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「しかし、これでは降りられない」

「なんだかすごく寒くなってきたんだけど!」

 二人ともここは話をしに来ただけだ。夜の寒さに耐えられるような重装備ではない。吹きさらしの屋上で二人は顔を見合わせる。


「どうにかしないと」

「ここは一番離れの塔。人を呼んでも果たして気が付いてくれるかどうか」

「やってみなきゃわからないわ。おーい!」

 止める間などない。遠慮なくネルは叫んだ。しかしその声は紅茶に落とした砂糖のように夜の空気に溶けこみむなしく消えていくだけだ。今はもう夕刻には暖炉へ火を入れている季節である。このままここにいては間違いなく風邪をひく。こじらせでもしたら命に関わる。


「困ったわ。さすがにこの時間じゃ見える範囲には誰もいない」

 日中ならば庭師や使用人がうろうろしているが、日が沈みきったこの時間では誰もいない。この東の塔はあのステンドグラスのある部屋の上階である。殆ど誰も近寄らない部屋だ。上で騒いでも誰もいないだろう。


 どうして祖父は、あんな使っていない部屋にステンドグラスなど配置したのだろう。

 ふとマリオンはそんなことを思いついた。


 本来東側で、朝日の美しい部屋である。南を向いている城の一番端の部屋で殆ど締め切られているが、朝食をとる場所にすれば朝方とても清々しいだろう。厨房も近い場所でありその方が自然である。

 なぜあの部屋は用途もなく締め切られているのだろうか。

 一階南側の部屋は全て扉で閉められているが、全て開け放てば東から西へ繋がり、巨大なホールとなる。確かに今はホールとして使うほどの来客は無いが。城内で最も良い位置である一階南東の素晴らしい装飾の部屋が閉ざされていることの不思議にふと気が付いた。

 ……もしかしたら。


 おもいつきはネルの苦々しい声に吹き飛ばされた。

「もう、誰もいないんだから!」

 苛立ったネルの声は叫びすぎて枯れ始めていた。マリオンも今はそんな余計なことを考えている場合ではないと思い直す。ネルの顔は蒼白で、がたがたと小さく指先が震え始めていた。

それに気が付いたマリオンはかじかみつつある指先で自分の着ていたガウンのボタンを外し始めた。内側に綿が入っており今の季節には室内では少々分厚すぎるくらいのものだった。それを脱いだマリオンはネルに突き出した。


「これを羽織るといい」

「……バカなの?」

 むっとした様子でネルはそれから顔を背けた。

「なんであたしが」

「あなたのほうが寒そうだからだ」

「公爵のほうがちっさくてほそっこいんだから着てなさいよ」

 ネルはそっけなく言い切ったが、マリオンも強気で反論した。


「そういうわけにはいかない。あなたは客人だ」

「バカじゃないの。あたしは貧乏平民であんたは公爵様なのよ?」

「しかしわたしがお招きして滞在いただいている以上、客人に不自由させるわけにはいかない」

「どっちかっていうと、あたしとスコットが転がり込んだって状況でしょう。それに風邪でもひいて……下手して肺炎になって死んだら騒ぎになるのは間違いなくそっちよ」

 ネルはいつに無く頑固に言い張るマリオンに気おされているようだった。しかし彼女も持ち前の強気で引かない。


「まあ、それはそうなのだが……」

 ネルの絵の才能は認めているがまだまだ無名である事はマリオンも承知している。そしてマリオンは自分が統治者であり、その義務を知っている。人の命の価値に上下があるとは思っていないが、マリオンに今何かあれば騒ぎは一人死んだでは済まない。もはや直系がいないユリゼラの公爵に誰が付くかということで、大アルビオン全体を巻き込んだ騒ぎになるだろう。


 大アルビオンが出現して三百年がたつが、それでも未だに統一を不満に思っている人間もいるし、危うい国境もある。また貧困に喘ぐもの者もいる。内包されている火種が一気に燃え上がる可能性もあるのだ。

 勝手に己が身を危険に曝すのは、今のマリオンの立場では正しくない。


「……だが守られることを当然と思うのも、おかしいとわたしは考える」

 石床から這い上がってくる寒さを堪えながらマリオンは言った。歯の根が合わなくて声が震えていなかっただろうか?

