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1999年7の月、世界はなんで滅ばなかったんだ



 なんで世界は滅ばなかったんだ……


 1999年8月。マコトは絶望していた。

『1999年の7月、空から恐怖の大王が降ってきて世界が滅ぶ』

 かつてそんな予言があった。あまりにくだらない、何の根拠もない馬鹿らしい予言でしかなかったが、その予言自体は多くの人が知るほどには広まっていた。

 そしてマコトは、そのくだらない予言を心のどこかで信じていた。どうせ世界が滅ぶならと、何の努力もせず、だらだらと毎日をすごし、1999年の7月を待った。

 しかし、世界は滅ばなかった。

 恐怖の大王も、核戦争も起こらない。ただいつもと何一つ変わらない日常が途切れることなく7月以降も続いていた。

「なんで世界は滅ばなかったんだ……」

 人生に対し、何一つ積み重ねてこなかったマコトはただその言葉だけを繰り返すことしかできなかった。マコトに残されたのは、仕事も、金も、学歴もない、何も生み出さないだらけきった自分の身体しかなかった。


2019年7月。マコトはただ生きていた。

 午前4時。東京の繁華街。マコトは歩道のアスファルトにこびりついたガムをヘラでこそぎとる。

「いいか、角度だ。寝かせすぎてもだめ、起こしすぎてもだめだ」

 先輩風を吹かす年寄り清掃員の言葉がマコトの頭の中を何度も流れてゆく。マコトは今、清掃員として日々をなんとか暮らしてた。勉強も就職も、まともな努力を何もしてこなかったマコトにできる仕事は路上の清掃員くらいしかなかった。ただ生活のために、毎日路上のガムをこそげ取る。

「どうだ、終わったか?」

 マコトに角度の重要さを説いた年寄り清掃員がやってきた。しょぼくれた顔にあちこち汚れたツナギ。洗浄液のボトルを放り込んだバケツとヘラを手にヒョコヒョコと歩く姿はみすぼらしい。そのみすぼらしい姿と全く同じ姿を自分もしている事実がマコトには耐えられず、他の清掃員と話す時はいつだって目をそらし気味だった。

「こっちの歩道のガム取りは終わりました」

「そうか、じゃあ次は落書き消しを頼むかな、ホレ」

 年寄りの清掃員はマコトにバケツを手渡すとヒョコヒョコと歩き始めた。マコトはその姿を視界の端にとらえながら、とにかく地面だけを見て歩いた。できるだけ情報を入れたくなかった。このままでは今の自分を認めてしまうような気がして、今の自分は仮の姿だと言い聞かせるように自身の心と体を分離しようとしていた。

 どこを歩いているかもわからないまま先輩清掃員の後を追いかけると、公園のトイレの前にいた。

「これを頼むよ。酷いもんだろ」

 顔を上げると、トイレの壁には大きな落書きがあった。グラフィティなんていう立派なアート的な落書きではなく、スプレーで乱暴に書きなぐった記号のようなものがそこにある。丸に斜線を入れた記号で、アルファベットのQに見えなくもない。

「最近多いんだよな、これ。消しても消しても増えていきやがる」

 先輩清掃員がうんざりといった様子で吐き捨てる。

 実際、この落書きは最近急に増え始め、あちこちで見かける落書きだ。

「どこかの新興宗教のマークだとか聞いたけど、こんな落書きして何になるってんだか」

 しかしマコトには落書きの意味などどうでもよかった。ただの作業だ。生活のための作業だ。配達員が箱の中身をいちいち気にしても仕方がないのと同じく、作業機械として黙々と処理をすればいいだけのこと。

「なんでも世界がもうすぐ滅ぶとか言ってる宗教らしいけどさ、それならこんな落書きやめてほしいよな」

 そう言って年老いた清掃員が笑った。マコトも合わせてフフと笑い顔を作ってみせる。しかしまるで笑えないジョークだ。世界が滅ばなかったせいで今の自分がある。なるべく情報を遮断し、部屋に帰ることだけを考えるだけのマコトの中に、わずかだが別の感情が芽生えた。こんな終末論を振りかざす連中への怒りだ。


 世界はそんな簡単に滅ばない……滅ぶのは自分自身だ……


 マコトはバケツの中にあった有機溶剤のボトルを手に、ひたすら落書きを消した。こんな風に自分の恥ずかしい過去も消して最初からやり直せたらいいのにと考えながら。






マコトの部屋はいつだって散らかっている。空のペットボトルにコンビニの袋。脱ぎ散らかした服も床に転がり、それらを避けながらベッドの上までたどり着く。ワンルームの安アパートの中、ベッドの上だけが体を投げ出せる自由な空間だ。

 アパートのすぐ目の前には完成直前の環状線がある。長い間未着工だったが、オリンピックに向けて整備が進み、工事はすでにマコトのアパートの前辺りを残すのみとなった。名古屋方面の国道と繋がり、物流にも好影響をもたらすため、完成を急ぐ工事は昼夜関係なく進む。

 元々酒を飲まないマコトだったが、清掃員の仕事を始めてからはほんの少しだけ酒を飲むようになった。アルコールに弱いため、缶チューハイをひと缶飲むだけでほどほどの酩酊感を味わえ、そのまま寝てしまえる。そうすればこのやかましい工事の音に悩まされることもない。清掃の仕事がキツかった時はそうしてやり過ごしていた。

