第二十四話目だけれど、ついに婚約破棄します!
どういうことなのか。
フライターク侯爵とアナベルの婚約は、まだ公にはなっていないはずだ。
頭上に疑問符を浮かべていたら、シビルが絶妙なタイミングで耳打ちしてくれた。
「彼女は、マスカール子爵家のご令嬢コランティーヌ様です。フライターク侯爵とつい一ヶ月前まで婚約を結んでいたようですが、突然破棄されたようです」
彼女がアナベルにワインをぶちまけた理由を即座に察した。
それにしても、驚いた。マスカール子爵家は新興貴族で、歴史は浅い。そんな一族と、フライターク侯爵家が婚約を結んでいたとは。
はあはあと肩で息するコランティーヌ嬢を見てみる。流行の先端をいく華やかなドレスに、大粒のルビーの首飾りをかけていた。ティアラと耳飾りも、大きな宝石があしらわれたものを付けている。つまりだ。彼女の実家はお金がある、ということ。
フライターク侯爵は、おそらく彼女の持参金目的で婚約を結んでいたのだろう。
アメルン伯爵家もそこそこ財産はあるものの、コランティーヌ嬢の実家ほどではないだろう。
おそらく、アメルン伯爵家の歴史と、何かがフライターク侯爵には魅力的に映ったのかもしれない。
パチン! という音と共に、頬に鋭い痛みが走った。
「アナベル・ド・モンテスパン! 黙っていないで、何か、言ったらどうなの? 他人の男に色目を使ったことに対する、罪の弁解でもしたらいかが!?」
コランティーヌ嬢に、頬を叩かれたのだ。ツーと、生暖かい何かが滴っていく。指先で触れると、真っ赤に染まった。
誰かが、「きゃあ!」と悲鳴を上げる。
コランティーヌ嬢が私の頬を叩いたのだ。指に嵌めた指輪に、鋭い突起でも付いていたのだろう。切り裂いてくれたのだ。
カッと、頭に血が上ってしまった。
すぐさま、私はコランティーヌ嬢の頬をたたき返す。
「な、何をするの!?」
「同じ言葉を、お返ししますわ。わたくし、こんな酷い暴力を受ける筋合いは、まったくもってなくってよ!!」
アナベル直伝の迫力に、コランティーヌ嬢がたじろぐ。
「誰か、コランティーヌ様を医務室に連れて行ってさしあげて。具合が悪いようですから」
「な、何を言っているの? 私は、正常よ! おかしいのは、アナベル・ド・モンテスパン、あなたよ!」
「いいえ、冷静ではないわ。頭を、冷やしたらいかが?」
視線で、近くにいた男性にコランティーヌ嬢を捕まえろと命じる。
訴えが伝わったのか、男性はコランティーヌ嬢の腕を取った。しかし、それを振り払って私に詰め寄る。
「この、あばずれ女が! あなたのせいで、私の婚約が、破談となったのよ!!」
「事実無根ですわ」
「そんなわけないわ! あなたは、デュワリエ公爵と婚約しているにもかかわらず、フライターク侯爵にも、色目を使ったのよ!!」
シンと、その場が静まり返る。が、次の瞬間、コランティーヌ嬢がとんでもないものを取り出した。
それは、銀色にきらめくナイフである。
振り上げたさいに、磨かれた刃の表面に一瞬、私の姿が映った。ゾッと、肌が粟立つ。
この距離では、回避できない。
歯を食いしばり、衝撃に備えた。
「――っ!!」
けれど、痛みは襲ってこない。
代わりに、コランティーヌ嬢のヒステリックな叫びが聞こえた。
「ちょっと、離して!! 私は、このあばずれ女を、制裁しなければ、ならないのよ!!」
そっと瞼を開くと、コランティーヌ嬢を取り押さえるデュワリエ公爵の姿があった。
手に握っていたナイフを落とし、両手を押さえて拘束している。
デュワリエ公爵の姿を見た瞬間、安心してしまったのか眦から熱いものが溢れてきた。
