次世代VR
「次世代VR」
古いアパートに真夏の陽が照り付けていた。そこに住む男がいぶかしげに玄関のドアを開けると、セールスマンが立っていた。
「お休みのところ申しわけございません。VRいりませんか?このようなものなのですが……」セールスマンは膝をつき持っているジェラルミンケースを手際よく開けた。
「このようなモニター付きのゴーグルを頭にかぶるとですね。リアルな世界を体験できるんです。従来のテレビゲームを更に進化させた話題の電子機器です。しかもウチのはただのVRではありませんよ。当社の技術の粋を結集させて作り上げた次世代のVRです。ガラケーの次世代機がスマートフォンであるように、今までのVRの次世代機を秘密裏で完成させました。百聞は一見に如かずです。こちらの試供品をおためしください。このゴーグルをご装着くださいませ」
当初、アパートの男はただの暇つぶしで普段は応じないインターホンに出てみた。しかしセールスマンの話が存外、興味深いものだから、素直にゴーグルを受け取り装着してみた。目を数回パチパチさせたら、徐々に視界がクリアになった。そこには、驚くほど、好みの異性がいた。顔やスタイル、所作に至るまですべてが好みの女性が、セールスマンのいる場所に代わりに立っていた。男は思わず息を呑んだ。その女が口を開いた。
「気に入っていただけましたか?それとですね。こちらの帽子、少々値は張るのですが、そのゴーグルにあわせてこちらの帽子を装着していただきますと、部屋にいながら寝ていながら……あらゆることが出来てしまいます」
男はもうほとんど自発的にその女から、一見するとバイクのヘルメットのような光沢の真っ黒な物、を受け取って頭に装着した。すると今いる玄関先から、瞬間移動して、どこかのホテルのベッドに存在していた。先ほどの完璧な女性と、男女の距離で向かい合いまばたきを交わしていた。女は言った。
「この帽子があなたの思念を読み取り、いきたい場所に連れていき、したいことをさせてくれます。空を飛んだり、妄想の世界を、自由に動き回ることが可能です。最後にこちらの小型イヤホンをどうぞ……これを装着したら外の世界と完全に遮断されます。耳障りの悪い音はもう聞こえません。理想の音楽や理想の言葉のような心地の良い音だけが聞こえてきます。どうでしょうか?……以上、ゴーグル、帽子、イヤホン、これら「次世代VR」で、最高のエンターテインメントを保証しましょう。本製品のご購入いかがなさいましょうか?」
男には金がなかった。どうにか金を払える当てはあるのだと伝えたくて口から出まかせに何か言おうとモゴモゴしていたら、女はもともとの笑顔をさらにほころばせて言った。
「ウフフ……無料で差し上げます。あなたは当社のモニターに選ばれました。どうぞ、心ゆくまで、次世代VRをお楽しみくださいませ」
それから男はアパートに引きこもり、来る日も来る日もVRに熱中した。装着して念じてみたら何もかも目の前に現れた。___________「明晰夢」という言葉がある。夢を夢だと理解して自分の思うままに動かせる夢のことである。次世代VRはその「明晰夢」に近いものだった__________どこかに行きたいと念じたら、マチュピチュでもウユニ塩湖でも、はたまた宇宙だろうが、イマジネーションの限り行きたい場所へ行くことができた。恋がしたいと念じたら、パーフェクトな女性が目の前に現れて、とにかく楽しくなりたいと念じたら、数年に一度あるかないかのとても愉快な飲み会ができて、空を飛びたいと念じたら、空を浮遊して柔らかな風を頬に感じて心地よく漂っていた。男はますます次世代VRにのめり込んだ。
明くる日。再びアパートのインターホンを押すセールスマンの姿があった。応答がないことを確認してセールスマンは土足で上がり込んだ。ゴミだらけの汚い部屋で、アパートの男は口元に笑みを浮かべたまま、VRに興じていた。
「おーい!……って小型イヤホンをつけているから聞こえるわけないか……。先日は申し上げなかったのですが、じつは私どものVR、あなたのような捕まっていない犯罪者、をVR世界上に隔離し、現実で犯罪を起こさせないようにするため作られました。そのあまりに居心地の良いVR世界に、犯罪者の人にしばらく居てもらうわけですね。あなたはそんなVRの試作品の、モニター、被験者に選ばれたというわけです。ちなみに今日はその途中経過を見に来たのですが……うん、問題ない。良好です。また来ますね」
