『あの日』と幼馴染。
「気分はどうだ?落ち着いたか?」
吉川さんが私の背中を擦りながら、優しく声を掛けてくれる。おかげでだいぶ楽になった。
そう。結局話の途中で吐き気を我慢することが出来ず、吐いてしまった私。今も吐瀉物が口の中に残っていて気持ちが悪い。
「はい、もう大丈夫です。ありがとうございました」
そう言って座っていたソファから立ち上がり、自らの口から出た汚物を片付ける。
吉川さんはそれを心配そうに眺める。
「あ、おい!制服汚れてるじゃないか!」
急に大きな声で呼びかけられたのでビックリした。
吐いた際に制服が汚れてしまっていたらしい。それを見た吉川さんは慌てて来ていたスーツの上着を脱いで私に貸してくれた。
ここまでしてもらわなくたって汚れくらい気にしないんだけど……。
貸してもらった上着を着ながら早めに汚物を処理して、吉川さんの座っているのと向かいにあるソファに座り直した。
私が話を区切ってしまってばかりなのでなかなか話は進まない。
多分、まだ話の本題にも入ってないんだろう。
けれど正直、今はこれ以上この人の顔を見たくない自分がいる。
だってこの人の顔はどうしてもあの子を想起させる顔だから……。
「あまり話を長引かせてもお前に負担を掛けてしまうだけだろうから言うぞ」
来た。ようやく本題だ。
「もうすぐ『あの日』だが、お前色々と大丈夫か?今日珍しく授業中に寝ていたみたいだが……」
『あの日』。そう分かっている。
もうすぐ『あの日』。
――私の『幼馴染』の命日で、『私』の誕生日。
「うん、私は平気」
「そうか。本当にそうだといいがな……」
――授業中の居眠りだってなんてことはない。ただ、最近あんまり寝つけていなかっただけ。
私は平気だ。
平気。
けれど――。
そこまで考えて、体に妙な疼きを感じた。
――違う。大丈夫だから、私は平気だから。
必死に自分の体へと訴えかける。まるでそうであることを強制するように。そうであるべきだと思い込ませるように。
――そうじゃなかったら皆が心配するから。
だから自分は大丈夫なのだ、と。そうでなければならないのだと。
もはやそれは『呪い』であるともいえる何かだった。
――大丈夫、私は大丈夫。
――大丈夫。だいじょうぶ……。
一人頭の中で『呪い』を唱えていると、ふと吉川さんがこちらを心配げに見つめていることに気がついた。
――ダメ。そんな顔はしないで。私は平気だから。
「と、とにかく私は平気。うん、大丈夫」
「……」
私の返答に納得出来なかったのか、訝し気に不満の様子の吉川さん。このままの空気はいけない。なにか話さないと……。
そこで思い浮かんだのは今朝がた朝食を作り忘れ、私が家を出るときまでずっと食卓で頭を抱えるようにボーっとしていた『お母さん』の様子だった。
昨日だって……。
「私は平気なんですけど、『お母さん』は結構参っているみたいです。今朝は朝食を作り忘れてボーっとしてました。昨日は茶碗を割ったり料理を焦がしたりでここのところ上の空なことが多いです」
「あの由紀菜さんが……」
いつもはこんなミスはしない。毎日美味しいご飯を用意してくれて、朝だっていつもとても優しい笑顔で私を送り出してくれる。私の『お母さん』は皆の理想の母親だって胸を張りたいくらいに素敵な母親だ。けれどそんな『お母さん』はここのところ上の空でいることが増えた。
「はい。そんななので一応昼間は清香さんに来てもらうことになってます」
「そこまでしなければならない程なのか。まるで……」
介護される老人のようだな、と吉川さんは言う。
私は何も言い返せなかった。
『お母さん』がこうなっているのはすべて私のせいなのに――。
「吉川先生。失礼しました」
「いったい何をしていたのかしら……」
「おや、あれが彼シャツとかいうやつかね」
「教師と生徒の淫行なんて、汚らわしい……」
吉川さんに一言残し、職員室を去る。長い時間二人きりで応接室に籠っていた二人の関係を怪しい目で見ている教師ばかりみたいで職員室からはコソコソ話ばかりが聞こえてくる。
――勘弁して……、私と吉川さんはそんな関係じゃないから。
まあ、心の中で何を言っても張本人たちに聞こえるわけもなく、ただただむなしい気持ちになるばかりだけど。
