第三十六話目だけれど、とんでもないことに巻き込まれました!
昨日は父や兄、執事などの男性陣にどんな軽食があったら嬉しいか聞いて回り、意見をまとめてみた。好みはさまざまだが、やはり男性はお肉が好きらしい。
兄だけは、野菜がたっぷり入ったキッシュが好きだと話していた。肉ばかりだと食生活が偏ってしまうので、いいのかもしれない。
最近、デュワリエ公爵だけではなく、“エール”も変わった。今まで休憩時間は、雑用係が各々の職人のもとへ軽食と紅茶を運んでいたのだ。
しかし今は、休憩室に用意された飲み物と軽食を、各々食べに来るようになった。
雑用係の仕事が減った分、調理の手伝いができる。そのため、軽食の種類も毎時間三種類と充実していた。
加えて、食べながら、飲みながら作業することを止めた職人達は、休憩時間を挟むことによって作業効率が上がったという。やはり、休憩は大事なのだろう。
デュワリエ公爵も、私が飲み物と軽食を持ってきた時は、作業を中断してくれるようになった。
生産性が向上し、より多くの装身具を作れるようになった“エール”は、先日一日の売り上げ記録を更新したという。今まで、欲しくても入手できない人が多かったのだろう。いいこと尽くめだ。
明日は、腰が疲れない椅子を作ってもらうために、父が懇意にしている鞍職人を訪問する予定だ。
父が愛用している鞍は、何時間と跨がっても体に負担がないらしい。その技術を、椅子にも応用できないか、話を聞きに行くのだ。
もしも、これが上手くいったら、職人達は職業病である腰痛に悩まされなくてもよくなる。
その翌日は、従業員達の健康を考えて作る、よりおいしい野菜ジュースをマリアさんと試作するのだ。
このように、仕事は山のようにある。どれもやりがいのあるものばかりで、充実した毎日を送っていた。
これまで、私の娯楽といえばアナベルの振りをして社交場に出かけることだけだった。
取り巻きからチヤホヤされて、おいしい紅茶を飲み、上品なお菓子を食べる時間が何よりも楽しかった。これ以上の快感はないと、思っていたのだ。
しかし、それは間違いだったのだ。
現在、自分の頑張りが認められる環境の中で、たくさんの仲間とお茶やジュースを飲み、軽食を食べる時間が何よりも尊い。
アナベルの振りをしているときは何も残らなかったが、今は周囲からの信頼感が私の中に在る。
これからも、大切にしていきたい。
さすがに睡眠時間が少なかったからか、ものすごく眠たい。規則的に揺れる馬車が、眠気を誘ってくれる。少しだけ微睡むくらいならば、許されるだろう。きっと、デュワリエ公爵を前にしたら、シャッキリ目が覚めるはず。
少しだけ、少しだけ……。そんなことを考えながら、眠ってしまった。
それが、よくなかったのだろう。浅く眠るだけのつもりが、どっぷり深く眠ってしまった。
馬車がガタン! と音を立てて大きく揺れた。ハッと覚醒する。
今の揺れはなんだったのだろうか。王都の整備された石畳では、ありえない衝撃だった。 窓を覆っていたカーテンを開いて驚愕する。目の前に広がるのは、見知らぬ森だった。
御者台があるほうのカーテンを開き、ドンドンと叩くが反応はいっさいない。
「すみません、止めてください!!」
いつも車内に置かれている、御者に合図を出す棒なんて置かれていなかった。
拳で車体の壁を叩いても、止まってくれない。
ここでようやく、異変に気付く。御者は、いつもやってくる人ではなかった。どこで雇ったのか、アイロンのかかっていない皺が寄ったシャツをまとっている。
馬車もいつも乗っているものよりシートカバーの張りや、木の質感が異なっていた。
この馬車は、デュワリエ公爵の物ではない。
森を走る馬車、反応しない御者、いつもと異なる馬車――このことから考えて、私はおそらく何者かに誘拐されているのだろう。
「どうして、こんなことに……!?」
その場にへたりこみ、頭を抱え込んでしまう。
通常であれば、貴族の馬車には座席の下に護身用の短銃が置いてある。
しかし、この馬車にはなかった。それどころか、武器になりそうな物はひとつもない。
馬車の扉は内側からも開ける構造だ。だが、馬車が走っている中で飛び出したら、体を地面に殴打してしまうだろう。怪我だけでは済まされないかもしれない。
こういうとき、物語のヒーローが颯爽と現れて、ヒロインを助けてくれる。
私の物語には、残念ながらヒーローはいないのだ。
馬車はそのまま一時間ほど走り、湖の畔にたどり着く。近くには、小屋が建っていた。
