第一話目だけれど、いきなりボス戦です
「――ちょっと、お待ちなさい! わたくしを無視するなんて、よい度胸ね!」
吹き抜けの廊下に、凜と鋭い声が響き渡る。
驚くなかれ。これは、間違いなく私の声だ。
引き留めたのは、速歩で廊下を闊歩する――銀髪にアメシストの瞳を持つ、見目麗しい男性である。
年頃は二十歳過ぎくらいか。社交界で話題を独占するほどの美貌だという。その辺は個人的にいまいちピンときていないが。好みの問題なのだろう。
そんな彼は私の声を聞いてピタリと立ち止まり、振り返って睨みつけた。
目線だけで人を殺せそうな、鋭い眼差しだ。目と目が合った瞬間、全身に鳥肌が立つ。
さすが、“暴風雪閣下”と呼ばれるだけある。
言葉を発さずとも、「なんだ、この、愚民その一が!」と聞こえてきそうな冷え切った目つきであった。
くじけそうになる気持ちにぎゅっと蓋をして、百年先まで度胸を前借りし、声をかけた。
「もしかして、わたくしの美しさに、言葉を失っているのかしら?」
ここで、自慢の縦ロールを手で優雅に払うのを忘れない。
見事に巻かれた縦ロールは空中で一回転し、振り子のように元の位置へと戻ってきた。
視界の端で、縦ロールがボヨンボヨンと愉快に動いていて笑いそうになったが、ぐっと奥歯を噛みしめる。
今、絶対に笑ってはいけない状況なのだ。戦いの場なのである。
暴風雪閣下は今季一番の冷え込みを誘う、特大の雹を暴風に含ませているような気がした。それほどの、冷え切った目で私を見ている。
心の中で、自分に言い聞かせるように唱える。
――わたくしは、我儘と高慢の権化アナベル・ド・モンテスパン。泣く子も黙る、アナベル・ド・モンテスパン。お山の大将、アナベル・ド・モンテスパン。身内も恐れる暴君、アナベル・ド・モンテスパン。
アナベル・ド・モンテスパンとは、私、ミラベル・ド・モンテスパンの従姉である。双子ではないのに、見た目に身長、体重、スタイル、髪質に至るまでそっくりなのだ。
というのも、私の両親とアナベルの両親はともに、二組の双子で、共に一卵性だった。
奇跡的な出会いにより、姉は兄と、妹は弟と結婚した。つまり、私とアナベルの遺伝子はほとんど同じ。
異なる点は、性格と取り巻く環境くらいか。
アナベルの父親はアメルン伯爵家の当主で、私の父は爵位を持っていない平貴族。
これは、大きな違いである。アナベルは“伯爵令嬢”だが、私は“伯爵家令嬢”である。
この違いは、大きな格差を呼んでいた。
いつも、いつでも、周囲から可愛がられ、チヤホヤされるのはアナベルのほうであった。
だってアナベルは、伯爵の娘だから。
アメルン伯爵家は歴史ある名家で、父親は国王陛下の側近のひとりである。そのため、縁を結びたい人が大勢いる。
娘であるアナベルのご機嫌取りをして、なんとか近づこうとしている者が大勢いるのだ。
一方で、伯爵家の一員であるだけの父の仕事は、国王陛下のお馬番である。美しい白馬と、キャッキャウフフと過ごすだけの、簡単なお仕事だ。母も馬好きなので、意気投合して結婚した。一年中馬の遠乗りデートをするほど、仲がいい夫婦なのだ。
ちなみに、私の三つ年上の兄も、王太子殿下のお馬番を務めている。私以外、皆、馬が大好きなのだ。
……私の家族の話はいいとして。
アナベルは八歳くらいの頃には周囲のチヤホヤに飽きていて、お茶会の参加すら面倒くさがっていた。一方私は、お茶会なんて誘われたことはない。羨ましいと呟いたときに、アナベルが「だったらあなたが、わたくしの振りをして行けばいいじゃない」と言ったのだ。
お言葉に甘えて、私はお茶会に参加した。アナベルの振りをしながら。
そこで、私は快感を覚えてしまう。人々がアナベルの機嫌を伺い、傅くという状態に。
私は見事、アナベルを演じきった。驚くべきことに、バレなかった。
どうやら私には、アナベルの真似をする才能があったのだ。
そんなわけで、私とアナベルはちょこちょこ入れ替わっていた。
アナベルは面倒な社交をサボれるし、私はアナベルの振りをして我儘放題振るまえる。
当時は気付いていなかったが、どうやら私は他人にチヤホヤされるのが、大好きだったようだ。だから、喜んでアナベルの代わりをしていた。
おいしいお菓子が食べられるし、面白い噂話が聞けるし。
とにかく、私にとって社交界は娯楽だったのだ。
それから十年――私とアナベルの入れ替わりは、一度もバレたことはない。
頻度は月に一度か二度で、短時間の催しに限っていたからだろうが。
ふたりの共通で暗記している社交帳も、とうとう十冊目を迎えていた。
そんな中で、アナベルは衝撃的な出来事を語る。なんと、婚約者が決まったと。
