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海の唄声

作者: エモトトモエ

 一隻の小舟がひっそりと海に出た。



 空を赤く染める太陽は小さな雲ひとつ纏わず、その完全なる球の形を剥き出しにしている。

 つい先刻までには太陽はその強烈な光と熱とでその身を包み隠し、顔を上げる者の視界を断じて阻んでいたというのに。

 ひとりの男がいた。

 彼は太陽の下、青く揺らぐ海に浮かばせた船の上、目深に被った帽子の縁を指でなぞりながら、ただ波間を眺めて過ごした。

 そうして何時間もの時が過ぎるのを見送った。

 やがて太陽が沈む。

 このおわりの時になって…彼は西の水平線に目を向けた。

 太陽がその姿を彼に晒すことになった。彼はじっとそれを見ていた。

 揺らいで見えるのはその光。彼の肌を焼いて汗を浮かび上がらせているのはその熱。海の向こうにゆっくり沈む、それとともにゆっくり力を失っていくかのような、赤い星。

 暗幕の掛かった東の空には小さな星が見えはじめ、まるで今生まれ落ちたばかりの様な、密なる輝きを放っている。

 やがて完全な夜が訪れた。



 彼は船を漕ぐこともなく、ただ腰を下ろしていた。

 日が沈みきってからも、水平線に目を遣ったままであった。

 彼が見ていなくても、星は動き、方位と時間を示している。

 凪はとうに過ぎていたから、夜風が彼の周りを飛び回り、戯れに帽子の縁を弾いた。

 帽子は風にさらわれてどこかへ行ってしまい、彼の灼けた精悍な顔が露わになる。

 その時、船の横に誰かが立った。



 それは女の姿をしていた。

 辺りは暗いのに、来たのがすぐわかった。

 舟の中にいる彼を見下ろしていた。

「現れたな。さあ俺を…」

 彼が身を乗り出すと、女はその分退いた。

 布を緩やかに巻いただけのような半裸の女の、その裾から覗く足が動き、海水の表面を蹴ったため波が起き、飛沫が跳ねた。

「手にしているのでしょう?」

 女はわかりきっている、と言った様子で声をあげた。

「私の身体を突き刺す銛を」

「そんなものはない」

 彼は両方の手を広げた。

「何処かに隠し持っているのね」

「ないよ、本当だ。今日は漁などしていない」

 たしかに彼の言う通り、船の中には漁の道具どころか何も積まれていなかった。

「では私を絡め取る網を持っているのだろう?」

「そんなものがどこにある?見てくれ、この船には何もないじゃないか」

「私を殴りつける櫂を」

「櫂は途中で棄てた」

「本当に何も持たずにここへ来たのか」

「あんたに会いに来たんだ」

 彼はさらに前に進み出た。「あんたこそ、得意の唄はどうした? なぜ唄わない?」

「今は必要ない」

「どうして?」

 彼は海上に身を乗り出し、叫ぶように言った。

「あんたは海の妖精、セイレーン。その唄声で人を惹きつけ、海に引き摺り込むのだろう?

 そして食らうのだろう?

 その姿で。その顔で。まるで共喰いのように。目を虚ろにした人間を掴み上げ、どこからでもかぶりつくんだ、あんたは…!」

 それが本当なら、この女…女の姿をしたこれは、勇敢なる船乗りたちをも震わせる、伝説の妖精に違いない。

 海の中から現れ、見目麗しい姿で人を惑わせる。そしてその甘美なる唄声を聞いてしまうと途端に気が狂い、あるものは海中に身を投げ、あるものは仲間を殺し、あるいは卒倒して息絶える、そう伝わっていた。

 しかし。

 そのような怖ろしい存在を前にしながら、舟の中の彼は怯える様子が少しもない。

「またおまえか」

 セイレーンが言った。

「今日はひとりか」

「邪魔者は連れて来なかったのだよ」

 彼は答えた。「この前は、あともう少しであんたの手の届くところまで行けたのに」

 セイレーンは明らかに動揺した。宝石のような輝く碧眼を見開いて訊ねた。

「覚えているの?」

「覚えてはいない。だけどわかる。もう少しだったんだ。なのに誰かが邪魔をして、私の体を抑えつけて、あんたのそばに行けないようにしたんだ」

 覚えていない、と聞いて、セイレーンはほっとした表情になった。

「しかし今日なら誰にも邪魔はできない!」

 彼は叫んだ。「しかもこんなに近くにいるなんて!!

