ゲームは勉強に役立ちます
そんな和久井に対し、智恵子はすかさず反論した。
「勉強に役立つ? 逆なんじゃないですか? 」
確かに、ゲームが勉強に役立つという趣旨を本に入れようと考えたのは智恵子である。しかしそれは著者の「東大合格というブランド」があって成り立つ理論であり、いわば「後付け論」に過ぎない。
ゲームが勉強に有効であるかというのは、あくまで「一番勉強が出来る」和久井が言うから意味がある。即ち「何を言ったかが重要なのではなく、誰が言ったかが重要」なのだ。
もし彼が勉強のできない「落ちこぼれ」であったら、全く説得力はない。したがって著者として不適格だろう。そうなれば彼以外の勉強が出来る人に、「大学に合格したければゲームを一切やるな」という本を書いてもらう必要があるのかもしれない。
「女子が男子よりも成績がよい理由ってご存知ですか? 」
「さあ、それは何とも……」
「ゲームに嵌る子の確率が少ないからですよ」
彼女本人の感情としては、元々ゲームそのものに対する不信感が存在していたのに加え、多数決という、数の暴力で押し切られてしまったような流れに納得できなかったのかもしれない。
しかしそんな彼女の反論に対し、和久井は「待ってました」とばかりに返す。
「月城さん、社会科は得意でしたか? 」
「いえ、あまり……」
「文系なのに、ですか? 」
「余計なお世話です! 」
「私はどちらかというと、得意でしたね」
「和久井さん、あなた確か理系でしたよね? 」
和久井は大学では数学を学んでいた。即ち理系である。
理系の場合、社会科が極端に苦手なケースが少なくない。だが彼は社会科に対する苦手意識はない、というよりむしろ得意科目であった。
理由は子供のころから歴史漫画。そして歴史シミュレーションゲームをやっていたからである。
日本史では都道府県の昔の地名。例えば奈良県が大和国で、島根県が出雲国というのは戦国時代のシミュレーションゲームで既に「学習済み」であったし、世界の主な都市名は大航海時代を舞台としたシミュレーションゲームで、これまた学習済みであった。
加えて第二次世界大戦もまた、オンラインゲームを通じて「体験済み」である。彼の社会科における試験の知識の多くはゲーム、即ち「遊びで得た知識」が基盤になっているといっても過言ではない。
何も和久井に限ったことではない。こういったゲームの多くは「男性向け」であり、大人の男性はもちろんのこと、中学生や高校生といった男子生徒にも非常に人気が高い。
したがって、このようなゲームをプレイしたことのある男子生徒の多くは受験勉強において「社会科が得意」である。
一方、このようなゲーム。あるいは歴史漫画を読んだことのない子は社会科を苦手としているケースが少なくない。何故なら無味乾燥な文字をひたすら暗記する作業に追われるからだ。
智恵子もそれに心当たりがないわけではなかった。彼女自身、文系で国語が得意であった一方、同じ文系科目でも社会科。とりわけ歴史科目は苦手であった。
社会科が苦手な自分とは対照的に、おそらくそれが得意と思われる男子生徒達が、休み時間には戦国時代の話で盛り上がっていたのをよく覚えている。むろん自分には一体、何が面白いのかがよく分からなかったのであるが……
「でも、それは社会科の話ですよね」
彼女にしてみれば、そんなものはあくまで「例外」と考えているらしい。
なるほど社会科の勉強方法というのであれば、確かにゲームを活用するというのは存在するのかもしれない。
だが、実際の勉強は社会科だけをやればいいというものではない。確かに智恵子は社会科が苦手だったが、国語は非常に得意だった。そしてそれは、日頃から多くの文学作品を読んでいた賜物だと思っている。
「国語の勉強はどうするんですか? 本を読まないとダメでしょう」
「このゲームの内容と一致するものを選べ」
「何ですかそれ? 」
「現代文の問題です」
例えばドラクエの場合、主人公は王様の命令によって魔王を倒す。そこには主人公の正義感とか、あるいは家族や友人の命を奪った敵を倒そうという、いわば「復讐心」は存在していない。
だとすれば、もし仮にドラクエの話が文章として出題されたとして、そこに「このゲームの内容と一致するものを選べ」という出題がされたとする。
一 勇者は魔王を倒したいと思っている
二 魔王を倒したいのは勇者よりもむしろ、王様である
この場合、二が正解だ。なぜなら作者……即ちゲームの製作者はそのようなシナリオを設定しているからである。
安易な正義感で一を選ぶのは、ゲームの内容を客観的に把握せずに個人の主観で選んでしまった場合である。したがって当然「不正解」となる。
「作品の内容を理解するってことは、本もゲームも一緒なんです」
読書感想文。即ち「古い文学作品の感想を書いてくる」という課題が出される理由は、何もこういった作品でなければ正しい感想文が書けないというものではない。
敢えて言えば感想文を書くという課題を出すにあたり、何がいいかというのを考えた結果、「とりあえず昔の文豪の作品でも読ませておけ」というのに過ぎないである。
したがって感想文を書くという目的を達せされるのであれば、何も昔の作品である必要はない。小説は最近のヒット作でもいいだろうし、そもそも小説である必要が、必ずしもない。
「ゲームでも読書感想文のような文章が書けると? 」
「そのとおりです」
ゲームは映像作品である。活字化されていないため、文章で感想文を書くのが不可能だと本気で考えている人はおそらく存在するだろう。
だが、それは大きな誤解である。少なくとも和久井はそう思っていた。
「ゲームならば、ほぼ確実に「最後までやる」でしょう? 」
ゲームの内容を、あたかも一冊の本を読んだかのように要約することは可能だ。そしてそれは「嫌々ながら本を読む」のではなく「自ら楽しんでゲームをプレイする」ことによって可能となる。
だとすれば「読みたくもない」本を無理矢理読むよりもむしろ、「やりたい」ゲームをやる。そして、内容がきちんと理解できているものに対して感想文を書いてきた方が遙かに建設的ではないか。なぜなら「感想文を書くという課題が出来ればよい」のだから。
「つまりゲーム感想文を書ければ読書感想文も書けると? 」
智恵子が和久井に尋ねる。
「そういうことです」
和久井は何の迷いもなく、そう答えた。