相手はあの、“暴風雪閣下”と名高い、デュワリエ公爵ヴァンサン・ド・ボードリアールだという。
彼は十五歳のときに爵位を継いだ若き公爵で、国王陛下の右腕とも呼べる役職に就いている。国王陛下相手でも、暴風雪のような睨みを利かし、仕事を進行させることから、そのように呼ばれるようになったのだとか。
見目麗しい外見であるが、性格は苛烈そのもの。自分に厳しく、他人にも厳しい性格のようだ。
デュワリエ公爵は二十二歳、アナベルは十八歳となり、共に結婚適齢期である。婚約期間を一年おき、結婚しようという話が急浮上したらしい。
伯父はとんでもない良縁を勝ち取ってきたなと思っていたが、婚約は先代同士が決めたもののようだ。
なんでも、若き先代デュワリエ公爵が、先代アメルン伯爵にチェスで負けた際、子ども同士を結婚させる、という約束を交わしていたのだとか。
その子どもが、アナベルとデュワリエ公爵だった。
アナベルはこの話を最近聞かされたようで、あり得ないと激昂していた。というのも、数日前、アナベルは夜会でデュワリエ公爵に話しかけようとしたらしい。しかし、デュワリエ公爵はアナベルを気にも留めずに、スタスタと歩いて行ったのだとか。
彼女は叫んだ。こんな男との結婚なんて、まっぴらごめんだと!
それに、少しだけ恥じらいながら、好きな人がいると呟いていた。
あの、愛すべき暴君アナベル様が恋をしていたなんて……。
好きな人がいるのに、気に食わない男と結婚しなければならない。貴族女性って大変だなと、しみじみ思っていた。いや、私も貴族女性にカテゴリされるのだろうけれど。
兄の結婚相手すら決まっていないので、結婚をどこか他人事のように思っているのだ。
そんなことよりも、私には気になっているものがあった。アナベルの胸で輝く、ジュエリーブランド“エール”の最新のペンダントである。
喉から手が出るほど欲しい一品で、父にどれだけねだっても、買ってもらえなかった品だ。夢の中にまで、ペンダントが出てくるほどだった。
お馬番の父は、高給取りではない。それに、母に馬をプレゼントしたばかりだったので、私のペンダントを買う余裕なんてなかったのだ。
いつもいつでも、私が欲しい物を、アナベルはあっさり手に入れてしまう。私はいつものように、アナベルを「いいなー」と羨ましがっていた。
すると、アナベルが「あげましょうか?」と言ってくる。飛び上がるほど喜んだが、もちろん無償ではないとわかっていた。
何と引き換えにと尋ねると、アナベルは物語に出てくる悪役令嬢のように、実にあくどい微笑みを浮かべながら言った。
デュワリエ公爵の代理の婚約者になって、と。
しかも、ただ代理婚約者をするだけではない。デュワリエ公爵をメロメロにしてほしいと頼まれる。
どうしてメロメロにする必要があるのか。問いかけたら、アナベルは一枚の古びた書類を取り出した。それは、先代のデュワリエ公爵と先代のアメルン伯爵が結んだ、子どもの婚約を約束するものだった。
アナベルは世にも恐ろしい復讐劇を語る。
デュワリエ公爵をメロメロにした状態で、この契約書を破って婚約破棄する。愕然とするデュワリエ公爵の顔を見たい、と。
私が婚約期間中にアナベルの振りをしてデュワリエ公爵をメロメロにし、アナベルが契約書を目の前で破って婚約破棄をする。
しかし、公爵家との結婚は、またとない良縁だ。破棄してしまっていいのか。問いかけると、アナベルは問題ないと答える。
どうやら、公爵家に嫁ぐとなれば、多額の持参金を用意しなければいけないらしい。アナベルの父親は、もっと格下の相手でもいいのでは? とアナベルの母親に意見していたようだ。
けれど、野心あるアナベルの母親が、結婚話を押し進めてしまったようだ。現在、アナベルの持参金集めに苦心している最中だという。
そのため、婚約が破棄になっても、大きな問題にはならないという。
どうしようか。頭を抱える。
デュワリエ公爵をメロメロにするなんて、無理だろう。即座に思ったが、アナベルは「これ、欲しいでしょう?」と“エール”のペンダントを外してぶらつかせる。
ニンジンを前にした馬状態だった私は、あっさりと悪魔の契約に乗ってしまったのだ。
そして――今に至る。
現在、取り巻きを大勢連れた状態で夜会に参加し、デュワリエ公爵と遭遇している。
作戦は、目の前の“暴風雪”をメロメロ状態にすること。
氷のような視線に膝がガクブル震えてしまう。たじろぎ、後ずさりそうになったが、どうしてか体が動かない。
逃げられない!! と、目の前に真っ赤な文字が表示されたような気がした。
ミラベル・ド・モンテスパン、人生最大の危機である。