 巨大な落書き消しをしてヘトヘトだったマコトは缶チューハイを手にスマートフォンをいじっていた。

 いつもならこのまま寝てしまうのだが、今日はやたらと目が冴える。その理由は昼間の落書きだ。『世界がもうすぐ滅ぶ』と主張する宗教の信者が描いたあの落書きが気になっていた。

 もちろんマコトは世界が滅ぶなんて話を今さら信じる気はない。そんな話を信じた結果が今の圧倒的現実だ。信じるというよりむしろ否定したい。馬鹿げた妄想を叩き切ってやりたい。現実がどんなものか教えてやりたい。そんな気持ちだった。

 マコトはスマートフォンで検索をかけてみた。

『落書き』『宗教』『滅ぶ』

 いくつかのキーワードを並べると例の宗教団体と思われるサイトが簡単に単に引っかかった。白い背景に『終』の黒文字がでかでかと表示されるシンプルなウェブサイト、『終』が団体名なのかどうかもわからないが、終の文字の下にはこう書いてある。


 1999年7の月、世界の滅びを待った皆さんへ

 あの日、世界は滅ばなかった。なぜか?

 それは我々がただ待っていたからです。

 滅びは待つものではなく与えるもの。

 我々は自分の手で滅びを得るのです。

 滅びの日はもうすぐそこまで来ています。

 あなたのその手が、滅びをたぐり寄せるのです。

 さあ、共に滅びを日を迎えましょう。


「くだらねえ……」

 マコトはそこまで読んでサイトを閉じた。

「やってることはただの落書きじゃねえか、そんなんで世界が滅ぶわけねえだろ」

 何も変わらない現実を受け入れるしかなかったマコトにはこのサイトの終末論が馬鹿馬鹿しく見えた。それはサイトを見てというより、努力を放棄したかつての自分自身をこのサイト越しに見てしまったような気分だからで、鏡を見るのも嫌なマコトは自身の姿かたちを再確認させられそうになり、慌てて目を背けたのだ。

 マコトはうめき声ともため息ともつかない声を吐き出し、ベッドに転がった。アルコールを入れたのに全く眠くない。環状線の工事のやかましい打撃音が酒で酔った頭の痛みをさらに悪化させる。

「なんでこうなった……」

 今更どうにもできない現実を前にマコトは眠ることもできず、ただひたすらベッドの上を転がり続けた。




 久しぶりの休日、マコトは近所の公園へと来ていた。

 外に出たところで行くあてなどなかったが、部屋で環状線の工事の音を聞かされるくらいなら公園をぶらぶらした方がマシだった。

緑も多く、青空の広がる開放的な空気の中、マコトは下を向いて意味もなくぶらつく。清掃員として働く事実を受け入れたくなくマコトは普段からその事をなるだけ考えないようにしているが、下を向いて公園の遊歩道を歩いているとレンガ敷きの歩道にこびりついたガムにばかり目が行ってしまう。反射的に顔を上げればどうしようもないほどの青空。どこにも視線のもっていきようがなく、マコトはトイレへと向かった。

 清掃の仕事でトイレ掃除もするためトイレだって仕事を忘れることはできないのだが、何故かトイレは妙に落ち着く。自身を汚いものと感じていて、そういうものが集まるトイレのような場所にいる方が落ち着くような回路が出来上がっているのかもしれないなとマコトはぼんやり考えていた。

 トイレで用をたそうとしたところ、個室の壁が目に入り、その瞬間、マコトの顔が険しくなった。トイレの壁に例の落書きを見つけてしまったのだ。終末論をぶち上げる新興宗教の信者が描いて回っているというQに似た落書き。それが今、目の前にある。

 マコトは個室へ飛び込むと鍵をかけ、バッグから落書き消し用の清掃道具を取り出した。仕事中でもない今、落書きを消す理由などなかったが、それでも消したかった。自分の中の恥を見せられているようでたまらなかった。

 マコトが外出の際に持ち歩くバッグは一つしかない。出し入れが面倒で仕事で使う清掃用具も入れっぱなしだ。共用で使っている強力な洗浄液などはないが、個人個人が持つ清掃道具でこの程度の落書きなら消せるだろう。

 タイル地の壁だったこともあり、オイルとブラシでこすると落書きはするすると落ちてゆく。

さらに落ちが良い理由は他にもあった。軽く指で触れると塗料の多く乗った部分がまだ乾き切っていない。この落書きはすぐさっき描かれたものだった。

 マコトの中になんとも形容のできない感情がわき上がってきた。

 この世が終わるなんていう馬鹿げた妄想にとりつかれた人間が近くにいる。それがどうにもいたたまれなかった。将来を考えず人生をダメにした自分と同じ道を歩こうとしている人間がいる。たまらない。そんな事実を考えたくなく、ひたすら壁の落書きを擦り続けた。

 日頃の業務ですっかり手慣れてしまい、落書きはものの数分でキレイになくなった。しかしマコトの中のもやもやとした気分はまるで晴れなかった。トイレを出て、晴れない気分のまま辺りをぶらつくことしかできない。

 視線を動かす度に公園内の落書きが目にとまる。ベンチ、街灯、自販機、落書きはどこにでもあって、その中にまたあのQのような記号があるのではないかと思うと落ち着かない。

 その時だった、ついに見てしまった。

 公園の隅にあった配電盤の前に二十代くらいの男が立っている。手には油性ペンを持っており、その手で配電盤に何かを描いている。円を描くようなその動きはあの記号を描いているとしか思えなかった。

