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それからしばらくはのんびりとした日が三日程続いた。特に急ぎの用事も無く、マリオンは昼はジェームズやヘンリエッタと話をして過ごすことが多くなった。使用人たちは冬の準備に取り掛かっている。
最後になるかもしれないから、ちょっと馬で遠くに出かけないか、とジェームズを誘うつもりで城内を歩いていたマリオンは、思いもかけない場所でジェームズの姿を見つけた。
先祖代々の立派な図書室の開かれた扉の向こうに彼の姿があった。
「ベルティ」
マリオンが声をかけるとジェームズは顔をあげてあのいつもの穏やかな笑みにも似た曖昧な表情を向けた。
「どうされましたか」
「それはこちらの言葉だ。図書室でどうしたんだ?」
「ちょっと調べ物を」
ジェームズが机に広げていたのはこの周辺の地図だった。
「随分古いものですね」
「さほど代わりばえのしない場所だから」
マリオンもその地図を覗き込んだ。古めかしい装飾が施された台紙に色褪せた紙だがさほど状態は悪くない。
「しかし地図なんてどうしたんだ?」
「ちょっと好奇心ですよ」
さらりとジェームズはとぼけた。どうやら話すつもりは無いらしい。まあ自分も変人だから他人の奇妙な行動をどうのこうの言っても始まらないとマリオンは追及をやめた。机の上にはこの辺りの出来事が書かれた歴史書というには素朴な民間の口伝をまとめた本や、国内の歴史について書かれた書物が積み重ねられていた。
マリオンですらまだ読む時間をとれていないものだ。一体どういう風の吹きまわしてここまでユリゼラに興味を持ったのかと思う。
……多少なりともマリオンの夫候補としてこの地方に興味を持ったということか?
そんなことが頭に浮かんでマリオンは慌てて振り払った。思い浮かぶこと事態、まるでマリオンがジェームズをひどく意識しているようではないか。
ちょっとした混乱で会話の次の糸口を失ったマリオンを助けたのは、また図書室に飛び込んできた別の人間の声だった。
「マリオン、ネルを見なかったかい?」
そういって図書室に入ってきたのはスコットだった。ただ、彼は数歩行ったところではっとしたように足を止める。どうやら入り口からはジェームズの姿が見えなかったらしい。スコットがジェームズへの対応を図りかねているのはマリオンも……そしてジェームズ自身も知るところだ。
ただ彼も、ここできびすを返すような無粋な人間ではない。何事も無かったかのようにマリオンのところまでやってきた。
「やあジェームズ」と爽やかに言葉もかける。けして負の感情を表に見せないところに優れた紳士らしさを感じ、マリオンは祖父がスコットを気に入った理由がわかるような気がした。
「やあスコット」
ジェームズも好意的な表情だ。
そういえばジェームズがスコットをどう考えているのか聞いたことが無かったとマリオンは今更ながら思い出す。
「ネルを見なかったかな」
改めて尋ねられてマリオンはジェームズと顔を見合わせた。
「いや」
「そうか。ちょっとスケッチに行って来るといって午前中に出かけてから戻ってこないんだ。昼食にも帰ってこなかった」
「もう午後三時だ……それは心配ですね」
「城内といってもかなり広い。まさか庭をずっと横切って森まで行ってしまったと言うこと無いと思うが……」
「いや、ネルなら夢中になっているとあり得る」
城の敷地内を出て北側に進み丘を越えるとすぐに深い森に当たるのだ。そのまま山間に入ってしまう。この地を知り尽くした領民ならば別にどうということもないが、軽装の若い女性では心配だ。
「森のほうに探しに行ってみようか。行くなら日の高い今のうちのほうがいい」
「私も行きましょう」
マリオンの決断に間をおかずジェームズもそう進み出た。
「ありがとうジェームズ」
そう答えるスコットの言葉の響きからは彼が本当に感謝しているのか、それともいまひとつジェームズの人格に懐疑的なのかは謎だ。
