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彼方へ。  作者: 逢坂瀬奈
5/7

居場所。

 今日は7月16日。

 私たちが『あの日』と呼ぶ日で、私、『綾辻愛以』の誕生日でもあり、幼馴染の『不知火彼方』の命日でもある。


 ――私はどうして生きているんだろう。


 寝つけないままに夜を過ごし、そのまま朝を迎えた私は明らかに不調そうな由紀菜さんに声を掛けられるまで布団に横になってずっと考えていたこと。今まで由紀菜さんのためにと考えないようにしてきたこと。『愛以』として生きると決めてからは心の奥底に仕舞ってきた。

 けれど、もう限界だった。考えずにはいられなかった。


 いつものように鏡とにらめっこして表情を作る。少し目の下の隈が気になったので軽くファンデーションを塗って誤魔化した。


 そうしていつものように居間に向かった。


 分かってはいたけど由紀菜さんはとても辛そうにしていた。真っすぐ立っているのがやっとという状態で料理をしている。

「由紀菜さん、私がするから。ソファに座ってて」

 そう言って上の空な由紀菜さんをソファに誘導する。大丈夫だろうか。

 舞以もあの日以来、私に話しかけようとしてくれない。今日は何をしているのか未だに部屋から出てこない。あの子のことだから寝坊という事はないだろうけど。

 由紀菜さんが何を作ろうとしていたのか分からない。キッチンの調理台には様々な材料が置かれているんだけど多分この材料じゃ何の料理も作れないと思う。一旦材料を冷蔵庫に戻し、いつも由紀菜さんが作ってくれるようなものを作る。といっても私も作れるものが少ないのでベーコンを焼き、目玉焼きを作る。ご飯を炊き、付け合わせの味噌汁を作って完成にする。

 料理を盛りつけてお盆に乗せ居間にある食卓の上に運び始める。






 朝起きてから私はずっとそわそわしていた。

 今日は姉さんの誕生日。だから朝一に姉さんに「おめでとう!」って言ってあげたい。プレゼントだって用意した。いっぱい考えて考えて選んだプレゼントだ。

 けれどどんな風に話しかけたらいいのか分からない。この間姉さんを泣かせてしまってから何を言ってもそうなってしまう気がしてずっと話しかけられないままでいる。私も多分姉さんもこのままの状態は不本意じゃないはず。


 ――よし、一階に降りたらの時には話しかけよう。

 そう決心して取りあえず階段を降り始める。

 ――プレゼントは後でも大丈夫のはず。今日は皆でどこかに出かけるって聞いているけど、それから帰って来たあとでも遅くはないはずだ。

 渡すタイミングについて考えながら最後の一段を降りた。

 プレゼントはいつでも渡せる。だけどお祝いの言葉は早くいってあげたかった。

 居間へのドアを開けて「姉さん、今日はおめでとう」とそう言いかけたところで――。






「姉さん、今日は――」

 慌てて二階から居間に入ってきた舞以が目の前に出てきた。

 そうして私と舞以はぶつかり、二人して尻もちをつく。それと同時、私が運んでいた料理はお盆ごと私の服や床の上に落ち、そのままひっくり返った。

「あー、ひっくり返っちゃった」

「あ……、ごめんお姉さん。せっかくのご飯が」

「いやあ、まあ仕方ないよ。早く片付けちゃお。私は割れた食器と床を何とかするから舞以は割れてない食器とあと雑巾を何枚か用意してくれると助かるかな」

「うん。あ、床は私が拭くから姉さんは先に服を着替えてきた方が……」

「良いよ別に。別に汚れてたって気にしないし」

「え……」


 舞以は「せっかくの可愛い服が汚れちゃう」なんていうけど、今は着れれば何でもいいと思っている。

 だからそのまま落ちて割れてしまった食器の欠片を拾っていたのだけど……。

「……愛以。服着替えてきて」

 ソファでゆっくりしていたはずの由紀菜さんが低めの声でそう言った。突然の声に驚いて顔を見てみたらいつもの優しい顔はそこにはなく、とても珍しい少し怒り気味の表情だった。

