10
「上階にある鉢植えについては、もう一度点検をすることにしたよ」
マリオンは書斎に入ってきたジェームズに告げた。その日の夕刻のことである。
「一応わたしも使用人と一緒に回ってみたのだが、危ない場所にある鉢植えは見つけられなかったのだけどね。スコットの話を聞いても、上から落ちてきた、ということ以外、どこにあったものなのかわからないんだ」
マリオンの含みのある言葉に何かを察したらしいジェームズはしばらく黙っていた。物珍しそうに書斎の棚を見ている。先祖代々のものらしいめずらしい剥製や博物が飾ってあるのだ。
「……まさか誰かが落とした、とか」
「さあ」
マリオンは肩をすくめる。
「そもそもスコットが襲われる理由が無い」
「……なにか恨まれるような事は?」
「そうだな、結婚式に花嫁を置いて逃げたからな。花嫁には恨まれているかも知れん」
マリオンの言葉にジェームズはおかしそうに声をあげて笑った。
「なるほど、それは罪深い」
「それぐらいだ。わたしよりもよほど善良で誠実な人間だと思うよ」
「じゃあ事故ということにしますか」
「とりあえずは」
それからマリオンは話を変えるべく、ジェームズの顔をまじまじと見た。
「ところでどうして書斎まで?」
「花婿候補ですから。同じ城に住んでいて、夕食の時にしか顔を合わせないなんてつまらないじゃないですか」
「おや、本気で立候補するつもりになったのか」
「検討中ですが」
それからジェームズは手にしていた一冊の書物を差し出した。シナバーである彼だからこそ軽々と持っているが、マリオンが手にしたらそのままひっくり返りそうな大きく重そうな書物であった。
それをマリオンの机の上に置く。
「なんだこれは」
「このあたりに伝わる民間伝承が残されたものです」
マリオンは書斎の椅子に腰掛けたままだ、目の前の机はもともと祖父のものである。重厚感あるこげ茶色の机はマリオンには確かに不釣合いだ。まるでその重みにつぶされてしまいそうだ。傍目にもそう見られている事はわかるし、マリオン自身もそう感じている。祖父が行ってきた領内の仕事が今は思い出というより重圧だ。
「……手書きですね」
ジェームズは大きなその表紙をゆっくりともったいぶるように芝居がかった仕草で開いた。活版ではなく、どこかの誰かの手書きである。ただメモや日記というにはその体裁は重厚すぎた。
丁寧になめされた羊の革の表紙に、かつては相当貴重であったと思われる植物の繊維を解いたもので作られた紙。代々の管理が良かったのであろう、多々見られる挿絵にはまだ色彩が鮮明であった。ページ数もかなりのもので片手では持ちきれないくらいの重みがあった。開かれたページには装飾された金文字が記されている。ただ、それは大アルビオン連合王国の公用語ではない。
「これはどうしたんだ?」
「脱線騒ぎであなたが御多忙の間に、この周辺を回っていました。乗馬で遠出もしましたが近隣の村の村長が持っていたんです。よい酒を持参して、どうか売ってくれないかとお願いしたんです。ユリゼラの文化に大変興味をお持ちの公爵だと説明しました。今は伝承に興味がある人間が相当少ないようで、良心的な価格で売ってくれたんです」
「大変興味がある……というわけではないが……でも確かに興味深い。ならば村長に御礼をしなければならないな」
「そうですね。口伝もかなりご存知のようですから、今度改めて伺いましょう」
「それに君にも料金を払わなければ」
「いいんです。タダメシの身ですからね」
客だといっているだろうとマリオンは念を押したあと、ふとした疑問を口にした。
「どうして手を尽くしてくれたのだ?」
「そりゃあ口説いているんです」
本気で受け取ったら馬鹿みたいな軽い調子でジェームズは言う。マリオンは肩をすくめて気楽な調子で返した。
「自分で言うとありがたみも半減だな」
「ありがたみなんて感じて欲しくありませんから、結構です」
ジェームズがマリオンを口説いているのかどうかはわかりづらい。本当に口説いているのなら言わなくていい余計な一言が多いのだ。そもそも彼には口説く理由が無い。もともと借金返済のためという赤裸々な事実があるというのだから、口説くなどと言ってもその愛情に信頼が欠ける事は彼自身一番わかっているだろうに。
「さて、ところでこれ読めますか」
ジェームズの質問は至極基本的で常識的な疑問である。
「さあね。なにせ古代ユリゼラ語だ」
アルビオン地方が統一される前に使われていた言語である。統一前ですら殆ど絶滅しかかっていたというのに、統一で言語の標準化が一気に進み、今では誰も話すものもいない。
「ただ、絵はわかる」
マリオンはその華奢な指で重い本のページを繰った。しおりがはさみこんであったそのページに書いてある物をジェームズが指し示す。
