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その日、聖ヴァレリー大聖堂では一つの結婚式が厳かに行われていた。
「その結婚、ちょっと待った!」
その言葉が響き渡るまでは。
大アルビオン連合王国随一の華やかな町並みが並ぶ首都アーソニア、そのほぼ中央にある聖ヴァレリー大聖堂は、国内でも一二を争うほどに巨大かつ壮麗な建築である。
石造りの建物は南と北で微妙に建築様式が違う。三百年前、統一王による大アルビオン連合王国成立を祝って作られたこの建物は計画から完成までに八十年を要した。その間に残念ながら火災によって一部が焼け落ちたために、全体としての統一性は失われることとなった。しかしそれすら魅力として神々しいまでの迫力を訪れた人間に与えていた。また教会内に飾られた多数の絵画や彫刻は、美術館も顔負けの名作ばかりだ。
最奥の壁面にある、息を飲むほどに美しい青と赤が多用されたステンドグラスからは春の光が柔らかく祭壇に降り注いでいる。
マリオンは婚礼衣装に身を包んで、聖歌隊の歌声の響くなか、ゆっくりと足を進めた。中央の身廊には濃紺の絨毯が敷かれ、その両脇では招待客が歩くマリオンを微笑みながら見守っている。絨毯の上に長く伸びたマリオンの婚礼衣装は、北のユリゼラ地方の一面の雪景色に似た純白だった。
小柄なマリオンだが今日は花嫁としての輝きに満ちて誰よりも目を引いた。普段かけている分厚いレンズのあまり見栄えの良くない眼鏡はさすがに外している。それでも新郎の顔を見間違うことは無い。祭壇の前にたどり着けば、新郎が司教と並んで待っていた。
新婦、マリオン・スクライバー。
新郎、スコット・アシュトン。
スクライバー家は国内に三家しかない最高位貴族公爵家である。立派な家格を持ち、貴族としての体裁を整えて余りある資産を持っていた。今日の婚礼もどこかの村であれば丸ごと数年、下手すれば十数年養える程の費用がかけられているがスクライバー家にとってはそれほど大きな出費でもない。
マリオンの衣装は滑らかに輝く総絹製だ。遠国からの輸入品である絹糸は、国内の有名な織物産地に運ばれた後、腕の良い職人の手によって光が当たると複雑な花模様が浮かび上がるように見事に織り上げられていた。
新郎のスコットはその端正な顔立ちもさることながら、佇まいそのものが洗練されきった青年である。最初に会った時から五つ年上のスコットはすでに完成した紳士であった。彼が声を荒らげる姿はもちろん、狼狽する姿すら見たことはなかった。父の仕事を手伝う多忙な日々の中にあってマリオンとの時間も大切にしてくれていた。今も穏やかに微笑んでそっとマリオンに手を伸ばした。その手を取って新郎の顔をマリオンはベール越しに見つめる。
……この人が夫ならきっと幸せにしてくれる………………であろう、きっと。
式の後は大勢の招待客との三日間に及ぶパーティ、その後は二人で首都から少し離れた海辺の町の別荘で二人だけの旅行を兼ねた生活。もちろんマリオンもスコットも忙しいからしばらくしたらユリゼラ地方の自城に戻ってこなければいけない。
マリオンは公爵家令嬢ではない。彼女こそがスクライバー家の当主、現ユリゼラ公爵なのである。
一昨年、先代公爵であった祖父の死により、彼女はわずか十五歳にしてその地位を、広大な領地と莫大な資産と共に相続した。そして、あらかじめ祖父の意向により彼女の夫も定められていたのだ。それが今、彼女に手を差し伸べているスコット・アシュトンである。
マリオンは幸福で満たされているはずの空気の中思う。
まだまだわたしは公爵としての仕事もろくに出来ていない。家庭の維持はなおさら出来ないが、幸い先代からそのまま勤めてくれている使用人達や領地の旧家の人々は皆善良で親切だ。本当にこれは僥倖。
……まあ、どうも嫌われているらしい相手はいるが、全ての人間から無条件に好かれるとも思っていない。
公爵としてユリゼラ地方を治めると同時に、自分が得る事はできなかった温かな家庭も築きたい。やがては子供生んで育てて。きっとスコットはそのための協力を惜しまないでくれるだろう。さすが祖父が選んだだけあって、優秀な人間である事は間違いないし、何年にも渡ってわたしも彼と交流を深めてきてその誠実な人間性については良く知っている。
大丈夫、きっと誰に恥じることも無い立派な人生を送ることができる。
それこそが祖父が望み、そしてわたしの望むべき将来だ。
なんて。
なんて……。
…………。
思い浮かんだことをマリオンは振り払った。式の最中にそんなことを考えるのはどうかしている。
ゆっくりと司祭が聖句を唱え始めた。
大聖堂の名称にもなっている聖女ヴァレリーは民衆の間では最も信仰の対象として人気がある存在である。