「お母さんどうし」

「今はそっとしてよう」

 舞以も多分私と同じように感じたんだろう。心配そうに由紀菜さんに声を掛けようとしたところを私は止めた。

 舞以をその場に残したまま脱衣所へ行き服を着替える。汚れたTシャツを洗濯かごに放り込み再び居間へ。

 私が着替えている間、由紀菜さんも手伝ってくれていたみたいで床は綺麗になっていた。

 ダメにしてしまった朝食は一人分だけだったので、「私はいいから二人だけで食べて」とだけ言って私は自室に戻った。

 ついさっき着替えたばかりだけど今日は皆との集合場所に行く前に喪服に着替えないといけない。だからもう早めに着替えておこうとクローゼットを開ける。


 クローゼットの中には今はもう着ることの出来ない服がたくさん入っていた。捨てられない、捨てることが出来ない、捨てちゃダメな服。私の宝ものと言っても過言じゃないもの。それがこの服たちだった。


 ――もう泣いてる暇なんて無いんだけどなぁ。


 下着姿のままクローゼットの前で涙が零れ始める。

 泣き上戸な自分は大嫌い。せめて今日くらいはやめて欲しかった。

 こんなことなら昨日のうちにでもクローゼットを開けて喪服を出しておけばよかった。


 数分が経った頃、後ろから舞以が抱き着いてきたのが分かった。依然泣き止まない私を気遣って心配してくれたのだろう。

 そして小さな声で

「大丈夫だよ。泣かなくても大丈夫だよ」

 とそう言って背中を摩ってくれる。以前、私がこうなった時に由紀菜さんがしてくれたことを真似て元気づけてくれるんだろう。

 この間迷惑を掛けたばかりなのにこうしてまた同じことを繰り返している。そんな自分に辟易する。それなのに舞以は「この間はごめんね」とそう言って謝る。

「違うの。あれは舞以のせいじゃない!」

 そう言って否定したけど無駄だった。舞以は私を慰め続けてくれて、何度も謝った。


 優しくて可愛くて。でも一度責任を負うとその責任を手放したりなんかしない。責任感が強いんだと思う。素直じゃなくて意地っ張りで甘えるときには凄く甘えてくれる。私が大好きな舞以。

 本当『愛以』にそっくりだ、とそう思った。






「私はご飯大丈夫だから。二人で食べて」

 姉さんはそう言って部屋に戻っていった。私は知っている。姉さんは昨日の昼も夜もご飯を食べていなかった。だからお腹だって空いているはずなのに。

 だから私は席を立ち、姉さんにご飯を譲ろうとした。けれど

「いいから食べて舞以。今日はあの子も辛いだろうから」

 そう言ってお母さんは私を止めた。今日は二人とも様子がおかしい。ううん、今日だけじゃなくて先週あたりからずっとなんだけど今日は特にだった。

 結局私は朝食を食べ始めた。朝食の間、お母さんが始めに「今日まで黙っててごめんなさいね」と言って教えてくれた。今日は姉さんの幼馴染が亡くなった日らしい。

 それでこの間のことにも合点がいった。

 私と陽くんが遊んでいることで昔の自分を想像したんじゃないか、と。幼馴染さんを楽しそうに遊んでいた日のことを。

 それを聞いてしまって姉さんに凄く申し訳なくなってきた。

 あの日家ではなく他の場所で陽くんと遊んでいれば――。


 そう思ってご飯も途中に姉さんの部屋に行った。

 姉さんはクローゼットを開いたそのままの姿勢で泣いていた。多分中に入っている服が原因なんだろう。見ればそれらは女物の服ばかり。

 ――亡くなった幼馴染さんは女の子だったのかな。

 そう思いつつ私は泣き続ける姉を元気づけたいと思った。前に母が同じように泣く姉を慰めるときにやっていたことを思い出し、してあげた。

 ついでにこの間のことを謝りながら。姉さんは違うというけど、私が姉さんを傷つけてしまったのは事実と思うから私は首を振り、慰めながら何度も謝った。

 しばらくして姉さんが懐かしそうに笑ったのを見て安心した私は――。






「お誕生日おめでとう、姉さん」

 そう言われて私の顔はどんな動きをしたのだろうか。あんなに嬉しそうだった舞以の顔が急に固まったのを見てとにかく酷い表情になってしまったのは確かだと思った。

 ちょうど由紀菜さんが「舞以も早くしないと時間ないよ」と声を掛けてくれてその声を聞いた舞以が慌てて「あ、私も着替えてくるから」と二階に上がる。

 舞以が言ってくれた誕生日の言葉。嬉しかったはずなのにどうしても他のことを考えてしまって素直に受け取ることが出来なかった。舞以には凄く申し訳ない。あとで謝らないと。