 さあ! 今こそ私の体を食らうがいい!」

「おまえは食わぬよ」

 セイレーンは一言そう言うと、ふっと姿を消した。


「待て、セイレーン」

 彼は暗い海に向かって叫んだ。「あの時だけじゃないんだ、あんたに会ったのは。

 10年前、マルセイユへ向かう旅の途上であんたが俺の乗った舟を襲ったんだ。あんたは覚えていないかもしれないが…。

 あの頃俺は彫刻家の卵だった。あんたの歌声を聞かないように耳を塞ぎながら、でも見てしまったんだ。

 船乗りたちが狂ったように暴れ出し、船を壊してしまった。あんたは割れた舟に入り込み、船員たちを捕食していった、まるで狼のように。生きた人間が食われる所なんて初めて見た。それに食っているのが人そのものに見えた。あんたが獲物の脛に齧りついた時の肉の柔らかさや滴り落ちた血の質感。引きちぎった首の骨の裂け目。白い手で掴みだす内臓の色。あんたの膨れてゆく腹まで、俺は目を離せなかった。全て鮮明に覚えた…覚えたはずだった。

 なのにそれをいざ彫刻にしようとすると、どう彫っていいかわからない。絵にしてみようにも、どう描いたらいいか迷うばかりなんだ。

 だから10年間、あんたを探し回った。ようやく見つかったのが、あの再会だった。だが、あんたは船乗りたちを食わなかったな?

 どうしてだ?

 さんざん探し回ったのはあんたが人を食らう所を見るためだ。

 さあ俺を食ってみろ

 一番近い所から見てやる!」

 言うと、彼は黙って水面を睨みつけた。

 闇で黒ずんだ海は穏やかに波を打つ。空には無数の星が輝いていたが、月は出ていなかった。

 暗い水中からは何も反応がない。セイレーンはこの場を去ったのか。

 彼は諦められずに、屈んで水面の奥を覗き込もうとした。

 その時。

 一筋の波が立つと彼の耳元で唄が聞こえた。

 他のものに例えようがない、美しく甘い声だった。



 明け方になり。

 近くを通った漁師が、小さな舟を見つけた。

 中には気を失った男がひとり。

「またこいつか」

 彼は舌打ちすると、舟を自分の漁船に繋ぎ、岸へ向かう。

 その男は、去年あった海難事故でのたったひとりの生き残りだ。

 命だけは助かったが、大事にしていた漁船と、同乗していた家族を失っている。そのせいだろうか、事故以来おかしくなり、妄言を吐いたり、こうしてひとりで海に出てぼんやりと座り込んでいるようになってしまった。

 男はよく、海の妖精セイレーンの名を呟く。

 本当にセイレーンの唄声を聞いてしまい、それで気がふれたのではないか…そう噂されている。



 岸では別の者が男を背負い、草の上に寝かせてやった。

 やがて男は目覚めた。

 自分がいるのが陸の上で、彼が求めるセイレーンの姿もないとわかると、彼はよろよろと立ち上がり、歩き出した。

 岸辺で出港の準備をしていた幾人もの漁師たちが、嫌悪と憐れみの混じった目で彼を見送っていた。


 おわり














自分が食べられた時「やだこれ脂肪ばっかじゃん太る〜マジ最低」とか言われたらやだな。


読んで頂きありがとうございました。

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