16
鋭く硬質な気に障る音。ガラスか陶器が割れた音であるとマリオンは察する。確かに音は聞こえたと確信すると彼女はむくりと起き上がった。
寝台の下に綺麗に並べられている、柔らかな黒テンの毛皮の張られたスリッパに足をつっこんだ。裸足を温かく包み込むスリッパはこそこそとかすかな音しか立てない。
そのままマリオンはサイドテーブルの一番下の引き出しから小さな拳銃を出した。マリオンの小さな手でも扱いやすい女性用の拳銃である。持ち手は彫刻された象牙で飾られており正直攻撃力は期待できない。かといって期待できるような大型武器ではマリオン自身が扱いきれないということも知っている。
あの指輪のことは後で考えよう。
マリオンは寝室の扉をそっと押した。扉の軋む音に気をつけながら廊下に出ると、音の聞こえた方向に向かって歩き始めた。
城の主人の眠る主寝室は、建物左翼の三階端だ。音が聞こえたのは間違いなく階下だった。この真下にあるものは何だろうと考える。未だにこの城の広さには慣れない。
この城の中央部を飾るのは一階から三階までの螺旋階段だ。華美と言ってもいいほど豪華に装飾された柱と手すりが見事だ。マリオンはその階段を、音をさせないようにそっとおりた。三階以上も存在しているがそれらはもう塔といっていい。大小あわせて二十もの塔が、この城を華麗に見せていた。無意味とも思えるほど多数の尖塔や見張り台が突き出している。塔に登るには各所にある小さない階段や梯子を上らねばならず、三階までくるのとは話が違う。
皆寝静まっており、城内は耳が痛いほど静まり返っていた。マリオンは初めて冬を過ごした昨年のことを思い出す。
ユリゼラ地方は冬が寒く長い。暗い朝は心が冷え冷えとするように思えたが、それでもこの地方で長く過ごしてきた人間がいる。自分の家系も本来はそうだったはずだ。
金髪金目はこの地方の人間の特徴であったとエドガーが話していた。統一王の手により人々の行き来が盛んになり、その美しい特徴は多くの人々から失われてしまったと嘆いていた。マリオンほどに明確にユリゼラ民族の血が出るのは今は珍しいらしい。
どうしてあんたみたいなどこの馬の骨ともわからぬ存在が。と苦々しく呟くのも彼は忘れなかったが。
螺旋階段を降り切ったマリオンはまた東側に向かった。階段のあるホール、その端までいってはっと足を止めた。ひやりとした空気がマリオンの頬を撫でた。
窓のガラスが割られていたのだった。ガラスの破片は内側に散らばっている。外側から割られたのだと気が付いたマリオンは、とっさに螺旋階段の太い柱に身を寄せた。
吹き込む風が立てる鋭い笛の音のような音にまざって、小声ながら確かに人の声が聞こえた。耳を済ませてみるが内容までは聞き取ることが出来ない。だが一人や二人ではなさそうだ。目をこらしてみればガラスの向こうの外では人が動く様子がみえた。
もっと良く見たいと思うが、しかし外の連中が一体どういう素性のものなのかもわからず身動きが取れない。
「……どりの……」
「……かくし…………さが……」
切れ切れにしか聞こえない会話だが人の気配は消えない。思い切ってマリオンは柱の陰から出て、割れた窓に向かった。そのまま外の様子を見ようとしたときだった。突然背後から伸びてきた手がマリオンの手をつかみ、口を押さえたのだった。
叫ぼうとした声をふさがれてマリオンは息を詰まらせた。
「静かに」
強い調子に言われたが、確かに聞き覚えのある声で、マリオンはそのまま暴れようとした力を抜いた。それを感じとったように相手も手の力を緩める。
そこにいたのはエドガーだった。
「エドガー」
「静かに。こっちに来い」
相変わらずの愛想もなにもない様子で彼はマリオンの手を引くと、再び物影に連れてきたのだった。二人で身を潜めると彼は低い声で尋ねてきた。
「ここで何をしている」
「ガラスの割れる音を聞いた」
耳がいいな、とエドガーは舌打ちする。なぜこんな深夜に彼はこうも不機嫌なのだ。
「それよりも今の人影は何だ。エドガーは何を知っているのだ?」
「……あなたに話すほどのことではない。それよりも早くベッドに戻れ。また風邪をひくぞ」
「わたしは一応ここの領主だ。不可解なことについては知る権利があると思うが」
「俺はまだ認めたわけではない」