当初、男はVRの中でも、またいつものように犯罪をしてやろうと企んでいた。しかしVR世界では何もかも念じるだけで手に入ったので、以前行っていた、窃盗や強盗など、する必要がなかった。_________そもそもの話。男が犯罪をおかしていたのは、欲しいものがあるが手に入らないから_________つまり欲望を満たす手段として犯罪をしていた。ゆえに、すべての欲が満たされるこの世界ではもはや犯罪をする理由がなかった。
男はすっかり毒気を抜かれ、この際、犯罪そのものを辞めようと改心した。そうしてVRの中で、仕事を見つけ働きはじめて、VRの中で結婚までしてしまい、家庭を持つようになった。更にはVR上で欲望のまま好き放題することも辞めた。犯罪者から一転、真人間となった。もはや男は、すべての時間をVRの中で過ごすようになっていた(排泄や食事などはほとんど無意識にアパートの中を動いて行った。住み慣れた家で夜に電気を付けずとも動けるのと同じように、VRを装着したまま、無意識に最小限の生活を行った)
彼にとって、もはや現実が虚構であり、VRこそが現実であった。
そんなある日だった。男は、VR世界の仕事で重大なミスを犯した。胃液が逆流するかのような気持ち悪さと、今まで感じたことのないほど強烈なストレスに、四六時中苛まれた「あなた最近顔色悪いわよ」「パパどうしたの?」ほとんど病的に疲れ切っている男のことを、美しすぎる完璧な妻と、可愛すぎる完璧な子供は心配した。
大事な家族に心配をかけたくない。大人としてしっかりしなくてはいけない。そう思いながらも今のストレスに対して何もはけ口もなかったら気がおかしくなってしまいそうで、男の心はぐちゃぐちゃで、また以前のように犯罪をおかしたい衝動に駆られた。
男は一人になれるトイレに行き、カギを閉めて、何か一言つぶやいた。VRを外した。綺麗なマンションの一室から、暗転、汚いゴミだらけの部屋に風景が変わり、何ヶ月も着替えていない不潔なスウェット姿のまま、アパートの外へサンダルで駆け出た。もう、誰でもいいから欲望のまま殺したくて、付近に人間を探した。妻や子供の存在しない、守るべきものがいない、大事なものがない、この現実世界ならどうなってもどうでもよかった。住宅地の街路を曲がった先に、ちょうどよく男性がいたので、彼はその男性を勢いよくナイフで刺した。
久々の殺人はやっぱり恍惚であった。その場で呼吸が落ち着くのを待って、ゆっくりとアパートに向かった。夕方だった。少し肌寒い季節になっていた。小さな踏切がリンリンリンリンと鳴っていた。快楽の余韻に浸りながら電車が通過するのを待った。踏切が上がって、さあ帰ろうとした瞬間、突然、大きなパンッという音が聞こえ、男の人生は閉じた。男が倒れると、後ろにセールスマンが立っていて、拳銃の引き金を弾いた後だった。
「以前、犯罪を起こさせないためVR世界上に居てもらうと言いましたが、もっと言いますと次世代VRは『犯罪者更生プログラム』だったのです。しかしモニターがこのような形になってしまい、残念ながら失敗です。私どもの思惑通り、あなたはVRの中で犯罪をしない生活にシフトしていきました。以前は、血も涙もない犯罪者だったのに、あなたはVRの中で出来た家族に対して、愛、やさしさ、いたわりを持ちました。更生プログラムは一見成功したかのように思えたのですが……けれどあなたのその『思いやり』はVRの世界だけのもので、現実世界はどうでもよくなり、結局、罪をおかしてしまいましたね。皮肉なものです」
「当社は素晴らしい会社です。あなたのように生まれながらにして犯罪をおかさないと気が済まない人、を救済しようとしているのですから。しかし、もう少し改善の必要がありそうです」
「かくいう、わたしも元犯罪者。当社に救われた一人なのです。あなたのような人が出て始末しなきゃいけないので、たまにこうして息抜きとして殺しができます」
セールスマンは、複雑な表情の中に、少しの恍惚を浮かべていた。