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彼方へ。  作者: 逢坂瀬奈
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一人で通園。その末路。

 植村家で過ごす幸せな生活は今まで辛い家庭環境で生きてきた彼方にとって不慣れだけれどとても『幸せ』であったといえる日々だった。愛以の母・由紀菜も彼方を本物の息子のように……、娘のように可愛がっていた。当の愛以も彼方とは本物の姉妹のように仲が良く、何をするにもいつも一緒にいた。

 保育園でも親子で出かけるときにでもいつもいつも。

 事情を聞いた清香さんが時折遊びにも来てくれた。一緒に綾香姉さんも来てくれていて彼方はとても嬉しそうで愛以にはたまにしか見せない心からの笑顔を見せ、愛以は何だか複雑そうなだった。

 一時期は彼方の母である菜穂香もたまには植村家に顔を出したが、ある時を期に姿をくらました。

「あなたはもう私の子どもなんかじゃない」

 彼方に泣きながらそう言い残して姿をくらました菜穂香は今、どうしているのだろうか。

 菜穂香が彼方の傍を発って以来、由紀菜はより一層彼方のことを想い、大事に育てた。

 彼方自身も由紀菜を本物の母のように慕い、愛以とともに日々を過ごした。


 けれどそんな日々は長くは続かなかった。






 もうすぐ保育園を卒園するという時期になった頃のこと。


 この日は愛以が風邪をひいてしまって園を休んでいた。彼方一人で園に行かなければならなくて由紀菜は心配していたし、一緒に休むことも提案した。

 けれど、その日彼方は休むこともなく一人で通園した。

 いつも通り保育士に挨拶をして園児たちみんなに挨拶をする。愛以が居ないことで寂しさを感じつつもいつもと変わらない。

 もうすぐ卒園とは言われるけど、幼いわたしには実感が湧かない。

 ――これからも愛以と一緒にいられるのならそれでいいかな。わたしにはそのくらい。

 今日もいつものように他の園児たちと過ごす。木登りをして鬼ごっこをして缶蹴りをして、絵本を読んでおままごとをして歌を唄って。

 けれどどうしてだろう。

 何をしてもいつもより楽しく感じない。

 どうしてだろうか。


 午後になって園児たちも各々の親御さんに迎えに来てもらう頃合いの時間になった頃。

 ――あ、今日は由紀菜さん迎えに来れないから一人で帰らなきゃ。


 そう思って一人で帰る準備を進めていた時だった。

「不知火彼方を迎えに来ました」

 そう言って現れた男がいた。

 男の顔を見た途端、彼方は身動きが取れなくなってしまった。

 男の目がわたしに「言う事を聞け」とそう言っているように思えてしまったからだ。


「あの、失礼ですがあなたは彼方さんの……」

「父親ですよ。不知火彼方の父親で不知火誠と申します」

 男――誠は保育士に笑顔でそう名乗った。


 わたしはこの時、初めて父の笑顔を見た。


 この日わたしは父に連れられてこの街を出た。

 本物の娘のように由紀菜さんに感謝を伝えらないまま。わたしのもとを去ったお母さんに何も言わないまま。

 わたしにたくさんのことを教えてくれた愛以にだって何も言わないままにわたしはこの地を発つ。


「ねえ、お父さん。これからどこに行くの」

 わたしは父に問うてみる。

 問いの答えに代わりに帰って来たのは一発の殴打だった。

「うるせぇ」

 その問いに父はわたしの頬をもう一度叩き言う。

「お前は黙って俺に従っていればいい」

 わたしを強く睨む父の目。その目からは愛情なんてものは微塵も感じられなかった。

 この目には従う他ないのだと思わざる終えなくてわたしは言う。

「はい。お父さん」

 この時わたしは再び思い知らされたような気がしたのだ。


 わたしには自由などないのだと。居場所などどこにもないのだと。






 熱い。痛い。辛い。苦しい。気持ち悪い。

 熱が体から抜けない。体は汗だらけでべたべたして気持ちが悪いし頭も体も重くて動こうとしても体が言う事を聞いてくれない。

「お母さん、吐きそう」

「ちょっと我慢できる?すぐに袋用意するから」

「うん」

 看病してくれている母に頼り切りになって体の不調と戦う。初めて風邪を引いた私は風邪がこんなに辛いものだなんて知らなかった。異様な吐き気と昨夜から冷めることのない体の熱とが私の体を襲う。