「おいっ!」

 マコトは声をかけた。今まで面倒なことからは積極的に逃げてきたはずなのに、自分でも驚くほど反射的に声が出て、落書きをする男に駆け寄っていた。

 声をかけられた方の男はペンを持つ手もそのままに、驚いた表情でただマコトを見つめていた。駆け寄ってみると、やはり配電盤には描きかけのQがある。

「そんなものを描いてどうなる」

 マコトの言葉を聞き、男はようやく自分の落書きを咎められているのだと理解し、ペンを投げ捨てて逃げ出した。

「待てっ!」

 マコトも逃げる男を追って駆け出した。

 追いかけてどうなるのだろう。もしも捕まえたとして、あの男をどうするのだろう。そんな疑問がマコトの頭をよぎる。

 すると前を走る男が段差でつまづいた。体を激しく地面に打ちつけたのか、寝そべったまま動かない。

 マコトは追いついてしまった。この男をどうしようかはまるで考えていなかった。ひとしきり追いかけて、追いつけずに逃げ去ってゆく男を見送って、それで終わりにするつもりだった。それなのに男は倒れ、逃げるのを諦めた。男もまた、マコトと同じようにこの状況をどう処理していいのかわからなかったのかもしれない。

 何をするでもなく、ただ転がったまま動かない男の姿はまるで自分を見ているようだった。そしてマコト自身もこの状況をどうしていいわからず、ただ立ち尽くすしかなかった。

 そんな膠着がしばらく続いた頃、喉の奥にあった言葉がようやく出てきた。

「世界は滅んだりしない……」

 男はピクリとも動かない。

「1999年に世界が滅ぶと思って俺は何もしなかった。でも世界は滅んでくれなかった。その結果どうなったと思う? まともな職にもつけず、清掃の仕事でその日の飯代を稼いで、日の当たらない安アパートに帰ってただ寝るだけの暮らしが待ってた」

 地面に寝そべる自分よりもずっと若い男にかつての自分を重ねていた。もし過去の自分に会えたなら伝えたい言葉がマコトの口からあふれる。

「世界はそんなに脆くない。誰が何を考えようと、これまでもこれからも何事もなく続いていく。だから、世界が滅ぶなんていうくだらない妄想に振り回されて自分の人生を棒に振るな。勉強でもなんでも、将来につながることをした方がいい。こんな落書きをしても仕方ないだろ……」

 だが、言い聞かせるようなマコトの言葉を耳にした男から返ってきたのは激しい怒鳴り声だった。

「世界は滅びる! 1999年に世界が滅びなかったのはお前が何もしなかったからだ! 俺は違う! 俺たちは違う!」

寝転がるだけだった男が突然立ち上がり、マコトを睨みつけた。怒りに満ちたその表情はさっきまでの生気のない様子とはまるで違っていた。

「違わないだろ、落書きなんかで世界が変わるわけがない……」

「落書きじゃない、それは決意だ。憎かったもの、壊したかったもの、許せなかったもの、そういうものをぶっ壊してやるという決意の目印だ。そして最後の日が来たらそれを目印にこの世から無くすべき物全てを破壊するんだ、俺たち自身の手で」

「くだらない……」

「あんたも描け! 憎いもの、壊したいもの、たくさんあるだろ! そういうものにこの印を刻むんだ。全部ぶっ壊してやろう!」

「やめておけ、壊れるのは世界じゃない、お前の人生だ……」

「……勝手に言ってろ、もうすぐ始まる。かつてはあんたも望んでいた世界がくる。中途半端に壊れただけのあんたの人生も木っ端微塵にしてやるさ、本望だろ」

 そう言い残すと男は去っていった。マコトはその背中をただジッと見つめていた。あの男には何を言っても通じない。どうしようもない疲労感だけがマコトの中に残った。





そして日常は繰り返された。

 あの落書き男と遭遇してから数週間、世界はなにも変わっていない。

 作業着として支給されたグレーのナイロンジャケットを羽織ると、マコトはいつものように下をむいて仕事現場へと向かう。重たいバッグも、重たい足取りも、重たい気分も何もかも数週間前とまるで変わらない。

 現実から目をそらすように歩道の継ぎ目だけを見ながら集合場所の公園へと向かう。歩きなれた道をひらすら歩き、顔を上げればそこには清掃会社の車がマコトを待っている……

 はずだった。

 しかし、駐車場にバンはなく、いつも一緒に仕事をする年老いた先輩清掃員がタバコをふかしながら一人立っているだけだった。

「来てもらって悪いんだが、今日は中止だ」

「中止? どういうことです?」

「どういうことって……見りゃわかるだろ」

 そう言って年寄りの清掃員が辺りを見回す。つられてマコトも辺りを見回すと、辺りの異様な光景に今更気付かされた。

 街のあちこちに例の記号が大量に描かれている。ビルの壁、道路標識、公園の石垣、道路を走る車にまであのQのような印があった。どこを見てもQの記号が飛び込んでくる。下を向き、視界をぼやかし情報を遮断するのが癖になっていたマコトはこの状況にまるで気付かなかった。