神と夫への献身の逸話をもち、家庭の安定の象徴でもある。結婚式は聖ヴァレリーにまつわる聖句が不可欠とされているほどだ。
さすがに王族の結婚式には及ばないまでも、これほど立派な式はこれから先数年はお目にかかれまい、そんな招待客の心の声が聞こえてくるようだ。誰からも祝福された結婚である事はその段階で明らかだった。
「この結婚に意義のある者よ、今ならば聖女ヴァレリーの名において発言を許す」
式を取り仕切る大司教の言葉は儀礼的なものだ。誰も発言するものなどいるはずもなく、大聖堂は温かな沈黙に包まれている。
巨大な薔薇窓のステンドグラスから注ぐ光は神々しい。その光にも似たマリオンの黄金色の瞳はベールの覆いを取り去ってマリオン自身に口付けようとするスコットを見つめる。
多分、これでいいはず。
それは自明である。この世のわずらわしさや理不尽を避け、それなりに大勢の人間が間違いなく幸せになる方法であるはずのこの結婚だ。その幸せに中にはもちろんマリオン自身も含まれる。スコットの人格の確かさはマリオン自身が良く知っているのだ。彼と結婚したいと望む乙女は世に溢れている。
だから、この結婚は正しい。
けど。
マリオンの迷いを見透かしたような声が響き渡ったのはその瞬間だった。
「意義あり!」
言葉は祭壇とは逆側の入り口のほうから発せられた。招待客もいっせいに振り返る。
マリオンが歩いてきた青い清浄な絨毯。そこに仁王立ちしている女がいた。
スコットと同じくらいか、あるいは少し年上に見えた。くしゃくしゃの濃茶色の髪を乱暴にまとめている。着ている服はまったくの普段着だ。古ぼけたスカートにブラウス。
「その結婚、ちょっと待った!」
彼女はもう一度叫んだ。
思いもよらない展開にマリオンは目を丸くしてその女を見つめることしかできない。
マリオンより数段……いや数十段落ちる身なりの彼女はこの威圧されそうな巨大な大聖堂でまったく気後れしている様子はなかった。その瞳は茶褐色なのにまるで燃え上がる炎のように輝いている。祝福のステンドグラスの光など必要なく、彼女自身の内面にまぶしく発光するものがあった。
「スコット・アシュトン。これでいいの?!」
彼女はマリオンを一瞥もしないでただ、スコットに呼びかけた。
マリオンは横の新郎を見上げた。いつもどおりの物静かな微笑があるだろうと考えたのだ。
だがそこにあったものは今までに見たことのない、彼の青ざめた顔だった。スコットの唇は震えて紡いだ。
「……ネル……!」
まさか。
マリオンは今度はその女を見ることができなかった。スコットから目をそらせず、そして動けない。それは周りの招待客も同じだった。後になって冷静に考えれば、その女は名家の婚礼に飛び込んできた非常識な愚か者に過ぎないはずなのに、誰一人その瞬間、本当に神聖なものを目の当たりにしたように動けなかったのだ。
祭壇前のスコットと入り口の女の間にある何か確たるものが皆を凍らせたようだった。
そんな中彼女の声は再び響いた。
「スコット!黙ってあたしについてきなさい!あたしはあなたを必ず幸せにする!」
その言葉こそ。
なぜかマリオンには聖女ヴァレリーの真の聖句のように思えたのだった。
「……ごめん。マリオン、ごめんね」
凍りついた空気の中、一瞬だけスコットの指先がマリオンの頬に触れた。その温かさとわずかな震えにマリオンが我にかえった瞬間には、スコットはその青い絨毯の上を駆け出していた。真っ白な花婿の衣装の背はどんどん遠ざかっていた。
スコットが女の手を取った瞬間、ネルと呼ばれた女は間違いなく彼の手を強い力を持って握り返したようだった。そのままぽかんとしている花嫁と司祭、そして参列者を置き去りに二人は扉を押し開けてあっというまに姿を消してしまったのだった。
煌く結婚指輪を載せた台を捧げ持った若い司祭はマリオンの横で唖然としており、大司教もそのまま立ち尽くすしかない。
「……かけおち?」
一つ一つの音を確認するように、誰かが呟いた。
それを発端として徐々にざわめきは広がっていく。驚きと怒り、嘆きと……そして大部分をしめる好奇心。
やがて、マリオンの手から白い花のブーケがぽとんと落ちた。それを追うようにマリオンもがくりと床に膝をつく。
ああ、なんてこと。
マリオンは目をしばたかせる。
お爺様がわたしのため、ユリゼラのため、公爵家のために、生涯をかけて用意したマリオン・スクライバーの『幸福な人生』の台本。わたしはその台本のままに彼と結婚するはずで。それなのに、こんな、新郎が駆け落ちとは。
なんて。
なんて不幸……不幸な………………。
…………………………………………不幸なのかな?
あれ?……なんか楽しくなってきた。
結婚式に花婿に逃げられた不遇な花嫁を支えようと司教や来賓者たちが慌てて駆け寄ってくる中、マリオンは深く俯いて顔を隠しながら。
実はこっそりにやにやしていた。