 喪服に着替えつつそんなことを考える。

 着替え終わって居間に来ると朝食が中途半端に残されていた。舞以の食べかけかな。

「それ食べていいはずだから食べちゃってね」

 由紀菜さんにそう声を掛けられたので頂くことにした。時間が経ってしまっているからかあまり美味しく感じなかった。


 十分もかからずに舞以は子ども用の黒いドレスを着て降りてきた。

 何だか小悪魔みたいで可愛い。



 すぐに家を出てコンビニに寄りつつ集合場所に到着する。

 いつもの顔ぶれがそれぞれに用意した喪服を着て集まっていた。

 清香さんに綾香姉さん。吉川さんに剛さんと奏。そして大和。当たり前だけど皆いつもより暗い雰囲気だ。


 集合した場所から墓地までは数十分。由紀菜さんには都合上運転をさせられないという清香さんの提案で綾辻一家は大きい車を持っている剛さんに乗せてもらうことになった。退院した日と同じように右手は舞以に、左手は由紀菜さんに握られる形で乗車して墓地まで向かう。


 到着して大翔さんの車に同乗させてもらっていた大和が泣きながら降りていたのを見て奏は慌てて駆け寄った。私も二人の手を繋いだまま大和の傍に行った。同じように由紀菜さんも泣いていて私の手を離そうとしないので由紀菜さん私は大和より由紀菜さんを優先して慰める。

 目の前の墓石には『不知火家』の文字が彫られている。

 墓にはすでに二本の花が手向けられていた。






 愛以と一緒に保育園から逃げ出した日。

 家にいればお父さんとお母さんはわたしのせいで喧嘩をする。だから保育園での時間が一番楽しくて幸せな時間だった。

 けれどその一時の幸せさえも潰えてしまった。わたしの本当の性別が露見しただけ。ただそれだけのことで皆からは嘘つき呼ばわりをされてしまった。

 わたしが本当は女の子じゃないなんてことは散々父にも言われていた。けれどそれでもやめられなかった。だって可愛い服も人形も好きだったし髪の毛だって短いよりも長い方が色々な髪型ができて好きだった。

 自分を女の子だと思っていることはそんなに変?

 毎日毎日痣ができてしまうほどに殴られなければならない程の事?

 男として生まれてきたわたしが女の子のように振舞うのってそんなに変?

 ただ体が男の子として生まれてきただけなのにそれだけで遊び方、話し方、仲良くする人、服装や髪型、全てを決められてしまう程のこと?


「男らしく髪は短めにしろ」「赤系統の服より青系統の服を着ろ」「『わたし』じゃなくて『俺』か『ボク』を使え」「女っぽい男はキモいからやめろ」


 家に帰れば毎日のようにそう注意されていた。少し前まではお母さんが庇ってくれていたけど最近は仕事が忙しくて帰ってこない日が多い。

 だからわたしの言動が気にくわないとすぐに蹴られたり殴られたりした。

 そういう毎日が繰り返されるうちにわたしは家では笑わなくなっていた。以前のわたしと比較して明るさが消えたわたしを見てお母さんは心配して声を掛けてくれたことが何度かあった。その度にお母さんを心配させたくなくて作り笑いをして「わたしは大丈夫だよ」と言った。二人がよく喧嘩をするようになったのもそれが原因かもしれない。


 保育園ではわたしは皆の人気者の『ぬいちゃん』だった。入園してすぐの頃女の子とばっかり遊んでいたら保育士の女性に怒られた。仕方がないから男のことも遊ぶようになった。最初は怖かった木登りも気づけば日課になって男の子たちと遊んでいないときでも一人で登るようになった。

 ある日、以前にわたしを怒った女性保育士が保育園をやめることになった。その人はお昼寝の時間トイレに立ち上がったわたしを捕まえて数回殴ってきた。女性の力だったし時折、お父さんから受けるものよりは痛くなかったので平気だった。女性は辞めさせられることになった原因はわたしだと言ってその日はそのまま仕事に戻り、次の日からは保育園に来なくなった。