とりあえず三人は軽く外出の準備をすると、徒歩で出かけることにした。本当に森の中に行ってしまったのならば馬では動きに不便だと判断してのことだ。静かな庭園を抜け敷地内を出ると雑草生い茂る丘を進む。丘の上からは森が遠くまで見えた。
「驚いた」
ジェームズが呟く。
「広大な森ですね」
「そうだ。実はこの森には古代文明の遺跡が多々隠されていると言われている」
「へえ、知らなかったよ、マリオン」
「まあこれもまたお伽話だが。かなり高度な文明だったが、滅んでしまい、その都の跡はこの森に覆い隠されたといわれているんだ」
「それがあのヴェルディとアギラの神話ですか?」
「そう。ユリゼラ地方はそういった話が多いんだ。残念ながら伝説に過ぎないが」
その時点ではまだ三人ともあまり切羽詰った状況ではなかった。そんな世間話をしている余裕まであったのだ。和やかな散策と言ってもいいくらいだ。
しかし、ジェームズの発見で一気に空気はこわばった。
「おや?」
ふと森の手前でジェームズは足を止めた。
「これは……」
丈の高い雑草が踏み荒らされて倒れている場所があったのだ。不意に現れたそのぽっかりとした空虚な空間は奇妙だった。
「まるで多数の人間がここに集まっていたようだな」
言ったマリオンははっとしてスコットと顔を見合わせた。
「城の敷地内でもこういう跡が……」
ネルが怒った日にスコットと二人で見つけた跡と状態がよく似ていることに気が付いた。
不気味に思いながらも、三人はネルを探すためその場を離れた。ジェームズが静かにマリオンに尋ねる。
「何か心当たりが?」
「……わからない」
ジェームズはすっと顔を上げて伺うようにあたりを見回す。それからマリオンに向かってため息混じりに言った。
「せっかく私がいるんですから、そういった出来事があったなら教えて下されば……」
「あまり気にしていなかったんだ……」
「気にしてください」
ジェームズはめったにない強い口調で言った。
「そもそも、ずっと不思議でしたが、この城の警護の人数は少なくありませんか?これだけの広大な敷地にあなたの地位を考えれば、倍居てもいい」
しまった、知られていたのか。
マリオンは返事をしかねてそっと目をそらしたが、ジェームズは沈黙してマリオンの返事を待っている。
…………待ち続けている。
「……わたしの失態だ」
マリオンは降参してしぶしぶ語る。
「ここに来るにあたり、警護の話をしたのが二年近く前だった。それなりの人数を提示されたが、あまりにもその担当者の物言いが恩着せがましかったので、『ならば結構』と言ってしまった」
「……あああ……」
ジェームズが、信じられないとばかりに呻いた。
「『未熟な若い女』扱いされたのが腹立たしかった。今思えば、そんなふうに苛立つこと事態、確かに未熟な若い女なんだがな。自分で雇えばいいのだが、信頼できない人間を雇えば余計危ないこともある。信頼できる人間は紹介されないと手に入らないので、いまだその問題は放置しているのだ」
本当は、頭を下げて、警護の人数を増やしてもらうのが筋だとわかっているのだが。
「……エドガーに間に立ってもらっては?」
「また難しいことを簡単に言う」
マリオンは苦笑いして話を終わらせた。
ジェームズは足跡のことがひっかかっているが、スコットはそれどころでは無いらしい。
「……ネル!?」
森に向かって大きな声で叫ぶ。必死で押し隠そうとしているが、その不安はスコットの紳士然とした表情の仮面を越えて表に出てしまっている。
ああ、そうか、とマリオンは腑に落ちた。
ネルだけが、彼にこういった表情をさせるのだろう。
ネルのスコットへの愛情が余りにもきっぱりしすぎていたがためにスコットの感情は表に出なかったが、彼もネルを必要としているのだ、とても強く。彼自身は控えめな人間であるためにあまりその感情を見せないが、その意志の強さは計り知れない。
ネルに何かあったら大変なことになるなと感じたマリオンは森に入るため丘を降りようとした。
「なあにー?」
