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「少々用事がありまして」

 ジェームズがそんなことを言い出したのは翌日だ。まるで突然のことだった。

「ちょっと遠出してきます」

「どこに」

 朝食の席でそんなことを言われてマリオンはパンをちぎる手を止めて聞き返した。

「ここから馬で一日の距離にある小さな村です」

「何をしに」

「古株の女中から聞いたのですが、そこに古代ユリゼラ神話に詳しい老人がいるんだそうです。ちょっと話を聞いてこようかと」

「それならばわたしも行く」

「だめです」


 あっさりとジェームズは断ってきた。その強気にマリオンは唖然とする。マリオンも古代ユリゼラ神話に興味を持っていることは知っているのにあまりにもそっけない。

「あなた、結構体が弱いでしょう。先日寝込んだばかりですしそんな遠出させられません」

「じゃあ馬車で行く」

「同じです」

 あまりにもすげない。そうマリオンが思っていることにジェームズは気が付いたかいつもの穏やかな笑みで言いなおす。


「私が先に聞いてきますから、また気候のいい時に行きましょう」

「気候なんてこれから悪くなるばかりだ。春まで待てと言うのか」

「大丈夫です、昔話は逃げませんよ」

「老人は、あの世に逃げてしまうかもしれない」

「……うまいこと言いますねえ。でもだめです」

 マリオンが何と言っても彼は頷かず、朝食後にさっさと馬の準備を始めてしまっていた。


「マリオンもわがまま言わないの」

 ヘンリエッタがなだめるほどに目に見えてマリオンの機嫌は悪い。いつも一定の調子を心がけようとする自分には珍しいなと自覚するほどだ。

「マリオンはジェームズを気に入っているのね」

 ヘンリエッタと二人、庭で馬丁と話している彼の姿を見ていた。遠いので途中の町で一泊するらしい。確かに風は冷たくジェームズもかなりしっかりと着込んでいた。黒いコートは彼の髪の色もあって彩度の低い風景の中で奇妙なまでに明瞭な影のようだった。


「気にいっているというか」

「あまりあなたは我侭も言わないから」

 ヘンリエッタは変わらない優しい目で言った。

「我侭を言える相手というのはいいかもね」

 なにがいいかもなのかはちょっと聞き返せなかった。マリオンは慌てて切り返す。

「ヘンリエッタもそうなのですか。イングラム大公と」

「あら、うまくごまかされてしまったわ」

 ヘンリエッタは動じずに意味ありげに微笑むだけだ。

「……でも、もう二十年近く夫婦でいるから」

 我侭も何も無いということだろうか?彼女の真意はわからなかった。


「そういえば二十年ということで思い出したんですが。駆け落ち騒ぎの時にいろいろな人間がいろいろな話を聞かせてくれまして。本当にどうでもいいという話やよけいなお世話だという話もあったんですが、一つ面白い話が」

「なにかしら」

 その話を聞かせてくれたのが、花婿に逃げられた花嫁がどんな顔でいるのかということを面白がってきたような、あまり愉快な客ではなかったことを思い出さないようにマリオンは語る。


「二十年…そのくらい前にも、駆け落ちがあったようですよ」

「まあ、そうなの?」

 ヘンリエッタは目を見開いた。一瞬だけ間があったようにも思えたが。

「わたくしも社交界の噂話には相当詳しいつもりだけど、それは知らないわ。昔もそんな勇気ある貴族の男性と平民の女性がいたのかしら」

「その教えてくれた人もよく知らないようなんですけどね。どちらが貴族だったのかも、結局それが成功したのかどうかも、ヘンリエッタなら知っているかと思ったんですが」

「でも二十年前じゃ、わたくしもまだ少女の頃よ。さすがに全てを知っているわけじゃないのよ」

「女王陛下の若かりし頃の恋人の話も知っているヘンリエッタが?」

 ヘンリエッタは意味を探れない曖昧な笑顔を浮かべた。


「だってあれは切ないロマンスで有名ですもの」

 今は高齢で五人の孫まで持つ女王陛下。その若かりし頃の恋愛は、最終的に結ばれなかったということもあり公然の秘密である。

「そうですか。じゃあ結局二十年前の駆け落ちはただの噂なのでしょうかね」

「マリオン、社交界の噂はたっぷり嘘と本当が混ざっているから気をつけなさい」

 ヘンリエッタはマリオンの鼻先をちょんと指先でつつくと、部屋を立ち去っていった。まるで子ども扱いだ。


 ヘンリエッタとイングラム大公の子供達はマリオンと似たような年齢だ。ヘンリエッタからしてみればマリオンも同じようなものかもしれない。

 そうだ、スコットと結婚するという話が決まった時だって、やっぱり子ども扱いだったことを思い出す。


『こんなに早い結婚なんて大丈夫かしら』

 あれは都にあるイングラム大公の屋敷でのことだ。三年近く前になるか。

 イングラム大公自身は公務のため一週間ほど地方に出かけており、マリオンはヘンリエッタの話し相手として屋敷に招かれていた。祖父からマリオンの行く末を頼まれたイングラム大公はマリオンが十五歳になるやいなや、遺言どおりスコットとの婚礼を手早くまとめたのだった。ただ、乗り気のイングラム大公と違ってヘンリエッタは不安そうだった。