「酷い事しやがる、街をこんなにしやがって」

 呆れたような表情を見せた年寄りの清掃員はタバコの煙を吐き出すと吸い殻を地面に投げ捨てた。

「こうも落書きだらけじゃ埒があかないだろ。消しても消しても終わりっこない。だから上が方針を決めるまではお休みだとさ」

 そう言って清掃員の年寄りは再びタバコに火をつける。

「まあ給料は出るらしいからラッキーっちゃラッキーだな。俺はパチンコでも行くとするよ。お前さんも連絡あるまでは好きにやってな」

 落書きだらけな異様な光景もさほど気にならないのか、年寄り清掃員は降ってわいた突然の休暇を楽しもうとあっさり立ち去った。

一方、今になって初めてこの異様な光景を知ったばかりのマコトは恐る恐る辺りの景色を眺めていた。公園の向こうに見えるビルの上に設置された広告用のパネルには、誰が描いたのかQのような記号が大きく描かれている。そういった大きなものだけではない。制限速度を示す標識の柱には柱の白を埋め尽くすようにQの記号が無数に描かれている。大きなものから小さなものまで、ありとあらゆるところにQが描かれている。

 そんな奇妙な光景を不思議そうに眺める者や写真に撮る者もいるが、すでにこの光景に慣れてしまっているのか、そんなものなどまるで気にせずに歩く者も多い。奇妙な景色と日常が同居するその様子に自身の頭がおかしくなってしまったのではないかと感じてしまう。

 しかしいくら眺めていても目の前の景色は変わらない。Qに埋め尽くされた世界が広がっている。

『世界は滅びる!』

 公園で落書きをしていた男の言葉が頭をよぎった。この異様な光景があの男たちの仕業なのは間違いない。彼らの起こしたこれほどまでの行動に、本当に何かが起こるのではないかと一瞬不安がよぎった。

「結局はたかが落書きじゃないか……」

 マコトは頭の中に生まれたほんの小さな不安を強引に振り払った。わざと声に出して否定してみせる。

「ただの落書きだ、こんなもの」

マコトは歩き始めた。こんな景色を眺めていたら頭がおかしくなりそうで、とにかく今は家に帰ることが一番に思えた。

 来るときは下を向いて何も視界に入れないように歩いていたが、こんな景色を知ってしまうとさすがに見ずにはいられない。マコトは駅までの道のりをこの奇妙な景色と共に歩いた。

 信号に引っかかり立ち止まると、目の前を走り抜けてゆく車の多くも例の記号がついている。

 これだけ異様な光景ならネットでも騒ぎになっているはずだと、マコトは交差点でスマートフォンを取り出した。しかしスマートフォンを覗き込もうとしたその瞬間、マコトに覆いかぶさるように巨大な影が横切った。

 大型のトレーラーに乗せられた濃緑色の巨大な鉄塊がそこにはあった。自衛隊の戦車だ。

「戦車……なんで?」

 戦車を積んだトレーラーなどこの辺りで見たことがない。異様な景色の中にさらに現れた異質の存在にマコトはくぎ付けになった。

「急げ! 三分だ!」

 トレーラーから戦闘服を着た男たちが次々と降りてくる。指揮官らしき男の指示に従い、他の戦闘員が戦車を固定するワイヤーを迅速に外してゆく。

「エンジン始動!」

 指揮官らしき男の号令と共にけたたましい音と振動が辺りに響くと、戦車の排気管から黒煙が上がった。

「降ろせ!」

 トレーラーの後部に取り付けたスロープを戦車がゆっくりと降りてゆく。戦車が現れてからまだほんの少ししか経っていなかったが、戦車はあっという間に路上へと降り、行動の準備を整えた。数名の戦闘員は再びトレーラーへと乗り込み、別な数名の戦闘員は戦車のハッチへと滑り込む。トレーラーは手早くワイヤー類をまとめられ、あっという間にその場から走り去り、マコトのいる交差点にはエンジン音を響かせる巨大な戦車だけが残った。

 『Q』だらけの奇妙な景色をなんとも思わなくなっていた通りすがりの人々も突然現れた戦車には驚いたのか、遠巻きにその様子を見つめている。

すると指揮官らしき男がハッチから顔を出し、取り巻く市民に向けて叫んだ。

「ここはまもなく爆発と炎に包まれ、瓦礫の山と化します! 離れてください!」

 しかし戦車から顔を出した男の言葉を耳にしても、取り巻く市民はただぼんやりとその様子を眺めるだけだ。マコトも同じく、ただその場に立ち尽くしていた。目の前で起こっている状況が理解できず、ただひたすら呆気にとられていた。

「忠告はした!」

 そう言い残すと戦闘員の男はハッチの中へと消えていった。

 それから数十秒。ただ見つめることしかできないマコトたちの前で戦車が前進を始めた。ただでさえやかましかったエンジンがさらに轟音を響かせ、黒煙を上げながらゆっくりと遠ざかってゆく。

 戦車は次の交差点で停止するとその砲塔を旋回させた。それを見たマコトは鼓動が早くなるのを感じていた。とても嫌な予感がする。

 砲塔の旋回で向きの変わった砲身が上向きに角度を変え、停止する。砲身は戦車よりさらに先のビル、Qの落書きをされた広告設置用のパネルへと向けられていた。

 そしてその瞬間、信じられないほどの破裂音が辺りに響いた。戦車の砲身から猛烈な炎が広がったかと思うと、直後、砲身を向けた先のパネルが轟音と共に灰色の煙に包まれた。

 戦車から放たれた砲弾がビルの上の広告パネルを木っ端微塵に吹き飛ばしたのだ。

 マコトたちはただその様子を眺めていた。目の前で起こった出来事が何なのかは理解できていた。しかし理解できたとしてもそれは頭の中だけのことで、体が動かない。マコトも、近くの市民も、突然起こった信じられない出来事をただ眺めることしかできなかった。