会場にいた騎士が駆けつけ、コランティーヌ嬢は取り押さえられる。
もう、大丈夫。そう思った瞬間、膝の力が抜けた。
その場に頽れそうになったそのとき、私の体はふわりと浮いた。
デュワリエ公爵が、私を横抱きにして持ち上げたのだ。
「どこか、静かな場所に行きましょう」
優しいその言葉に、頷くしかなかった。
◇◇◇
デュワリエ公爵はズンズンと、王宮内を歩いて行く。
いくつも扉をくぐりぬけたが、警備をする騎士は誰ひとりとして止めなかった。
明らかに、豪華な造りの部屋にたどり着き、長椅子に下ろされる。
デュワリエ公爵は私の前に跪き、ハンカチを差し出してくれた。
すぐに立ち上がると、木箱を持って戻ってくる。中には薬や包帯が入っていた。
「傷口を、洗ったほうがいいですね」
「あ――」
ここで、頬の痛みを思い出す。コランティーヌ嬢に引っかかれて、怪我をしていたのだった。
デュワリエ公爵は慣れているのか、水差しの水を使って傷口を洗ってくれた。じくじくと痛んでいたが、ぐっと我慢する。
最後に、傷薬をそっと塗ってくれた。
「皮膚を薄く切っているだけなので、大丈夫でしょう。痛みや何か違和感があるようであれば、医者を呼んでください」
「ありがとうございます」
まさか、デュワリエ公爵から傷の手当てを受けるなんて。
それよりも、アナベルと騒ぎを起こす前に、とんでもない事件に巻き込まれてしまった。
「先ほどのご令嬢は、知り合いなのですか?」
「いいえ、初対面でしたわ」
まさか、婚約してもいないフライターク侯爵の元婚約者に、詰め寄られるなんて。
まだ、心臓がバクバクと鼓動していた。
「デュワリエ公爵様、申し訳ありませんでした」
「何に対する謝罪ですか?」
「先ほどの、騒ぎについて、ですわ」
こうなったら、この勢いのまま婚約破棄するしかないだろう。このようなチャンスなど、滅多にない。
どうやって婚約破棄を申し出ればいいのか、言葉が出てこない。
代わりに、嬉しそうに兄の婚約者について話をするフロランスの姿が思い浮かんだ。
婚約者を迎えたおかげで、家が明るくなった、体調もよくなったと言っていた。もしも、婚約破棄となったら、デュワリエ公爵家はどうなるのか。
罪悪感で胸が苦しくなり、ポロポロと涙が零れてきた。
みっともなく涙を流していたら、デュワリエ公爵がそっと指先で拭ってくれる。
もう片方の頬は、涙で傷口が痛むだろうと、薬箱の中にあったガーゼを当ててくれた。
優しくされるたびに、心がズキン、ズキンと痛んだ。
これは“エール”の装身具に目がくらんで、他人を騙すことに加担した私への罰なのだろう。
顔を上げ、まっすぐデュワリエ公爵を見つめる。
私を心配そうに見つめる瞳と視線が交わったら、覚悟が揺らぎそうになった。
けれど、言わなければいけない。
ただ、この騒ぎに対する謝罪だけでは、納得してくれないだろう。
アナベルとの作戦は、アメルン伯爵家のアナベルとミラベルが揃って大喧嘩をするという点に、意味があったのだ。
コランティーヌ嬢の乱入のおかげで、予定が狂ってしまった。
改めて、婚約破棄をしたい理由を考えなければいけない。
ちょうど、よかったのだ。コランティーヌ嬢が、婚約破棄に繋がるヒントをくれた。
決して、アナベルの望む平和的な解決法ではないだろう。けれど、やるしかない。
息を大きく吸い込んで、はく。
もう、大丈夫。これで、最後だから。
「本当に、申し訳ありませんでした。デュワリエ公爵様という婚約者がいながら、他の男性にうつつを抜かしていたばかりに」
ハッと、デュワリエ公爵の紫色の瞳が驚きに染まった。




