第三十一話目だけれど、“エール”の秘密を知りました!
「その、“エレガント・リリィ”の女神って、どなたなんですか?」
「わからないんだよ」
「え?」
「誰が聞いても、工房長は答えないんだ」
「そう、なんですね」
「ただ、工房長は“エレガント・リリィ”の女神と再会してから、優しくなったよ」
たしかに、デュワリエ公爵は出会った時に比べて、表情や態度が柔らかくなった。
きっと、“エレガント・リリィ”の女神のおかげなのだろう。
「私達は“エレガント・リリィ”の女神に感謝しているんだ。工房長は働き詰めで、今にも倒れてしまいそうだったのに、今は実に健康的だからね。妹のフロランス嬢も、つられて元気になっているんだから、正真正銘、女神様なんだよ」
「そんな人が、実在するんですね」
「本当に、そう思うよ」
デュワリエ公爵やフロランスが元気になって、とても嬉しい。
けれど、なんだかモヤモヤしてしまう。この気持ちはなんなのか。
デュワリエ公爵が心を許す女性が、アナベルの他にいるなんて。
芸術家の多くは、インスピレーションを得る女神が存在する。なんて話を聞いたことがある。その多くは、愛人だという。
貴族にも、愛人の存在はつきものである。うちの両親のように、仲睦まじい夫婦は珍しいのだ。
理解しているつもりだった。だが、デュワリエ公爵にそういう存在がいるとわかると、モヤモヤしてしまう。
と、ここで気付く。私は別に、デュワリエ公爵の婚約者でもなんでもない。モヤモヤする資格すらないのだ。
自分の浅ましい考えに、恥ずかしくなった。
「そろそろ工房長の休憩時間だから、部屋を掃除してきてくれるかい?」
「わかりました」
私は今、大好きな“エール”で働いているのだ。デュワリエ公爵のことなんて、頭の隅に追いやろう。
気合いを入れて、デュワリエ公爵の部屋の掃除に向かった。
先ほどはデュワリエ公爵の美しい顔しか見ていなかったのか、部屋の汚さには気付いていなかった。
床にはぐしゃぐしゃに丸められた紙が散乱し、零した紅茶と割れた茶器がそのまま放置されている。
紅茶を拭き取ろうとしゃがみ込んだら、きれいな真っ二つに割れているティーカップを見てぎょっとした。
これは、カップの縁に金箔を焼き付けた高級磁器だった。なんてことだ。こんな無残な姿で発見してしまうなんて。なんとか修繕できないものか。
ため息をつきつつ、柔らかいタオルにティーカップを包む。
と、こうしていられない。デュワリエ公爵の休憩は三十分らしい。その間に、部屋をきれいにしておかなくては。
床に散らばった紙は、伸ばして厚紙に挟み、収納しておくらしい。デュワリエ公爵はゴミだと言っているようだが、デザインが盗まれないように捨てずに保管しておくのだとか。
紙はカゴの中にどんどん入れて皺を伸ばしたり、厚紙に挟んだりする作業はあとでする。
早いところ部屋の掃除をしなければ、デュワリエ公爵が戻ってくるだろう。
まずは窓を開いて、空気を入れ換える。
強い風が吹き、作業机にあったスケッチブックがパラパラとめくれる。
ふと目にした瞬間、ぎょっとした。
アナベルが、“エール”の新作と思われる首飾りを身に着けた絵があったからだ。
よくよく見たら、アナベルではない。彼女は、微笑むときには絶対に口元に扇を添える。描かれたアナベルみたいに、口元に見事な弧を描いて微笑む様子は他人には見せないのだ。
これは、間違いなく私だ。なぜ、デュワリエ公爵は私の絵を描いているのか。
再び強い風が吹き、スケッチブックのページがめくれた。
二枚目、三枚目、四枚目と、描かれているものを見てしまう。全部、私だった。
アナベルの演技をしているつもりだったが、描かれているものは素の私に見える。先日アナベルが言っていた通り、上手に演技できていなかったのだろう。
恥ずかしくなって、スケッチブックを閉じておく。
それから一心不乱に掃除をし、デュワリエ公爵の部屋から飛び出した。
早くカナンさんのもとへ戻ろう。そう考えていたら、前方より誰かがやってくる。運が悪いことに、デュワリエ公爵だった。
壁際に避けて、道を譲った。すると、デュワリエ公爵は立ち止まる。
「あなたは――」
「ひゃい!?」
変な声が出てしまった。不審な目で見つめられる。
蛇に睨まれた蛙の気分を、これでもかと味わってしまった。「なんでしょうか?」というシンプルな一言すら、出てこない。
「……知り合いに似ている気がしましたが、気のせいでした」
そう言って、立ち去った。
ホッとしたのと同時に、膝からガクンと力が抜ける。掃除道具を胸に抱いたまま、廊下に座り込んでしまった。
その後、デュワリエ公爵にお茶を持って行ったり、お菓子を運んだり、インクや紙を補充したりと、雑用をこなした。
一切バレることなく、一日を無事に終えた。
なんだか、疲れてしまった。デュワリエ公爵を警戒していたからだろう。
せっかく“エール”の本社にいたのに、あまり堪能できなかった。
……いや、仕事だからこれでいいのか。