 ビルの一部を軽く吹き飛ばした戦車の砲塔が再び旋回を始める。今度は上を向いていた砲身が下がってゆく。

「やめろ……やめてくれ……」

 マコトの口から声がもれた。戦車が向けた砲身の先には道路を走る車が見えた。突如現れた戦車を前に道行く車たちは徐行しながら戦車を追い越していった。そういった中の一台に戦車の砲身が向けられているのだ。

 再びの閃光。激しい音が辺りに響いた瞬間、近くの車が真っ赤な火の塊となって爆発した。

 それを見て市民たちはようやく恐ろしい事態に巻き込まれている事実を受け入れ、慌てて逃げ出した。しかし逃げるといってもどこへ向かえばいいかもわからず、バラバラとあちこちへ駆け出す市民たち。路上の車も慌てて引き返そうとするが、混乱が混乱を呼び、身動きの取れない状態となっていた。

 エンジンを吹かした戦車は再び前進を始め、前に停車する乗用車に体当たりし、そのまま乗り上げ、踏み潰す。金属のひしゃげる不気味な音がエンジン音と共に辺りに響く。

「なんで……こんな……」

 マコトもついに駆け出した。信号も確認せず、道路を横断し、駅前の商店街の方へと走る。とにかくこの街から離れなければ命はないと感じていた。

 しかし、商店街にはさらなる地獄が待っていた。

 路地を抜け、駅前へと真っ直ぐ続く商店街のアーケードへと飛び込むと、幾人もの男たちが棒などを手に持ち、ありとあらゆる物を破壊している。ある男は鉄パイプで商店の窓を割り、別な男はオイルのようなものを撒き、火をつける。奥に見える駅に近い商店からはすでに大きな炎が上がり、煙で駅のロータリーが見えにくくなっていた。

 そして、彼らが破壊している建物には、やはりQの記号がある。男たちはQの記号を見つける度、それが描かれた物に攻撃を加える。街のありとあらゆる物に記号が描かれているため、ほぼ全ての物が破壊の対象だ。

「ぶっ壊せ!」

「燃やせ!」

 男たちが叫ぶ。その破壊行為を目にした正気の市民たちは騒ぎの無い方へと駆け出し、商店街からは逃げ出す人々がマコトの脇を走り抜ける。

 マコトはただ立ち尽くしていたが、棒を持った破壊者の男がマコトに気付いた。

「お前も壊せ! やりたいんだろ!」

 男の鋭い視線がマコトを貫く。

「冗談じゃない……そんなことするわけないだろ……」

 非現実的な光景はマコトの思考を鈍化させた。非常識な光景を前に、常識的な言葉が口をついて出る。

「そうか、だったらお前も壊れろ」

 男は真っ直ぐ、早足でマコトに接近し、手に持った棒を振り上げる。思考も反応も全てが鈍ったマコトとは正反対に、一切の無駄も躊躇なく、男はその棒をマコト目がけて振り下ろした。「!!」

 なんの防御姿勢も取れないまま腕を殴打され、マコトはうつぶせに倒れ込んだ。夢でも見てるような現実感の無さを激しい痛みが打ち消し、ようやく意識がはっきりしてきたが、男に馬乗りされたマコトは身動きを取ることすらできない。

「お前も世界と共に滅べ!」

「離せ!」

 馬乗りになった男を振り払おうともがくがどうにもできない。

 だが次の瞬間、背中の男の圧が弱まった。

「戦車だ! 戦車が来た! 離れろっ!」

 男はそう叫ぶとマコトを放り出して駆け出した。よろよろと起き上がったマコトが前を向くと、燃えあがる商店からの煙に紛れるように奥のロータリーに巨大な影が見えた。それはさっき交差点で見たものと同じものだ。

「戦車……」

 しかしさっきと違い、その砲身はマコトの立つ商店街へと真っ直ぐ向けられている。

「くそっ!」

 さっきまでの血の気の引いた感覚が消え、体がカッと熱くなる。前のめりになりながら商店街の脇道へとマコトは全力で飛び込んだ。

 商店街の中央から脇道まで何歩だったろうか、脇道に滑り込んだ途端、背後で猛烈な爆音があがり、背中が熱くなった。周囲の景色も一瞬オレンジ色に染まったがマコトは恐ろしくて振り返ることもできなかった。ただひたすら前を向き、全力で走った。一秒でも早くその場から離れたかった。戦車が入り込めないような細い路地へ細い路地へと走ってゆく。

 鼓動が信じられないほど早くなる。こんなに走ったのは初めてだった。それでもマコトは走り続けた。路地に飛び込んでも落書きはあちこちにあり、塀、カーブミラーの鏡、路面にまでQの記号が並ぶ。奴らがこの記号を目印に破壊活動を行ってる以上、この辺りもいずれは破壊される。