 マリオンを見つめネルはその言葉をじっと考えているようだった。彼女はいつだって目を逸らさない。

 こんなときだというのに、スコットのことをふと思い出す。彼は穏やかで、言い争いを好まず、自分が引いて治まる場面だったらけして我を通さない優しい青年だった。彼が意地を見せたのはあの婚礼の駆け落ちだけである。でも弱気な人ではなかったのだと今改めて思う。


 マリオンに向かって謝る時、彼は目を逸らさなかった。マリオンから、そしてどんな理屈をつけようと、自分でも認めざるを得ない己の他者への裏切りを見据えるように。

 あの青年は逃げない人だ。そしてその妻になろうとする彼女も。

 だからマリオンは二人を嫌いになれない。


「……あんた、孤児院の出、なんですって?」

 ネルは短い言葉を向けた。

「そうだ」

「ふーん」

 ネルはその答えに何故か納得したようである。マリオンが差し出したガウンを受け取った。しかしそれを大きく広げると、ネルはマリオンの横に滑り込んでくる。マリオンに合わせて作られた小さなガウンを二人の肩にかけたのだった。

「くっついていたほうがあったかいでしょ」

 ネルはつまらなそうに言った。ぎゅうと強く触れ合った肩が温かい。


「そのようだ」

 そのまま壁際に座りこんだ二人は空を見上げた。身を低くしたことで風はその上を吹きぬけ、直接当たらず少しだけ寒さが柔らぐ。

 だが会話を繋ぐことはできない。マリオンも彼女と何を話したらいいのかわからないのだ。マリオンが孤児院で貧困の中にいたのは五歳まで。そこからは家族と会うことこそ無かったものの大公の庇護下にあり、充分満たされた生活だった。ずっと困窮していたネルに何を言ったらいいのか……少し気持ちがわかるだけに逆に言いがたい。


 ネルも何か深く考えこんでいるようだった。

「星が美しい」

 しばらくあってマリオンが言葉にしたのは、そんな当たり障りの無い言葉だった。

「そうね」

 ネルにしては驚異的な素直さで同意が返ってきた。

 その時だった。階下への入り口から急に呼びかけられたのだった。

「公爵!」

 焦りを感じさせるジェームズの声だった。マリオンが返事をするより早くネルが立ち上がり、下に向かって覗き込むと叫んだ。


「いるわ!ここよ!冷え切っているから早く助けなさい!」

「……なんでそんなところに」

「あたしのせいよ!そのことはあとで。とりあえず公爵を早く!」

 ネルはマリオンの腕を強くつかんで引き寄せた。こわばってもつれる足でマリオンは入り口を覗き込む。見上げているジェームズと目が合った。

 なんだ、そんなに慌てて、と言いかけたが口がうまくまわらない。

「飛び降りて」

 ジェームズの言葉ははっきりしていたが、さすがにためらわれる高さだ。ためらっていると焦れて彼の口調が変わる。


「飛び降りて下さい!」

 言葉こそ丁寧だが有無を言わせない強さがあった。


「ぐずぐずしていると突き落とす」

 背後から低い声でネルに言われ、マリオンは意を決した。

 高いところが嫌いになりそうだ。

 そう思いながら一歩踏み出した。腹がぎゅっとこわばるような不快な落下感の直後、マリオンは予想外に柔らかく受け止められていた。ジェームズが相当気を使って受け止めたのだとわかる。

 横抱きというよりは縦に受け止められたマリオンは、ジェームズを見下ろすことになった。


「氷のようです」

 マリオンの手に触れてジェームズは不満げだ。

「もしや、騒ぎになって?」

「家長の不在ですから」

 申し訳ありませんが一度下ろします、と丁重にいったジェームズは、マリオンを壁際にそっと座らせた。


「あたしも寒い!」

「わかっている。飛び降りろ!」

 短い会話のあと、ネルはためらいなしにすっと飛び降りてきた。その彼女も容易く腕に抱えたジェームズを眺める。今になって手が痛痒いのは逆に血が通い始めたからだろう。

 ……ではジェームズの腕の中にあるネルを見て、何故か苛立つのは?