またか、とマリオンは肩をすくめた。彼に嫌われていることはまあ知っている。しかしさすがに今主人であるはずのこの城のガラスが割られたのだ。いくらエドガーが気にするなと言ったところで気にしないわけにはいかない。
マリオンが更に追求しようと口を開きかけた時だった。再びガラスの割れる音がした。ガラスだけではなく木枠まで壊されるような音だ。ぎょっとしたマリオンはとっさにエドガーを振り払い、柱の影から出てしまった。そして見たものに目を見開く。その次の言葉はつい口から出てしまった詰問。
「何者だ!」
破壊された窓からは、十人ほどの男達が入り込んで来ていたのだ。年齢は二十代から五十代と幅があるが、皆一様に薄汚れた身なりであり、その人相は内面の粗暴さを隠しきれないものであった。
入り込んだ冷たい風にマリオンの柔らかく上質な寝巻きの裾が揺れる。押し入ってきたという状況に呆然としながらもマリオンはガウンのポケットに手を差し入れた。どれほど抵抗できるのかわからないが、一応拳銃を持ってきて良かったと思う。
「バカ!」
エドガーが吐き捨ててマリオンの手を引いたが、一瞬遅くマリオンの姿は彼らの目に捕らえられてしまっていた。
男達はほぼ無言のまま、マリオンにじりじりとにじりよってきた。逃げるべきであろうと考えるがエドガーに手を握られていて動けない。
「お前たちは何者だ」
マリオンはまっすぐ彼らを見つめた。ともかくここで相対してしまったのだから仕方ない。なんとかここで食い止めたい。上階にはヘンリエッタやネルもいるのだ。別棟や地下で休んでいる使用人が気が付いてくれればいいのだがと願う。ジェームズがいれば一番なのだが、彼は今夜いない。その不運が悔しい。
「これはこれは公爵」
おそらく連中を取りまとめているのであろう、年かさの髭面の男がニヤニヤしながら近づいてきた。不潔な異臭にマリオンは眉を寄せた。
「ご覧の通り俺達は金に困っていましてね、そんな時、この城にある財宝の話を聞いたんです。女神ヴェルディの王杓ってやつの話をね。そいつを恵んで欲しいんですよ」
マリオンは目をしばたかせた。そして思わず本音をこぼしてしまう。
「お前達はバカか」
「マリオン!」
エドガーがマリオンの失言に慌てている。
「そちらはギャレット家のご子息だな。公爵と不仲の噂の」
男の視線がマリオンの背後の彼を見つけた。
……詳しいなと、思う。
この地に詳しい人間も加わっているのかもしれない。
思い出したのはあの、敷地内の不審な足跡だ。気がつかれないように何度も下見をしていたのだろう。
やはり意地をはらずに、エドガーに頭を下げて警護の人数を増やしておくべきであった、と今更ながらマリオンも後悔する。
「今日はあの客のシナバーが居ないって聞いたのに。公爵自らお出迎えとはね。ちょうどいい。公爵と行き会えて幸運だ。探す手間が省けた。王杓はどこだ」
首領らしい髭面の男がすごんでくる。
「……そんな物はないのだ、愚か者が」
マリオンはひるむことなく髭面に向かって言い放った。
「ヴェルディの王杓など、この辺りの者は幼子ですらお伽話だと知っている。お前達はこの辺りの人間では無いな」
都会の盗賊はたちが悪いという話をヘンリエッタから聞いている。ここが年若い女領主でまだ城内の護身も完成していないとでも思って押し入ったのだろう。マリオンが睨みつけると男は苛立ったのか手を伸ばしてマリオンの顎を乱暴につかんだ。
「乱暴はやめろ!」
エドガーは二人の間に割り込むようにして男の手を振り払った。
「王杓がないという噂を聞かなかったのか!」
「そりゃ調べ方が悪いんだろう」
髭面の男は急に大きく手を振りかぶると躊躇いも心苦しさもなにもない勢いでマリオンの頬に叩きつけた。鋭く激しい音がしてマリオンは体ごと吹っ飛んだ。冷たい石の床に叩きつけられて肩が痛む。顔どころか頭がぐらぐらするような激しい平手打ちだった。頬が熱く痛み、視界が揺れる。
「こうして丁重に頼めばきっと教えてくれる」
「やめろ!」
エドガーが怒りも露わに叫ぶと横たわったマリオンの体を抱えた。
エドガーはよくわからないなとマリオンは考えた。嫌われていると思っていたが、今、ここにいるということは、マリオンを守るためのようである、だがこれをわかっていたのなら、なぜ報告しなかったのだろうか。
男達の一人がエドガーをマリオンから引き離す。なんとか起き上がったものの、へたり込んだままのマリオンを髭面の男はその襟首をつかんで無理やり顔をあげさせた。