 しかし走り続けたマコトの足は徐々に遅くなり、ついに止まった。普段ろくに運動もしていないのだから無理もなかった。膝に手を置き、前かがみでぜーぜーと息をする。

 背後からは散発的に爆発音が聞こえる。なんとか体を起こし、ようやく振り返ると、あちこちから煙が上がっているのが見えた。

 その時、視界を横切るように青空の中を白い筋が駆け抜けた。シュルシュルと音を立てて通過したそれを見送った数秒後、爆発音が辺りに響く。

「ミサイル……」

 戦車だけではない、恐ろしいものの気配が近くにあった。  

 辺りの空気が震えだし、全身にその振動が伝わってくる。直後、建物の影から戦闘ヘリが姿を現した。超低空飛行の戦闘ヘリがマコトのすぐ上までやってきてホバリングを始めた。激しい風圧の中、顔をおさえながらヘリを見上げると、機首の機関砲が機敏な動きで左右に振れている。獲物を探し首を振る機関砲がピタリと止まった瞬間、白煙と共に熱を帯びた薬莢がマコトの頭に降り注いだ。

「なんなんだよ、これは!」

 たまらず駆け出したがもはやどこへ向かって走ったらいいのかもわからない。十字路にぶつかり、特に考えもなく左へ曲がると、数人の男たちが一心不乱にコンビニを破壊していた。窓ガラスは全て割られ、棚も引き倒され、無残な姿をさらしている。

 男たちが何をしようがもはや知ったことではない。マコトの頭にあるのはとにかくこの場から離れたい、帰りたいという思いだけだ。男たちには目もくれず、静かにその脇を通り抜けた。

 しかしコンビニを通り過ぎた直後、背後から声がした。

「おい!」

声の主はコンビニを襲撃している男の一人だろう。しかしマコトは振り返らない。彼らに関わって酷い目にあった先ほどの記憶が蘇る。ここから離れることだけがこの場での正義だ。

「あいつも殺せ!」

 さらに聞こえてきた『殺せ』という声にマコトの血の気が引いた。その言葉を聞いて振り返らずにはいられなかった。青白い顔で後ろを向くと、コンビニを襲った男たちが自分を見ている。

「殺せ!」

 再びそう叫ぶと男たちがこっちへ向かってくる。やつらはついに人までも襲い始めた。その明確な殺意がマコトを震え上がらぜた。

 心臓はこれ以上はないというほど鼓動を早め、足はどんどん冷たくなったが走ることをやめるわけにはいかなかった。マコトは男たちの声がしなくなるまでただひたすら走り続けた。

 どれくらい走ったろうか、路地の十字路を曲がったところでマコトの足が再び止まった。鉛のように重くなった足は一歩踏み出すことすら難しい。闇曇に走り回ったせいで、向こうに見える十字路もどちらへ進んだらいいのかもわからない。

 しゃがみ込んだ地面を見つめていると、アスファルトにこびりついたガムが見えた。ついこの間まではあのガムを剥がしていればよかったのに、なんで今、こんなに走り続けているんだ。自分は一体どうなってしまったんだ。

 マコトは普段なら見ようともしない辺りの景色を見回した。落書きだらけの世界はやはり現実だ。その現実の世界で自分は今、どんな顔をしているのだろう。マコトは首を曲げ、背後にある十字路のカーブミラーに目をやった。

「ふふふ、ははははは……」

 カーブミラーに映った自分の姿を見て、思わず乾いた笑いがこみあげてくる。

「ははは、そうか、あの時か……」

 マコトが見た鏡の中の自分には例の記号があった。ナイロンジャケットの背中に例の記号が描かれていたのだ。カーブミラーに映った自身の姿を見て、今ようやくその事実を知った。商店街で男にのしかかられた時、背中にあの記号を描かれていたのだ。

「こいつのせいで追いかけられたわけだ、あの野郎……」

 どこが苦しいのかもわからないほどにボロボロの体を起こし、マコトは自身を苦しめる原因となったジャケットを脱ごうとした。

 その瞬間だった、先の十字路から地響きが聞こえてきた。何かを崩しながら、巨大な何かが近づいてくる。塀の崩れる音、金属がひしゃげる音、樹脂の割れる音。ありとあらゆる音が波となって押し寄せてくる。そしてその音と共に、塀を壊しながら戦車が十字路へと飛び出してきた。

「くそっ、またかよ……」

 戦車の砲身がマコトほ方を向く。商店街の時よりずっと近い。振り返って逃げ出そうものならそのまま背後から撃たれて蒸発してしまうかもしれない。

 考えている暇はなかった。

 マコトは残った力をふり絞り、戦車へ向かって走り出した。戦車が崩した塀の瓦礫を踏み台にして、十字路を塞ぐ戦車にそのまま飛び乗った。

「お前らはコレが好きなんだろ! くれてやるよ!」

 マコトは記号の描かれたジャケットを脱ぎ、戦車のボディに叩きつけた。そして戦車から飛び降り、路地を駆け出した。もはや走っているのか歩いているのかもわからないペースだったが、記号の呪縛が無ければ狙われることもない。戦車から徐々に距離が離れてゆく。

 そして突然、背後から猛烈な爆発音がした。

 驚きのあまり反射的に振り返ると、十字路を塞ぐ戦車から炎と黒煙があがっている。その戦車に向かって、真っ直ぐ白い煙が空から伸びていた。戦車は上空からの攻撃によって破壊されたのだ。マコトが戦車に叩きつけたジャケット、そのQの記号目がけて飛んできたミサイルによって戦車は一瞬でただの残骸と化した。