能天気な返事が帰ってきたのはその時だ。は?と足を止めた三人の前に、森から出てきたネルの姿が映った。特に怪我をした様子も無く雑草に足を取られながらもすたすたとこちらに向かってくる。一瞬唖然としたがスコットが走り出して彼女を迎えに向かった。
「……元気そうだな」
「何事もなかったようですね」
マリオンはジェームズと一緒に毒気の抜かれた顔で立ち尽くす。
「ごめんね!スケッチに夢中になっていて。森の中に立派な鹿がいたのよ。息を詰めて見ていたわ。美しい生き物だったのよ」
ネルがはしゃいだ様子でスコットに報告する姿を見てやれやれとマリオンは肩を落とした。スコットは心配させるなと強めの口調でたしなめているが怒るまでには至らない。
「元気そうですね」
「……まあ、なによりだ」
「他人に心配かけて。私がスコットだったらデコピンくらいはしますけどね」
思わずジェームズを見上げてしまった。彼はまっすぐに視線をネルとスコットに向けている。
「……ベルティにデコピンされたら大怪我しそうだ」
「真面目に受け取らないでください」
「すまない、こちらも面白くない冗談だった。でも君も機嫌を悪くすることがあるのだな」
「ありますよ。あの女性はちょっと苦手です」
「へえ?!」
逆に興味を引かれてマリオンは思わず吹きだしながらジェームズの肩を叩く。それだけでも随分な身長差を自覚する。
「ネルの何が苦手なのだ」
「辛辣な言葉になるから言いたくありません。少なくともあなたに迷惑をかけて謝罪も無いというのは気に入らない」
それは苦手ではなく嫌いというのでは。
ジェームズの思わぬ言葉を引き出してしまったマリオンは自分の好奇心に腹を立てながら、口を噤む。ジェームズの感情にまさか自分が関わっているとは思わなかった。
「この間だって彼女のせいであなたは風邪をひいたでしょう」
「いやまあ、わたしが虚弱なせいもあるんだが……ということは心配してくれているのか?」
そこでジェームズはようやくマリオンを見た。
「していますよ?」
まっすぐに言われて思わず言葉に窮する。ジェームズは時々こちらが戸惑うほど優しい言葉を送ってくる。御好意ありがとう、というべきか?とマリオンが迷っている間にネルとスコットはこちらに向かってきた。
「本当に悪かったね、マリオン」
スコットが気まずそうに謝ってきた。ネルは謝りもしないが生意気な言葉を発しないところを見ると心配掛けたという自覚はあるのだろう。そっぽを向いている彼女を、最初呆れながら見ていたマリオンだが、彼女の瞳が落ちつかなさそうにさ迷っているのを見て、憤りは萎んでしまう。
本当は悪い子じゃないんだよ。
そういったスコットの言葉を思い出す。多分、ネルももうちょっと他人に譲ることを覚えれば生きることも楽になるだろうにと、彼女が自分より年上なことを差し置いて思う。
……でも同時自分自身もこのままでいいのだろうかと考えていることに気が付く。
ネルのような意地はわたしにだって必要ではないのだろうか。
あの時は気が付かなかったが、ネルが塔の上で言った事がふと腑に落ちた。「あんたは楽しそうじゃない」という言葉。
……わたしはこの場所で何をしたいのだろう。
「どうかしましたか」
思いに沈んでいたマリオンにジェームズは声をかけてきた。
「いや、大丈夫だ」
マリオンはネルを見つめた。マリオンの視線に気が付いてネルがこちらを向く。
「森は深いから危険だ。なるべく足を踏み入れないで欲しい」
「……わかっているわよ」
憎まれ口の無さにネルらしからぬ部分を感じ、マリオンはそっと彼女を眺めた。
ああ、そうか、と気が付いたのはネルの靴がだいぶ土で汚れていたからだ。平気な様子をしているが、これは間違いなく森で迷っていた。だいぶ歩き回ったようだ。彼女の手はそっとスコットの服の袖をつかんでいた。
彼女は確かに甘えることは苦手だが、言い訳も嫌いなのだ。だから何も言葉に出来ずただその細い指先でスコットに触れている。
本当に、彼女だってもう少し素直になるべきだろう。
「もう戻るわ。喉が渇いちゃった」