「俺も若い女に暴力なんて気が進まないんだよな」
言葉の割にはにやにやと下品な表情で男はマリオンの顔を覗き込む。
「で、王杓はどこだ」
口の中が切れたらしくマリオンは滲む血の味を感じた。
「だから言っただろう、そんなものは無いと」
ああ、いらいらしてきた。無いものは無いんだ。そう、無い。
わたしがここにいる理由には、両親か祖父か、血の繋がる者の愛情があったのだと思える『何か』のように、無いのだよ。
マリオンの変わらない返答が気に入らなかったのか、男はまたマリオンを放り投げた。眼鏡が外れて床に転がる音がした。一気にぼやける視界の中でマリオンはため息を付きたくなった。壊れていないといいのだが。
「……本当に、バカだな」
はっきり見えない男の顔を見上げてマリオンは吐き捨てた。
「わたしが探さなかったとでも思うか!前はあったという漠然とした情報しかないのに、無くなれば、誰かが盗んだという。わたしの管理不足だとも。知るかそんなこと!」
ジェームズにも「そんなものはないよ、お伽話だ」と言った。別に何もせず最初から諦めて言ったわけじゃない。自分なりに探し尽くして、それでも無いから言ったのだ。母が盗んだとか、父が売り払ったとか、そんな身内の悪口を聞きたくなかったから、誰より真剣に探したつもりだが、それでも見つからなかったのだ。祖父の残された手紙や走り書きを見つけられるだけ探したが、それでも痕跡の一つもなかった。
ヴェルディの王杓はずっと前から伝説だった、だからそう結論付けた。
……そのかわり気が付いた事が一つ。
マリオンにとっては意味は無いまでも、少しだけ心安らぐものだが、彼ら盗賊にとっては用のないものだ。
髭面の男が再びマリオンの腕を乱暴に掴みあげた。
「……それじゃあ仕方ない、この城の金目のものでも荒らさせてもらうか」
「それもごめんこうむる」
マリオンはポケットから手を出して、ためらうことなく近い場所にあった男の腿に向かって発砲した。控えめな銃声は男の怒声にかき消される。
「てめえ!」
また突き飛ばされたがマリオンはそのまま転がった勢いで立ち上がる。エドガーを見てみれば、彼は男の仲間に床に押さえつけられていた。どうやらマリオンを助けようと暴れていたようだ。
「わたしが若くて女で小柄だから、人を傷つけることも出来ない可憐な淑女だとでも思ったか」
マリオンは柱を背に、後ずさると彼に銃口を向ける。ただ眼鏡が無いため、視界はぼやけているし、そもそも人数が余りにも違う。頼みの綱はスコットや男の使用人が起きてくれればこの状況を打開できるのではないかということくらいだ。銃声もそのためのものだった。
「この餓鬼」
髭面の男は痛む腿の傷を手で押さえ、ぎらぎらと血走った目でマリオンをにらみつけた。
王杓は無いが、その辺りの絵画は二世紀ほど昔の高名な画家のものだ、螺旋階段の脇にある壺は、はるか遠くの東洋の貴重な品だ、まあ好きなものを持っていけ……とか。そんな弱気が浮かばないわけでもない。
この盗賊に屈しても、さほど損は無いはずだ、命に勝るものはない。
マリオンは、公爵だから問答無用に自分が一番偉いなどと考えてはいない。我が城に滞在するものは身分の差無くもてなすし、領内の重鎮の意見はこちらから足を運んで伺う、なにより領内の人間には楽しくいて欲しい。
……だが、余所者の盗賊をもてなすなど公爵の誇りが許さない。
髭面の男が怒る勢いそのままに腰から下げていた銃を抜いた。マリオンのものとは違い充分殺傷力にありそうな大きな拳銃だ。他の連中もじりじりと囲む輪を狭めてきている。
マリオンは息をつめる。まだ誰かが起きる気配は無く、命の危機はあまりにも目の前だ。
時間切れかとマリオンが諦めかけた時、男の銃が火を噴いた。
目を閉じまいと歯を食いしばったマリオンだが、何者かの手によって突き飛ばされ、床に叩きつけられていた。しかしさきほどと違うのは、生温かいなにかがずっと上に圧し掛かっていることだった。
目を開いて起き上がってみれば、マリオンを突き飛ばしたのはエドガーだった。自分を押さえつけているものを無理やり振り払ってマリオンのところに飛び出してきたのだ。
床に広がる血は、マリオンのものではない。
「エドガー!」
マリオンはエドガーが自分を庇ったのだと気が付いた。