「……」

 マコトは思考を止めた。帰りたい、とにかく帰りたい。

 路上のあちこちに転がる自転車の中から鍵のかかっていないものを見つけると、それに跨り、家の方へと走り出した。

 自転車は自分の足で走るよりずっと楽だ。ペダルを回すとどんどん景色が流れてゆく。いたるところにあったあの落書きも、駅前から離れるにつれ少なくなってゆく。時には落書きされたコンビニに車が突っ込んでいたり、火の手の上がるビルなどもあったが、自分の身に危険が降りかかるような状況ではない。今はそれで充分だった。自分にできることは何もない。これまで通り、下を向き、全ての情報を遮断しよう。マコトは視界を狭め、ひたすらペダルを回した。

 マコトの自転車は環状線の高架が作る陰に入った。ここまでくればアパートまであと僅かだ。環状線十号線は今日が開通の日だったが、車の走っている気配はない。例の落書きによる騒動が全国に広がっているとしたら開通どころではない。マコトの中になんとも言えない暗くて重い気持ちが広がってゆく。

 信号を一つ越え、二つ越えするとマコトのアパートが見えてきた。アパートは環状線の陰となり、いつだって暗い。しかし今はそんな陰気な見た目すら安らいで見える。部屋に戻りさえすればいつもの日常に戻れる。

 だが、アパートの前にたどり着いた瞬間、マコトは乗ってきた自転車を乱暴に投げ捨てた。

「くそ、こんなところにまで……」

 マコトのアパートの壁には、例の落書きがあった。

 階段を駆け上がって部屋に戻ったマコトは模型製作に使っていたスプレー缶を手に再び外へ出た。

「消えろ! 消えちまえ!」

 落書きの上にスプレーを吹きかけ、忌々しいあの記号を強引に消した。そしてアパートの周りを一周し、落書きが他にないか確かめ、部屋に戻った。



 部屋に戻るとマコトの前にいつもの散らかった景色が広がった。

 転がるペットボトルも、ごみをまとめたコンビニの袋も、脱ぎ散らかした服も、いつもの日常がそこにある。嫌で嫌でたまらなかった日常なのに、妙な安堵感がマコトを包んでいた。

 足の踏み場もないほど散らかった床を足でかき分けながら進み、ベッドの上に飛び乗る。

「疲れた……」

 ベッドに寝そべった瞬間、これまでの疲労が一気に襲ってきた。男に棒で殴られた腕が今になってズキズキと痛む。

「あの野郎……」

 やり場のない怒りがこみ上げてくる。

 マコトは床に転がった缶の中から未開封のチューハイの缶を拾いあげると、一気に飲み干した。酒に弱いマコトの顔はすぐ赤くなり、頭痛が襲ってきた。しかし腕の痛みは消えない。それどころかますます痛みが激しくなる。マコトは舌打ちをすると缶を床に投げ捨てた。

 とにかく気を紛らわそうと、今度はリモコンを手にテレビをつける。

「戦車です! 戦車が砲撃を行っています!」

 テレビはどの局も緊急報道特番だ。戦車が街を走り、砲撃をする瞬間の映像が何度も繰り返し流されている。一般人がスマートフォンで撮った映像や、ヘリからの空撮、様々な映像が流れるが、どうやらマコトの住む街だけでなく、他の地域でも戦車や戦闘ヘリが攻撃を加えているようだった。

 ヘリからの空撮映像に切り替わると、都内の各所から黒煙が上がっているのがわかる。

「ご覧ください、東京のあちこちから煙があがっています! 現在、都内には戦車が走り回り、無差別に砲撃を繰り返しています! 放火、破壊、略奪、そういった情報も入っており、大変危険な状況です!」

 テレビは破壊行為についての報道ばかりで、例の落書きについては触れていない。情報が無いのか、意図的なのかマコトには知りようもないが、ただの破壊活動としての報道が続く。

 酒で痛む頭の中、ぼんやりと中継映像を眺めているとヘリからの映像に他局のヘリが映りこんだ。一瞬だったがマコトは見逃さなかった。映りこんだヘリの機体には例の記号が落書きされていた。

「逃げた方がいい……」

 マコトがそうつぶやいた瞬間、途切れることなく中継を続けていたヘリのレポーターの言葉が詰まった。

「あ……」

 レポーターは絶句したまま固まり、空からの映像がただ流れる。

 何秒経ったろうか、無音となった中継から突如緊迫したレポーターの声が響いた。

「えー、ヘリが今、今、他局のヘリが……」

 そう言ったところで、今度は映像が途切れた。

「山本さん? 山本さん!」

「……えー、中継が切れてしまったようです。記者クラブを呼んでみましょう。中崎さん!」

 中継トラブルといった様子で画面が切り替わったが、マコトにはわかっていた。他局のヘリだけでなく、中継していたヘリにも落書きがあったのだろう。すでにどちらのヘリも撃墜されているに違いない。

 あの記号を描かれたものは全て破壊される、物でも人でも。マコトは駅前で散々それを味わった。恐らく今も街では破壊行為が加速しているのだろう。

「なんでこんなことに……」

 マコトはスマートフォンを取り出すと、あの記号を描かせたと思われる例の宗教団体のサイトを開いてみた。以前見た時はトップページに大きく『終』の文字が表示されていたが、今は『始』の文字が表示されている。