「この屋敷のステンドグラスにあるものと同じですね」
黄金の鷹、そして緑の石が付いた杖を持つ女性の絵。リアリズムとは程遠い古代の素朴な技法で描かれた挿絵にジェームズは頷いた。
「アギラとヴェルディ」
マリオンはページに目を落とす。
「民話のような、神話のような話だな。古代ユリゼラ語で書かれたものの多くは統一直後の焚書で失われたが、口伝で細々と残っていたのだな。この書物は焚書直後に隠れて記されたものだろう。脱線騒ぎでエドガーと仕事することが多く、その合間にいろいろ聞いた」
「統一王は、優れた治世者でありましたが、国家の基盤を確固たる物とするために地方の文化をあえて消していったという話です。どこでもそういったことがあったのでしょうね」
「……まあ、消えるものはそういう運命なのかもしれない」
マリオンは呟くように漠然とした言葉を吐き出した。失われてしまったことすら誰にも覚えてもらえないものの多いのだろう。
「それで興味深い話はありましたか?」
「そうだな……アギラとヴェルディの話は興味深かったな」
マリオンは引き出しから手帳を出した。エドガーから聞き取った話を書きとめてきたのだった。
「アギラは偉大な太陽の神、ユリゼラ神話では主神なのだが、彼は偉大すぎてその威光により彼が止まる木は全て枯れてしまった。アギラは身を落ち着かせることが出来ず、そのため日は沈まず、何者も休むことができなくなってしまった。その時、この世を支える大地女神ヴェルディが自分の化身である世界樹をアギラの止まり木として許したそうだ。ようやく休むことが出来たがゆえに、そこから夜の神、死の神、月の神などが生まれ、世の理が成立していったということだ。ヴェルディはだから婚姻の女神としての側面もあるらしい」
「古代多神教では一つの神が多様な役割を兼ねていますからね」
「面白いと感じたのがヴェルディのもう一つの話だ。彼女はアギラの妻だが、別の神に言い寄られたこともあるらしい。それをアギラへの貞淑のためはねつけたところその神に殺されてしまったそうだ。アギラはいたく悲しんで、世界樹の木の芽からヴェルディを育てて再生したという話だ」
マリオンはどうだろうと感想を促してジェームズを見上げた。しかし彼は一体何が興味深いのかという顔でマリオンを見ている。その沈黙にマリオンは尋ねた。
「……君も幼少の頃から学校に通っていたのだろう?大アルビオンの国教については嫌でも学ばされたと思うが……」
「そうですね。しかしどうも宗教というものには興味を持てなかったので、耳を素通りです」
ジェームズは肩をすくめた。
「一年前にも不信心者だから、そんな病気にかかるのだと教会の連中に言われて、『興味がない』から『すっかり嫌い』になりました」
「どれほど信仰厚い人間でも……それこそ法王でもシナバーになる可能性がある事は科学的に証明されているのに実に非現代的だな……」
マリオンも呆れる。
マリオンはあまりシナバーに対して嫌悪感や恐怖感はない。孤児院で慈善事業において親切にしてくれた貴族の奥方の一人がシナバーであったことも影響しているだろう。それにジェームズもとても普通の人間だ。
「それで何が興味深かったのですか」
「聖女ヴァレリーがいるだろう?」
ジェームズはそこで少し気まずそうな顔をした。聖ヴァレリー……半年前、マリオンがスコットに逃げられた結婚式の舞台が、その聖女の名を冠した聖ヴァレリー大聖堂だったことを思い出したのだ。聖女ヴァレリーに興味はなくとも地名はわかる。とうのマリオンはさすがにスコットとネルを匿っているだけあって、今更そんなことにこだわる気はさらさらない。
「聖女ヴァレリーは夫がいたが、その夫が布教のため不在の時、別の男に言い寄られた。貞淑な彼女はもちろん断ったが、逆恨みした男に殺されてしまったという。しかしそれを哀れんだ我らの神の手によって、再び息を吹き返し、無事夫と再会できたという話だ」
「はあ、なるほど実に非科学的」
あまり表情を変えないジェームズだが、彼が今の話にひとかけらも心動かされていないということぐらい、マリオンにも良くわかる。
「いやわたしだってこれをそのまま信じてはいないよ。昔は生死の判定が困難だ。もしこれが本当の話だとしても、たまたま仮死状態だったヴァレリーが息を吹き返したのだろうなと話じゃないかと思うのだが。世界樹女神ヴェルディと聖女ヴァレリーの話は少し似ているなと思わないか?」
「……決めた相手がいる女性が別の男に言い寄られて殺される。しかし力ある神の手によって生き返るという流れは確かに」
「興味はなさそうだな」
マリオンはジェームズが困惑に近い態度であるのを感じ取ってつい噴き出してしまった。