 いつも作った笑顔ばかりだったわたしが本当に心の底から笑えるようになったのは一人の女の子と仲良くなってからでした。


 植村愛以。

 お母さんに連れられて保育園に来てまたいつも通り男の子たちに声を掛けようとしたときだった。

「おはよう」

 とても緊張した様子でその子はわたしに話しかけきた。照れくさそうだけど嬉しそうな顔で笑ってくれた彼女。

 初めてだった。

 元々自分からしか挨拶をしなかったのもあるけど、こうしてわたしと話すことが嬉しいとでもいうように笑顔で挨拶をされたのは初めてだと思う。


 凄く嬉しかった。

 だからわたしも自然と顔に笑みを浮かべて答えた。



 けれど、その日以降何があるわけでもなく時が過ぎてしまった。すれ違えばお互いに声はかけ合ったけどその程度。一緒に遊ぶこともなかった。

 何度か声を掛けようとはしたけど、その度に他の子の誘われてしまい、遊びに付き合っていた。


 ある日、一人で本を読んでいる愛以を見つけた。

 一緒に遊ぼう、とそう声を掛けてみたけれど「絵本を読みたいから」そう言って断られてしまう。

 断られたはずなのに私は少し嬉しく感じてしまった。なんとなくこの子が何を考えてそう言ったのか分かってしまったからだ。

 ――自分なんかが一緒にいていいのだろうか、わたしのことなんか気にせずにいられる方が幸せなのではないか。

 お母さんがわたしを庇うたびに思っていたことだった。

 だからこの子が同じようなことを考えて誘いを断ったことに気が付けて少し嬉しい。

 不思議ともっとこの子といたい、とそう思えた瞬間だった。

「だってわたしはあいちゃんと仲良くなりたいし、もっと一緒にいたいもん。それじゃダメかな」

 わたしの数少ない本心からの言葉だった。


 その日からは自然と二人でいる時間が増えていた。






 愛以と二人走ったあの時は凄く楽しかった。

 家でのこと、保育園でのこと。嫌なことも何もかも忘れて走った。


 何より、愛以がわたしの居場所を作ってくれて、居場所になってくれた。そのことが嬉しくて嬉しくてどうしても顔が笑ってしまう。


 二人で笑いながら走って逃げて、そうして彼方と愛以は逃避行の末に植村宅に到着した。愛以と愛以のお母さんの由紀菜さんが住んでいる家だ。

 しかし、帰宅したはいいものの愛以の母である由紀菜さんは仕事に出ているため不在。そのため、玄関の鍵も開いておらず、二人で考えて結局近くの公園に立ち寄ることにした。


 公園に着くと真っ先に二人でブランコに座った。


 そこからしばらくは特に何を話すでもなく過ごしていた。

 そうして十分が経った頃。

「ねえ、その痣ってどうしたの?」と愛以が少し控えめに訪ねてきた。


 最初は少し戸惑った。話すべきか話さぬべきか、話してもいいのか、と。

 だってそれはわたし達家族の問題に愛以を非違ては由紀菜さんを巻き込んでしまう結果にもなる。それだけは避けたかった。

 だから無言を貫いて誤魔化そうとした。


 けれど――。


 少し間を置いた後、彼女は笑顔を作り直して言った。

「私、彼方のためならなんだってするし、してあげたい。だから話してくれない?」

 その言葉が嬉しくて堪らなくて。

 だからわたしは愛以になら話してもいいと思った。

 愛以はわたしの性別云々のことだって理解してくれているし、話だってちゃんと最後まで聞いてくれるとそう思えた。

 だから家族とのこと、最近抱えている悩み事について話して聞かせた。愛以は今まで誰にも話すことが出来なかったわたしの本心についてだって何を言うでもなく聞いてくれたことが凄く嬉しくてわたしの吐露は留まるところを知らなかった。