「やはりあいつらが……」

 しかしマコトにはどうすることもできない。ただ目の前の出来事を眺めることしかできない。

「官房長官の会見が始まりました、切り替えます!」

 テレビからキャスターの声がし、画面を見ると官房長官の記者会見が始まった。

「えー、現在、関東各所で発生している破壊行為について、現状をお伝えします」

 官房長官は淡々とした口調で現状を伝え始めた。破壊行為に自衛隊、警察の一部が参加し、戦車、ヘリが破壊行為に手を貸していること、それに対し、治安出動命令が発令されたことなど、会見台の脇に用意されたスクリーンに地図を表示しながら、落ち着いた、冷静な口調で話し続けている。

「現在、東海地方の部隊が支援のため、関東に向けて出発しております。経路につきましては、本日開通した環状線を利用します。こちらをご覧ください」

 官房長官が促すと、会見台の脇のスクリーンに地図が映し出される。官房長官は地図の脇に立ち、指し棒で地図を指し示す。

「こちらが本日開通した環状十号線です」

 円を描くように、官房長官が指し棒で地図をなぞる。

「そして、東海から環状線に繋がる国道508号がこちらとなり、このような形で関東に入ります」

 環状線をなぞった官房長官の指し棒が今度は国道をなぞる。

 その時、マコトは体から血の気が引いてゆくのを感じた。官房長官が地図をなぞるその動きは、どこかで見覚えのあるものだった。

「よくご覧ください。この環状線と、それに繋がる国道を……」

 官房長官が再び地図をなぞると、それは確信に変わった。

「あの記号だ……」

 マコトは状況を説明する官房長官の口元が歪むのを見た。そして、官房長官はさっきまでと変わらない、落ち着いた口調で語り始めた。

「我々はこの日を待った。環状線が開通する今日という日を。2000年に新環状線の整備計画を提出し、それに繋がる国道の計画も進め、我々は努力を惜しまなかった」

 官房長官はスクリーンに映し出された地図を満足げに眺めている。

「いよいよ始まる、滅びの時が……」

官房長官の口元はますます歪み、不気味な笑みでマスコミのカメラを見つめている。

「どうだ、見えるだろう、この印が! さあ、破壊するんだ! 待っているぞ!」

 そう言い残すと官房長官は壇上を後にした。

 しかしテレビは官房長官の言葉の意味を理解していなかった。キャスターたちは不思議そうな表情を一瞬浮かべたものの、すぐに中継を切り替え、何度も流した戦車の発砲映像をまた流し始める。

 そんなテレビの様子を、マコトは青い顔で眺めることしかできなかった。

 マコトの視界の隅にある窓からは環状線が見える。環状線の灰色のコンクリートがアパートに覆いかぶさるような圧迫感でそこにあった。

「これが……あの記号の一部……」

 東京をぐるりと一周する程の大きさの環状十号線。その環状線自体があの記号を示すものとして存在しているのだとしたら、その巨大な物体をどう壊すというのだろう……

 最悪の結末がマコトの頭の中に浮かんでくる。そしてそれが単なる嫌な予感でいられたのは一瞬だった。嫌な予感はすぐに現実となって目の前に現れた。

 つけっぱなしのテレビの映像が突然切り替わり、真っ黒な画面に白字で大きく、国民保護に関する情報という文字が表示された。


 国民保護に関する情報


 ミサイル発射。

 ミサイルが発射された模様です。

 建物の中、または地下に避難してください。

 対象地域 日本全域

 

 切り替わった画面と共にアナウンサーの緊迫した声が響く。

「えー、ミサイルです。ミサイルが発射された模様です。ミサイル発射が発射されました。建物の中、地下に避難してください。対象地域は、地域は日本全域です。番組を御覧のみなさん、すぐに安全な場所に避難してください」

 最悪はわかりやすい形で目の前に現れた。全国瞬時警報システムがミサイルの接近を知らせている。窓の外からも不気味な警報音が鳴り響く。

「ミサイルの到達まで時間がありません。警報から到達まで数分です。今すぐ安全な場所に避難してください」

 アナウンサーが避難指示を繰り返す。しかし到達まで数分なら逃げる術などない。

「これが……世界が滅びる瞬間なのか」

 マコトは二本目の缶チューハイに手を伸ばす。こうなってはもはやどうしようもなかった。せめてこの不快な感覚を麻痺させたかった。

「あっけないもんだな……」

 この警報音が終末のラッパなのだとしたらずいぶんと不愉快な音だなと、マコトは頭痛の酷い頭でぼんやりと考えていた。

 東京を囲むほど巨大な記号を目がけてミサイルの雨が降ってくる。その瞬間はすぐそこまで迫っている。 

「1999年7月。世界が滅ぶと信じていた。その望みが十数年後に叶った。それだけのことだ」

 マコトはバッグに手を伸ばすと、中から清掃道具を取り出した。嫌で嫌でたまらなかった清掃の仕事だが、いざこの世が終わるとなると妙な愛しさを感じた。洗浄用のオイルをティッシュに染み込ませ、ベッドの端の汚れを拭きとる。そしてブラシを使って継ぎ目の埃をかき出す。

そんな作業が妙に楽しかった。


 マコトは掃除を続けた。世界が終わる、その瞬間まで。



 

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[一言] タイトルで掴まれて、濃い描写に引き込まれて、息をするのを忘れたようにように読んでしまった。不気味で素晴らしい終末だった。 めっちゃ楽しめました、ありがとう!
[良い点] 非常に引き込まれる文章で、一気に読めました。 逃げる時の緊迫感や不気味なQなど、マコトと一緒に体感しているような気分になりました。 この作品、好きです。
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