『まだ社交界のことだってあなたはわかっていないのに』

『それを補うための婚姻と考えています』

 マリオンは向かいの椅子に腰掛けて背筋を伸ばしてお茶を飲むヘンリエッタを励ますように力強く言った。

『スコットは爵位こそ低いですが、お父上が事業を手広く行っているために貴族のみならず富裕層全てに詳しい。きっとわたしの力になってくれます』


 ヘンリエッタはふと、いつもの淡い微笑を閉ざした。少しだけだったが彼女の心の中にある真の不安が浮き上がってきたようだった。激的な変化ではなかったがマリオンもその様子に言葉が出ない。

 カップを置いたヘンリエッタはその細い指にある小さな石の付いた指輪を落ち着かなさそうに触れていた。


『そうね、そういうことでいいのね。わたくし達は』

『ヘンリエッタ?』

『なんとなくあなたが気の毒になったのよ。恋をしたことも無く、ただ役目のために結婚するあなたが』

 大公夫人としての言葉ではないことは確かだった。ただのヘンリエッタとして……そしてマリオンに告げるつもりでもなく、なにか別の者を説得するような響きだった。

『気にしないでマリオン。大丈夫よ、スコットはとてもいい青年だから』


 ……まあその発言は少しばかり当てにならなかったわけだが。スコットがいい青年なのは確かだが、あまり大丈夫ではなかった。


 ヘンリエッタの親切心からの短い会話をなぜ今思い出したのだろう。

 そうだ。

 確か自分はあの時何かを奇妙に感じたのだ。会話はすぐに婚礼準備に関わる現実的な話に移ってしまって、その違和感はすぐに消えてしまったが。

 なにを自分は奇妙に感じたのだろう。

 思い出せない気持ち悪さを抱えたまま、今ヘンリエッタが出て行った自分の城の扉をマリオンは見つめる。

 いったい何が気になったのか?


 しばらく考えて、思い出せないまま諦めたマリオンは、ため息をつくとゆっくりとふりかえって窓の外を見た。そこで、おやと思うものを見て目を見開く。

 馬丁はすでにいなかったが、別の人間がジェームズと話していた。

 なんとエドガーである。


 なぜあの二人が……とマリオンは驚く。今まで二人だけで話しているところなど見たこともない。一体何を話しているのか。

 ガラスと庭に遮られ話の内容はまったく聞こえない。だが結構真剣な話をしているようでマリオンの前ではいつも穏やかなジェームズが険しい表情を浮かべている。ただ、険悪な雰囲気は無いのが不思議だ。エドガーの態度がいつもと違うということだろうか。


 突然ジェームズと目が合った。マリオンが見ていることに気が付いたらしい。エドガーも振り返ってマリオンの視線を知る。

 エドガーはすいとすぐ背を向けて歩き去ってしまった。ジェームズは一瞬の間の後に、にっこりと微笑み返してくる。そのまま片手を上げて手を振ると、馬を引いて歩いていく。このまま出かけるのだろう。

 今見た光景の意味がわからずに、マリオンはぽかんと立ち尽くしてしまった。



 マリオンは寝台の中で目を見開いた。

 辺りはまだ鳥の声すら聞こえない闇の中だ。こんなふうに眠りの途中で起きてしまうことはめずらしかった。ジェームズがいない夜ということで緊張でもしているかと思う。エドガーがジェームズの代わりにと宿泊しているが正直ありがた迷惑だ……。

 ぼんやりと寝台の天蓋を見つめるがそれも飽きて再び目を閉じた。眼鏡をかけていないままでは全て朧だ。


 ああ、指輪だ!


 再びの眠りに落ちようとした瞬間、マリオンはふいに閃いた。

 三年近く前、婚礼の話をしたときのヘンリエッタの奇妙な反応。あの時に自分が気になったことをなぜか今はっきりと思い出したのだった。

 あの時ヘンリエッタのしていた指輪。それは始めて見るものだったように思う。だから気に留めたし覚えていた。あの大公夫人にはまるで不釣合いな粗末な指輪を。


 彼女が実家から持たされた物もイングラム大公から与えられた物も、すべて装飾品は一流の値の張る品だ。そしてそれ以外を持つことは許されない。大貴族の娘としてまた大公夫人としてあらねばならない姿というものがあるからだ。社交界での憧れられる存在として君臨するためにはみすぼらしいものなど不要。彼女があの指輪を気に入ったとしても公的には身に着けることはけしてできない。

 まるで身分違いの恋のように。

 なんであんなものを彼女は持っていたのだろう?


 自分が思い出したことですっかり眠気は遠ざかってしまった。マリオンは再び目を開いてあの時のことをもっと良く思い出そうとした。

 その時だった。こんな闇に不釣合いな物音がどこかで響いた。


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