がマリオンの指先を冷やしたような気がしたが。


 音らしい音はしなかったが、突然すさまじい衝撃が腰にあった。思わずぐえっというみっともない声が出てしまう。もう地面にぶつかったのか、と最初に思ったが、急に生温かいく柔らかいものに包まれた。

 気が付いたら、城の外壁をぼんやり見上げていて……そこが城の中庭、ちょうど尖塔の真下あたりであり、そして自分は誰かに抱きかかえられていると気が付いたのだった。


「……ジェームズ・ベルティ」

「はい」

 驚くほど近い場所に彼の顔を見つけ、マリオンは自分が彼の腕の中だということを理解した。

「間に合ってよかった」

「どうしてこうなった」

 マリオンのぶっきらぼうな言葉にさすがにジェームズも呆れた顔をした。


「状況はよくわかりませんが、あなたが尖塔の屋上から落ちているのが見えましたので、城の張り出し窓や塔に飛び乗って抱きとめました」

「警察に行っていたのでは」

「今帰ってきたところです。ですから間に合ってよかったと申し上げたのです。お怪我などはありませんか?」

 あの腰の痛みは二階辺りの高さでジェームズに抱きとめられた時のものなのだろう。あれでも相当痛かったのだから叩きつけられていたら怪我ではすまなかった。


「そうか……危ないところだった。痛いところは今はないよ。助けてくれて感謝する」

 可愛らしく「ありがとう」とか言えればいいのだろうか、どうもそれは気恥ずかしくてマリオンは言葉を飲み込んだ。

「そろそろ下ろしてくれて大丈夫だ。重いであろう」

「私はシナバーですが。先日も申し上げましたがあなたなど小鳥みたいなものです。ですがそうおっしゃるならば承知しました」

 ジェームズはいつものごとく飄々と答える。だが抱きかかえる自分を放してくれない。ジェームズは立っているわけでこの身長差ではマリオンは地面に降り立つのに少々難儀する。


「……わたしはそろそろ降りたいので放してもらえるか」

「あなたが手を放してくださればすぐにでも」

 なんとなく愉快そうな顔をしているジェームズにそう言われて、マリオンは自分の手がジェームズの服をぎゅっとつかんでいることに気が付いた。自覚はなかったが、とっさにつかんでしまったのだろう。


 ……塔から落ちるという緊急時であり、この状況も事故だと判断するべきであろう。

 しかし。

 マリオンはついジェームズの顔を見つめてしまった。


 灰色まじりの黒い髪と黒炭のように黒い瞳。いつも穏やかで控えめな話し方だが、それでも言葉の端々から彼の知性と思いやり……そして少しばかりのユーモアは感じとれる。とても好ましい人物だ。親兄弟に問題ある人間もおらず、背後に権力闘争の陰もない。しかも軍に所属していた。


 ただ致命的なのがその身分の低さ。

 それだけは貴族の中でも猛反発が起きるだろう。

 完全に不可能ではない。

 けれど確実性はなく、長い闘争と根回しが必要なのは間違いない。


 ジェームズにも苦労が降りかかる。スコットの幸せを望んで駆け落ちを許したわたしが、ジェームズには無意味になりかねない苦労をかけていいのか。それならば貴族階級が望む相手を選んだほうが誰も不幸にならないのでは?


 ……それでよいのか、わたしよ?

 一拍置いてマリオンは自身に問いかける。

 当初の目的のようにお飾りの夫でよいのか。

 ……わたしのことを理解してもらえなくてもいい?


「す、すまない!」

 マリオンは手を放した。突然大声を上げたマリオンにめずらしくジェームズも驚いたようだった。それでも落ち着いた様子でマリオンを大事な壊れ物でも扱うようにそっと芝生に下ろした。

「いいえ」

 今まではためらいなく胸をはってまっすぐ見上げることが出来たジェームズの顔をなんだかうまく見ることができなかった。

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