 母はすぐに袋を持ってきてくれた。限界を迎えていた私は袋を広げてくれている母の手にそのまま吐瀉する。母は笑顔で「気にしなくていいからゆっくり寝てて」なんて言ってくれたけど、あれは酷いなって自分でも思う。


「ねえ、お母さん彼方は……?」

 私が風邪になっちゃったせいで一人保育園に通うことになった彼方。虚ろな頭で時計を見てみて気づいた。もうとっくに夜の七時を回っている。

 いつもならこの時間には皆で夕食を食べている時間だ。


 だから当然彼方はもう帰ってきているはずで……。


「よく聞いて愛以。実はね……」


 そこで初めて私は彼方が事故に遭ったと聞かされた。

 既に病院に運ばれ意識不明の重症。このままずっと目覚めない可能性があるとまで言われているらしい。

 体には特に傷は残っていないにもかかわらず内臓の損傷が激しく、いつ臓器が機能を停止してもおかしくないとのこと。


 幼い上に熱で思考力の低下している愛以には状況が理解できなかった。ただ、『彼方が死んでしまうかもしれない』というその現実だけが頭の中を埋め尽くしていた。


「お母さん、彼方のとこにいきたい」

 自身の辛さなんて気にも留めずにそう言った愛以。たった一年の付き合いだけどそれでもこの一年。彼方が私にくれたものは大きいのだと。彼方は私の全てで私は彼方のために何でもしてあげると誓ったのだと。

 そう訴える愛以の想いに応えてあげたくて由紀菜は車を走らせることを決意した。


 彼方が運び込まれた病院は幸いにも現在由紀菜が勤めている少し大きめの国立病院だった。

 熱に浮かされる愛以を背中で負ぶって病院の廊下を歩く。

 病院内の緊急処置室と呼ばれる場所に到着する。

 手術室のランプは『手術中』を示しており、医師に身内であることを説明すると助手を担当する看護師に待機室へと誘導された。

 中にははすでに清香と綾香がいた。泣きながら祈るように手を握っている綾香とそれを宥めながら何か後悔を覚えたような顔で俯く清香。

 由紀菜たちの到着に気づいた清香は真っ先に由紀菜を責めた。

 あなたがこの場にいない菜穂香の代わりに彼方を守るべきだった、と。

 しかし、由紀菜が背に抱えていた愛以の苦しそうな顔を見て、前言を撤回し頭を下げた。他人の子よりも自らの子を心配し、優先して看病するのは仕方がない事だ、と。

「いいえ、愛以も彼方ももうどちらも大事な私の子どもです。優劣なんて付けられません」

 そう言って頭を下げ返す由紀菜。

 待機室で辛そうな愛以を膝に抱えたまま清香と二人で話をする。

「私が迎えに行った時にあの男が父親だと名乗り彼方をそのまま連れ帰ったのだと保育士の方は話していました」

「なら彼方はあの男に攫われた後で何らかの事故に巻き込まれたのね」

「だと思います。もう少し早く迎えに行ってあげられたならこんなことには……」

「さっきあんなことを言ってしまった私が言うのも変だけど、あなたのせいじゃないわ。何もかもあの男が悪いのよ。そう何もかも」

「今は祈るしかありませんね。彼方の無事を」

「そうね」


 一同が待機室で待つこと五時間。

 手術は難航していた。

 現時点で死は免れているものの先述したように臓器の裂傷・破損が激しくこのままではどのみち一年は持たない、と医師は言う。


「臓器の提供を受けるのが一番でしょうね」

 清香が口にした内容に誰一人として反対する人はいなかった。


 方針が決まり、一度彼方の手術は終了した。


 肺の欠損に伴ってしばらくは酸素マスクは外れないらしく、その上無理に体を動かして臓器を痛めることがないようにベッドに体を固定したままの状態で生活しなければならないらしい。

 目を覚ました彼方に不都合の無いように支えるつもりではいるけれどそれも医者の許可が出る範囲で。何とかしてあげたい由紀菜はどうすることもできずにただただ大事な子どもが目を覚ましてくれるのを待ち続ける。


 愛以が元気になり、由紀菜が職に復帰して三週間が経った頃のことだった。ようやく彼方が目を覚ましたと同じ病院で働く看護師から連絡が入った。

 慌てて病室に向かう由紀菜。

 目が覚めた彼方にまずは三週間分の抱擁をしてあげたい。そしてあの日に助けてあげられなかったことを謝って、これからはもっとちゃんとあなたの母親として頑張るからね、と。そう伝えてあげたくて。

 訪れた病室で。


「あなたは誰ですか」






 そう問いかけられて私は何と答えるべきだったのだろうか。


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