霧が深く、辺りは昼間なのに不気味だ。王都の郊外に、こんな場所があったなんて。
もう、ここまで来てしまったらどうにもならないだろう。連れて行かれる際に乱暴されないよう、眠ったふりをしておく。
ここは深い森の奥地だ。霧も濃い。運よく逃げられたとしても、王都に戻るのは困難だろう。大人しくしていたほうがいい。
正直、かなり怖い。けれど、助けが来るまで耐えるしかなかった。
しばらくして、馬車の扉が開かれる。
「なんだ、眠っているな」
「誘拐されたのも、気付いていないようだな」
誘拐犯は、ふたり組らしい。声色から、四十代から五十代くらいだろう。
先ほど馬車を力いっぱい叩いたが、それには気付いていなかったようだ。道がでこぼこだったので、その振動にかき消されていたのかもしれない。
「この棒は、必要なかったな」
「一応、もっておけよ。途中で暴れるかもしれないし」
その会話を耳にした瞬間、全身鳥肌が立った。
予想通り、私が悲鳴をあげたり、暴れたりしたら棒を使って大人しくさせようとしていたようだ。
男達が、馬車の中に乗り込む。
「これが、デュワリエ公爵の婚約者か」
「美人だな」
「いや、こいつは厚化粧なだけだ。化粧を落としたら、化け物かもしれん」
誰が化け物だ。腹が立ったが、ぐっと奥歯を噛みしめて耐える。
乱暴に腕が掴まれた。ぞわっと寒気がして、悲鳴をあげそうになったが喉から出る寸前で飲み込んだ。
「おい、丁重に扱えよ。大事な人質なんだから」
「わかっているよ」
そんな会話をした次の瞬間に、座席から引きずり落とされる。ゴン! と頭を強くぶつけてしまった。
頭から落とされた。信じられない。
「おい、何をしているんだ!!」
「いや、どうやって下ろしたらいいのか、わからなくてよ」
「起きたらどうするんだよ!!」
とっくの昔に、目は覚めておりますが。
悲鳴をあげなかった自分を、最大限に褒めたい。
男達はふたりがかりで、私を持ち上げる。森で仕留めた獲物のように、手と足を分担して持ち、えっさっさと小屋に運んでくれた。
下ろすときは、小麦の大袋を置くとき同様、放り投げてくれた。“丁重な扱い”とは、いったい……。
手と足を縛られ、男達は小屋から出て行った。
はあと、息をはきだす。決して、安堵のため息ではない。
湖の畔にある小屋は、貴族の娯楽用の物のようだ。手漕ぎボートに、釣り竿、ボールと、楽しい行楽の品々が置かれている。定期的に訪れており、管理する者がいるのだろう。内部は埃臭さはなく、見渡す限り目立つ汚れや塵などが落ちていない。
だからといって、安心はできないが。
男達は、デュワリエ公爵の名を口にしていた。きっと、アナベルを誘拐したことを餌に、身の代金を請求するつもりなのだろう。
デュワリエ公爵の足を引っ張るような事態に巻き込まれてしまった。
なぜ、やってきた馬車にホイホイ乗ってしまったのか。
もしかしたら、あとからやってきた公爵家の御者が、私がいないことを不思議に思って通報してくれているかもしれない。
が、ふと疑問が浮かんでくる。そもそも、私を誘う手紙自体、本物だったのかと。
そういえば、珍しく、手紙にはデュワリエ公爵家の家紋印が押されていなかった。
文字は、どうだっただろうか。あまり、記憶にない。けれど、私を誘う文章が、いつもより砕けていた気がしなくもない。
忙しさと戦っている中で読んだからか。あまり集中していなかった。
思い返したら、おかしな点がいくつもある。なぜ、違和感を覚えなかったのか。
私がもっとしっかりしていたら、誘拐なんてされなかったのに。
こうして誘拐されてから、自分を責めても遅い。
はーーーーと、あまりにも深く長いため息をついた瞬間、小屋の扉が開かれる。
やってきたのは、フロックコートを纏った背の高い細身の男性。
一瞬、デュワリエ公爵かと思ったが、違った。一歩足を踏み入れただけなのに、香水が強く香っていた。鼻にツンとくる、匂いだった。デュワリエ公爵は、このように強い香水なんて使っていない。
深く被っていた帽子を取ると、相手の容貌が明らかになる。
前髪は撫で上げており、垂れた目元に薄い皺がある。ブラウンの冷徹な瞳が、私を見つめていた。高い鷲鼻に、きつく結ばれた唇を持つ男性に、見覚えはなかった。
年頃は四十前後か。若いときはさぞかしカッコよかっただろう、という雰囲気である。
ふいに、男性の口元に笑みが浮かぶ。朗らかさはなく、嘲り笑いだ。
「俺が、誰だかわかるか?」
知らんがな。そんな言葉を、発する前にごくんと飲み込んだ。