「あなたは歩けますね」

 そっけなく告げ、ジェームズはさっさとネルを手放した。マリオンが考えをまとめる前に、その不可思議な苛立ちをもたらした光景は消えてしまう。


 マリオンは失った風景の代わりに、ぱたんと床に倒れている梯子を見つける。

 倒れたのか。

 誰かが倒したのか。


 マリオンの思案はネルの不満にかき消された。

「あんた、態度違いすぎ」

「私はあなたの夫のように、誰も彼もに愛想よくはないのですよ」

 言いながらジェームズはマリオンを再び抱き上げた。

「私がシナバーでなければ今すぐに温かいというのに」

 悔しそうにジェームズは呟く。確かにシナバーは総じて体温が低い。

「温かくなくとも、なぜか安心する」

 マリオンの言葉に抱くジェームズの腕にわずかに力がこもった。

「誰か!」

 ジェームズは階下に降りながら怒鳴った。使用人がちらほらと顔をだす。


「湯の用意を!公爵は屋上にいらっしゃったがだいぶ体が冷たい」

「もともとそろそろお時間でしたから、準備はしてあります」

 ばたばたと慌しく城内が動き始めた。公爵が見つかったというジェームズの報告に、使用人たちも明らかに安堵した様子だ。

 浴室までマリオンを抱えてきたジェームズは、そこでようやくマリオンを下ろした。足ががくがくしているがなんとか立てる。

「後はお任せを」

 女中頭が出てきてマリオンの手を引いた。そのまま浴室に連れこまれそうになったマリオンはここまでついてきたネルを指差した。


「彼女も一緒に」

「……はあ!?」

 女中達も驚いただろうが、一番驚いているのはネルだ。

「なんだって、あたしとあんたが」

「大丈夫だ。浴槽は広い。ネルも冷えているのだから、一緒に入ったほうが時間が有効に使える」

 ネルは不気味なものを見る目でマリオンを眺めたあと、ジェームズを見上げた。

「あんたの妻候補は少しおかしい」

「あなたも少しは好意には甘えてもいいでしょう」

 ジェームズはネルをマリオンのほうに押し出すようにつき飛ばした。


「……公爵様がそうおっしゃるのですから」

 とにかく公爵の体を温めるのが先決と思っている女中達は、今、身分がどうのこうのというのは諦めたようだった。ネルもしかたなくまだ納得しきれない顔ではあったが浴室に向かった。



 だがその日からマリオンは風邪をひいてしまった。城外どころか部屋からも出られない。ヘンリエッタが心配してマリオンを寝室に軟禁状態にしてしまったのだ。

 疲れもあるのかな、とマリオンは熱でぼんやりする頭で考える。


 そういえば父親も病弱な人間だったと聞いた。馬に乗り野を駆けるよりも馬や風景の絵を描くことを好んだらしい。彼はそれらをいたく愛していたのか、馬の絵や彫刻は城内に幾つか残っている。ネルが興味深そうに作品を見ていた。同じ芸術家として思うことがあるのだろうか。

 自分には芸術家としての素養はない。絵画も嫌いでは無いが自分で描いたり作ったりしたいという欲求は無いのだ。せめてそういうものがあれば、父親のことをもっと理解できたのだろうか?

 温かな寝室で、ふっくらした寝床に横たわっていると、音だけが良く聞こえた。ぱちぱちと暖炉の中で木がはぜる音がしている。


 ああ、そういえば燃やされた手紙のことをネルに聞き忘れた、と思い出した。

 あれは一体なんなのだろう。そういえばスコットの怪我の件もよくわからないままだ。彼と一緒に見つけた庭の不自然な足跡。

 気にかかる事は沢山あるのに、自分はここで寝ていることしか出来ない。


「公爵」

 扉が開いて入ってきたのはエドガーだった。慌てて起き上がろうとするマリオンを押し留める。

「悪いな。脱線に際して、一枚だけ至急あんたのサインが必要になったんだ」

 マリオンは彼の言葉に熱も吹っ飛ぶような気持ちになった。「悪いな」だと?彼が謝罪を?

 自分の健康管理も出来ないのか、くらいの言葉があってもおかしくないのに珍しいこともあるものだ。それとも熱にうなされた夢なんだろうか。

 くらくらしながら起き上がるマリオンの背をエドガーは支えた。サイドテーブルに載せてあった眼鏡を取ってくれる。


「気をつけろ。父から聞いたがあんたのお父上も虚弱な人間だった。ころっといくぞ」

「あまり脅かさないでくれ」

 それでもいつもより言葉の棘は少ない。今のは一応嫌味というよりは、気遣いに分類していい発言に思う。ぺらりと差し出された書類を読んでからマリオンは末尾にサインをした。

「……なあ」

 書類を受け取ったエドガーだがすぐに立ち去らなかった。


「なんだ?」

「あんたはそんなにすぐに結婚しなくたっていいんじゃないのか?」

 奇妙な問いだった。

「……祖父はスコットを用意した。多分わたしだけでは心もとないと考えたのだろう。きっと領地の人間もそう考えている。もし誰か頼りになる人間と一緒になることで、領内の人間が安心するのなら、それはいい事なのではないかと思う」

 あまりエドガーに率直に自分の意見を言ったことはなかった。今するっと喋ってしまったのはやはり熱でうまくごまかすことが出来なかったためだ。

 ああ、また余計なことを言ってしまったかもしれないと反省するが、言ってしまったものは取り返せない。


 マリオンは無言でまた布団の中にもぐりこんだ。

 なんだか悲しくなってきたのはなぜだろう。

 仕方ないと思っていても、やはり努力が認められないのは辛い。でもわたしだって頑張っているのに!という理由でこっそり泣くのは、学生時代だけでもう飽き飽きだ。あてつけに表立って泣くのは性格的に出来ない。


 ただ悲しいだけ。きっと熱のせいだ。

 エドガーを無視してマリオンはそのまま目を閉じた。別れの言葉もないが、まあ熱だから勘弁してもらおう。どうせこれ以上彼のマリオンへの評価は下がらない。

 そのまま本当にするりと眠りの沼に落ち込んでしまったマリオンは、エドガーがどんな顔をしていたのかも知らない。

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