「あ、いけない。そろそろ帰らなくちゃ」

 二人で話し始めてからがどのくらい時間が経ったのだろうか。

 話にキリがついたころ周囲を見渡してハッとする。気づけば辺りは真っ暗だった。

 まぶしいくらいに辺りを照らしていた夕日もすっかり失せて公園に設置されている電灯が淡く光っているだけの暗い公園で依然ブランコに座っている二人。

 電灯のすぐそば、時計の長針は『7』を、短針は『1』と『2』の間を指している。

 毎日お母さんは保育園に長針が『8』を指す頃に来ていたので今から家に帰ればちょうどいいかもしれない。

「彼方、おうちに帰ろ」

 いつも彼方のお母さんも私のお母さんと同じくらいに来ていたから大丈夫なはずだ。

 そう思って彼方に声を掛けてみた。

「――――」

 けれど返答はない。

 私は隣のブランコに座っている彼方を見た。

 彼方は酷く怯えている様子だった。ブランコに座ったまま腰を折るようにして蹲っていた。

「彼方……、どうしたの……?」

 ブランコを降りて蹲る彼方の前にしゃがんで声を掛ける。

「愛以ちゃん、どうしよう。またお父さんに怒られちゃう。またお母さんに迷惑掛けちゃった」

 彼方はそう言いながら泣いていた。

 また自分のせいで両親が喧嘩をしてしまう、と。


 なんでも自分のせいだと受け止めてしまう彼方。私はそんな彼方のことが好きだ。絶対に人のせいにはしなくて、すぐに「ごめんなさい」が言える彼方が好きだ。

 けれど、そんな私が好きな彼方はそうじゃないことまで自分のせいだと言ってついには泣き始めてしまった。こんな彼方は見たくなかった。

 私は彼方を元気づけたくて、泣き顔なんて見たくなくて。だから思ったことを口にした。



「彼方のお母さんとお父さんが喧嘩をするのは彼方のせいじゃないと思う。絶対彼方は悪くないよ」


 私の言葉を聞いたあと彼方は嬉しそうな、でもやっぱり悲しそうな顔をする。


「とにかく(うち)に帰ろ。帰ったらお母さんに頼んで彼方のお母さんに連絡してもらうから」

 そう言って彼方の手を引きながら帰路に着く。


 そもそも公園と家はそんなに離れた場所にあるわけでもなかったので家に帰り着くまでに大した時間は要さなかった。

「ただいま!」

 家に着き家の中にいるであろう母に向かって声を掛ける。するとすぐに玄関が開き、慌てた様子の母が出迎えてくれた。

「二人ともどこ行ってたの!保育士さん色んな所を探して回ってくれてたんだよ!」

 保育士さんは逃げた私達を追いかけてきたらしいんだけど、私達が公園に入っていったことに気が付かずに近辺を探し回ってくれていたらしい。

「でも!私たちが逃げたのだって皆が彼方のことを――」

「うん、事情は保育士さんから聞いてるから大丈夫。けど迷惑を掛けちゃったことは事実だから明日保育士さんに謝らなきゃだね」

 母は優しさの籠った声でそう言って私と彼方を家に上げてくれた。ずっと無言なままでいる彼方の手を引きながらリビングに入り、彼方をソファに座らせる。ついでに私も座る。

 お母さんはまず彼方のお母さんに連絡を入れてくれた。彼方のお母さんも彼方を心配していたみたいですぐにここに来るって言っていたみたい。

 二人でソファに座っているうちに眠たくなってきちゃった私。

 横に座っていた彼方はそれを察してくれたみたいで一緒に横になってくれた。少し落ち込んでいてもこういう優しいところは普段通りのままなんだな。


「おやすみ。彼方」

「ん、おやすみ。愛以ちゃん」


 お互いに小さい声で挨拶を交わして目を閉じる。

 そのままゆっくりと意識は遠くへと流れていった。






「保育園でそんなことが……。由紀菜さんもごめんなさい。私がしっかりしていないばかりに」

「いえ、菜穂香さんは立派だと思います。あんな人と暮らしていながらしっかり子育てまでして」

「私はそのくらいしかしてあげられませんから。本当はもっとずっと一緒にいてあげたいくらい。仕事から帰ってきてあの子を見る度に傷ができているのなんてもう見たくないんです」

「……さっき服を着替えさせてあげた時に見ました。あれは酷いものです」


 お母さんたちが話している声がする。ゆっくりと目を開けると目の前には気持ちよさそうに眠る彼方の顔が。

 少しドキッとしてしまう。


 恥ずかしくなって彼方の顔を見ないようにと目を瞑る。そうすると再びお母さんたちの話が耳に入ってきた。

「菜穂香さん、何か私に手伝えることはありませんか」

 そう言った母の声はいつものように優しさを含み、けれど怒りを感じさせる。そんな声だった。


「――――」


 彼方のお母さんはしばらく何も言わなかった。私はこの行動の意味がすぐに分かってしまった。

 ――もし頼ってしまえば家族の事情にお母さんや私を巻き込んでしまうから。

 だから何も言わないままなんだ。


 彼方のお母さんは彼方そっくりだと思った。いや、彼方が彼方のお母さんにそっくりなのかな?