「まあいい。わたしがなんとなく面白いなと思っているだけだ」
「もしかしたらヴェルディとヴァレリーの話の元は同じかもしれないという点ですか」
「なんだ、要点はわかっているのか」
ジェームズはマリオンの目の前で開かれている古い本に目を落とした。描かれたヴェルディは微笑んでいた。
「だとしたら、ヴェルディの話が先かもしれませんね。我々の国教がユリゼラに広がったのは統一後なのは間違いありません。でも時代的にはヴァレリーの話より前にヴェルディの話があった事になります。大アルビオン統一前にはユリゼラのほうが大国だった時代もあった。その時にこの神話が寓話として国教に組み込まれたのかもしれません。いや、あるいはユリゼラを支配下に置く目的で彼らの古代宗教を布教用にあえて取り入れた可能性もあります。馴染みあるものの方が人は受け入れやすい……というと教会連中は怒るでしょうが」
「そういうことだ」
マリオンは知らず目が輝いていた。自分にもいろいろ思うことはある。でもそれを誰に言ったらいいのかわからない。今回思いきってジェームズに伝えてみて、彼が少し興味を持ってくれたのが嬉しい。
ジェームズはああ、とふいに合点が言った顔をした。だがその表情は本当にわずかで殆ど気がつかれないレベルでこわばった。
一瞬彼の目が泳ぐ。
「……なるほど。それは確かに興味深いですね」
ジェームズの返事が当初そうでなかったというのはマリオンにもわかった。彼は何か言葉を飲み込んでこんなあたりさわりのない言葉を選んだのだろう。
マリオンのほうも思わず次の言葉が出なくなってしまう。彼が何かを自分に隠したということに気が付いたからだ。彼は一体何を覆い隠したのか?
何か言いたいことがあるのでは?と問おうかとも思ったが、彼にどこまで踏み込んでいくか、マリオンもまだ決めかねている。マリオンの中の何か投げやりな部分は、夫は彼でいいのだろうと思うが、そういった態度を自分に好意的に接してくれる彼に向ける事は気がとがめた。でも気が咎めるくらいの相手ならば自分も彼を憎からず思っているといえる。それならば結婚しても普通に幸せになれるかもしれない。
こうして戸惑うばかり……自分の気持ちすら定まらないのだ。
「……明日、案内しよう」
マリオンは話を変えるため、思い出した約束を蒸し返した。
「古城ですか?」
「そう。山の上だから午前中、早い時間に出たほうがいい」
「では楽しみにしています」
ジェームズはにこやかに頭をさげて、部屋を出て行った。マリオンはしばらくぼんやりと机の上の書物を眺めていたが、ふと暖炉の火が消えかかっていることに気が付いた。そろそろ眠ろうかと思っているから、このままでいいか……と思いつつ、立ち上がり暖炉に近寄る。火掻棒で暖炉のなかをかき回そうとした時だった。燃えさしばかりの暗がりに白くまぶしいものを見つけた。引き寄せてみれば、それは白い紙の燃えさしだった。細かく破られたそれは、封筒と手紙であるようだった。
「……ここ最近、この中に入れたものなどあったかな……?」
確かに要らない書類を暖炉に放り込んで焼き捨ててしまう事はよくあるが、ここしばらくでは覚えがなかった。火傷に気をつけながら拾い上げる。手紙自体はほとんど炭となっていて、何も読み取れるものはない。ただ、封筒の破片にはまだ字が残っていた。
「……ネル宛?」
差出人は不明だが、宛先はネルだった。見たことのない字である。
そういえばスコットが、ネルは友人からの手紙を待っていると言っていた。これがそうだったのだろうか。でも、今日はまだ届いていないと言っていた。
しかもマリオンは彼女にこんな手紙が届いたことを知らない。おそらく手紙は一端この書斎に運ばれたのだろう。本来家令がいれば、手紙の仕分けはやってくれるのだが、長く勤めていた家令は先代の死と共にこの城をやめてしまった。そのためマリオンが仕分けをしている。使用人がやってくれることもあるがこのようにネルに行かず、マリオンの書斎で放置されてしまうような間違いもある。
ただ、この場合。
誰かが勝手にマリオンの書斎に入って、ネル宛の手紙を探し、そして中身を読んで焼き捨てたということになる。
一番手紙を待っていたのはネルだから、もしかしたら彼女かもしれないが……ではなぜ焼き捨てたのだろうか。
一体この手紙には何が書いてあったのか……。
マリオンは胸騒ぎを感じて暖炉を思わず見つめてしまう。
その時だった、部屋の扉が急に開いた。はっとしてそちらを見たマリオンは今頭になかにあった人物がそこにいることに気が付いた。
ネルは部屋にはいって来ることなく、顔だけ覗き込んでマリオンを見つけたようだった。
「ねえ」
あいかわらずのざっくりとした言葉で話しかけてくる。
「ちょっと話があるんだけど」