ネルはスコットの手を引くようにして強引に歩き始めた。そのまま四人はそろって城へと歩き始めた。日の落ちかけた空からの空気は冷え込み始めている。
「寒くないですか」
マリオンの思考を察したようなジェームズの言葉に驚いた。一体どうしてこの男はこうも鋭い。
「戻ったら、温かいお茶でもすぐ飲んだほうがいいですよ」
「わかっている」
「それならあたしも頂くわ」
先を行くネルが振り返って主張して、スコットにたしなめられた。
その変わらない態度に呆れもするが、どうしても彼女を嫌う気にはなれない。彼女も彼女なりに生きるに苦労しているのだ。
まるで仲間意識のようだと思う。彼女がどう思っているかはわからないまでも。
「……あなたは本当に彼女をなんとも思っていないのですか?」
ジェームズがネルの背を見ながら、彼女に聞こえない小さな声で尋ねてきた。
「思っていないことはない。正直腹がたつこともある……だが」
マリオンは率直に答える。
「わたしは『未熟な若い女』なので、予想外かと思うが、実は公爵ということで意外と権力があるのだ」
ジェームズに、驚くだろう?と笑いかけると、彼は呆れたようにため息をついた。
マリオンが本気になってネルとスコットを断罪しようとすれば、それは可能であっただろう。二人は離れ離れだし、ネルは投獄されてもおかしくない。アシュトン家も本格的に不利益をこうむるだろう。イングラムが動き、平民の傲慢を嫌う貴族達がこぞってマリオンへの無礼を罰してくれる。王家もその動きは認めざるを得ない。
裕福でない者達のすべてがネルの味方をするとも限らない。一人だけ抜けようとするものを勇者とするか裏切者とするかは微妙だ。
ネルとスコットにざまあみろという顔をするのは難しくない。
……で?と思う。
アシュトン家が困窮すれば、その家に関わる人間も困窮する。買わなくていい恨みは買いたくない。
ネルという下層階級生まれの貧しい女の切羽詰った行動を嘲笑うのは、マリオン自身を哂うことにならないだろうか。
自分を異端とした貴族の思惑に乗るのもなんとなく釈然としない。
「だが未熟な若い女なので、予想通り、権力の使い道もよくわからないのだよ。使い道の分からないものを容易く使うのは、小心者のわたしには恐ろしくてな」
よくわからないうちは、間抜けな女公爵と呼ばれるのもやむを得ないだろう。
叩き潰してからでは元に戻らぬものだってある。
「……あなたの代わりに私が怒ってあげたいですよ」
ジェームズはぽつりと呟く。マリオンの内心をかなり正確に把握しているのかもしれないと言外に感じ取れた。
庭園を歩いていくと、明るく灯された城の光が眼に入ってきた。人数が少ないから明りは節約しているといっても城の灯火で充分足元が明るい。その庭園をネルとスコットは憂いの無い恋人達のような足取りで歩いていく。
その後ろを歩く自分とジェームズはどう見えるのだろうとマリオンが思いついたときだった。
ふと、マリオンは城の上階を見上げた。そうしたわけははっきりとはわからない。特に音を聞いたわけでもなく、しいていうならこちらに向けられた視線を感じたということだろう。
二階の客間。その窓辺にじっとこちらをみている女性の姿があった。ヘンリエッタだということはすぐに気が付いた。微笑んで手を振ろうとしたマリオンは息を飲んだ。
あまりにもヘンリエッタの視線は冷たく険しかった。
本当にわたし達を見ているのだろうか、そう思うほどに冷ややかな視線をこちらに向けている。彼女はおそらく外の日が落ちて内側の光景が手にとるようにわかることに気がついていないのだ。
マリオンはそっとジェームズ達の様子を伺った。見上げたのはマリオンだけで他の三人はヘンリエッタの様子に気が付いていない。
再び見上げたマリオンはいつもどおり明るい微笑みでこちらに手を振るヘンリエッタを見つけたのだった。
今見たものはなんだったのかと思うほど、好意的な表情にマリオンは理解できない。
……見間違いであろうか?
自分に問いかけたマリオンだがその応えは見つからなかった。