「ふふっ」

 そこまで考えて自然と笑いが零れてしまった。

 私の微笑に驚く二人。

「彼方のお母さんって彼方とそっくりですね。彼方も今日同じことしてましたよ。私たちの事考えてくれて何も言ってくれようとしなかったんです」


 そう言った後、驚いたような表情で私のことを見つめた彼方のお母さん。

「ふふっ、だそうですよ菜穂香さん。やっぱりあなたの子どもですね」


 小気味よさそうにそう言ったお母さんの顔は先ほどの怒りなど感じさせない優しい顔に戻っていた。少し楽しそうにも見えてしまう。


 観念したのか、一つ溜め息をして笑顔を作った彼方のお母さん。

 そうしてその笑顔を崩さぬままに、しかし真剣なまなざしで言う。


「ではお言葉に甘えてお願いします。由紀菜さんにしばらく彼方を預かってほしいです。正直あの子をこれ以上あの家に置きたくない。あの男と一緒にさせたくないんです」

 あの男とは彼方に聞いた彼方のお父さんのことだろう。私も彼方のあの痣が酷くなっていくのなんて見たくない。

「はい分かりました、承ります。愛以もそれでいい?」

 私に確認を執る母。答えはもう分かりきっているはずなのにどうしてだろうか。

「もちろん!私は彼方のためならなんだってするって決めたから!」

 そう言った私を泣きそうな目で見つめてくる彼方のお母さん。何だか照れくさい。

 冷やかすようにお母さんが「いつの間にか頼もしくなって」なんて言って頭を撫でてくれる。


 母の頭から手を離すと彼方のお母さんの方に向き直り、

「菜穂香さん、愛以もこう言ってくれているので彼方はうちで預からせていただきます」

 と宣言した。

「ありがとう。本当に助かります」

 と頭を下げる彼方のお母さん。彼女は私の方に向き直って

「愛以ちゃんも。いつもありがとう。これからもお願いね」

 そう言って母とは違う手つきで、でも同じく優しさを含んだ様子で頭を撫でてくれた。



「それで菜穂香さんはどうしますか?」

「私は仕事があるので元々あの家にはほとんどいませんでした。だからこそ彼方を傷つけてしまっていたんですけど」

「そうなんですね。分かりました。じゃあ良かったら菜穂香さんも我が家にいらっしゃってください。

 」






 突然に始まった同棲生活は以前とは比べ物にならない程に幸せなものだった。

 彼方も戸惑いつつも自分本位に振るまえているようで今では笑顔が絶えない明るい少女のようだった。


 この生活が始まるきっかけでもある保育園の遠足については愛以と彼方の二人の強い希望で男女同じ場所に行くことになった。

 今まで経験がない試みにヒヤヒヤしつつもた楽しそうだった保育士。それを取り囲む男女混合の園児の姿。


 この日の出来事をきっかけに保育園児の中にあった男女の壁は少しずつ薄れ始めたのだ。


 男子の中にも絵本を読む子が増えてきた。

 女子の中にも元気に外で遊ぶ子が出てきた。

 そして互いの性別を気にせず仲良く遊ぶ男女が増えた。


 功労者の彼方と愛以は前と変わらずに二人で居ることが多かったが、彼方を通して愛以を遊びに誘う子も増えた。愛以もそれを笑顔で受ける。


 居場所を無くした彼方は愛以のお陰で居場所を取り戻し、そして恩返しとして愛以にも居場所を作ってあげたのでした。






「よう、元気にしてたか」

 男の声がする。

 もう生涯一度たりとも聞きたくなかった声だ。


 私の人生はこいつのせいでめちゃくちゃになった。

 こいつさえいなければ私は今夫と息子と幸せな人生を送っていたはずなのに。

 私の恩師があんな目に遭わされて傷つくこともなかった。


「もうちょっとそうしてろ。そしたら『息子』に会わせてやるよ」

「その言葉私が信じると思ってるの?」

「ふん、口の減らねえ女だな。相変わらず。心配するな約束したっていい。必ず連れて来てやる」

 そう言うと男性は女性を背に歩き始めた。






 女性の少し嬉しそうな顔を横目にして自分にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。


「ま、『お前』の息子に会わせてやるなんて一言も言ってないがな」



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