職員室を後にし廊下を歩きつつ、ようやく人の目がなくなった。
そう体が認識した途端、体の力が抜けていった。廊下の手すりを握り壁に肩を預けて倒れそうになるのを持ちこたえる。しかし、数秒経たぬうちにそのまま脚にも力が入らなくなった。
「……いっつ」
脚の崩れるままに手すりに頭をぶつけ倒れた。倒れた体を起こそうと試みるも体が異様に重く感じられる。その上視界が赤く染まり始めた。おそらく頭をぶつけた時に傷でも出来たのだろう。
――ああ。心配を掛けないようにって我慢してたんだけどなぁ。
倒れた時に服の中から出てきた冷却タオルが赤い視界の中に映る。今朝、体の熱を我慢するために胸下に巻いてきたものだ。
これのお陰で吉川さんの検査をクリアできたわけなんだけど、こうなっちゃ何の意味もなかったね。
――『お母さん』また心配するんだろうなぁ。ごめんね。ごめんね。
遠くなる意識の中で、一人の女性のことばかりが頭に残っていた。
『あの日』から今日まで私を育ててくれた人。偽物の娘だと知っていてそれでも本当の娘のように接してくれた人。
私の『今のお母さん』であり、私の幼なじみの母親だった『由紀菜さん』。
――私がいるから。余計に『あの日』を思い出しちゃうんだよね。ごめんね、『由紀菜さん』。ごめんね……。
頬を伝うものが頭から流れる血なのか涙なのか。それすらも分からない中でただただひたすらに「ごめんね」を繰り返しながらその意識を遠のかせた。
「もっと周りを頼って良いと思うの」
声が聞こえる。またこの声。誰の声なのか分からないその声はいつも唐突に聞こえてくる。
「――頼って迷惑はかけたくないの。自分のことは自分で何とかしないと」
どこから聞こえているのか分からない声に自分の意見で返答した。
「――それは自分一人でなんでもできる人の意見。あなたはそうじゃないでしょう?」
「うるさい。そうじゃなくてもそうしないといけないの」
「そうしてそれを実行しようとして今回結局迷惑を掛けているのが分からないの?」
声は私を糾弾する。
――うるさい、うるさい。
「あなたの行動は逆に人に迷惑を掛けているだけ」
――うるさいうるさい、うるさいうるさい。
「それを自覚しない以上、あなたは何にも変わらない」
――うるさいうるさいうるさいうるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい。
「由紀菜さんだって、あなたに迷惑を掛けられているなんて思っていないはずよ。あなたがそう思っているだけ。自意識過剰なのよ。皆、あなたのことが心配なだけ。大切なだけ。大事なのよ。だから――」
「うっるさーーーーーーーーーーーーーーい!!」
もうやめて、私は皆に迷惑も心配も掛けたくない。気も遣ってほしくないし、私のことで誰かが傷つくのなんて嫌だから「私のために」って免罪符で頑張るのなんて辞めてほしい。ただそれだけなのにそれは間違っているのだろうか。
いや、私は何も間違っていない。間違ってなどいるはずがない。
私と関われば皆いなくなる。皆死んでしまう。
もうあんなのは嫌だから。だから皆には私を放っておいてほしい。
ただ、それだけなのに。
「――いつか、大事なことを思い出すその時まで私はずっとあなたの傍にいるから」
その言葉を残して声は消えていった。
声の主は誰なのだろうか。
――口うるさい人だけど、一度でいいから会ってみたいな。
そう願いながら、遠のいていた私の意識は戻った。
目覚めた場所は保健室のベッドだった。
窓の外を見た限りだととうに日は沈んでいる。私が吉川さんと話していたのが17時くらいだった気がするからそんなに時間も経ってないのかなって思う。
少し体を起こそうと力を入れてみるけどやっぱり入らない。体の熱も残っているから尚更だ。
周りの様子を窺いたくて首だけを動かしてみる。
ベッドの横、置かれたパイプ椅子に腰かけて眠っている由紀菜さんの姿が見えた。
――やっぱり、心配させちゃったかな。
由紀菜さんの目元には濃い隈があるのが分かった。多分、私と同じでここのところ満足に眠れていなかったのだろう。とても気持ちよさそうに寝ているので起こしたくなくて私は音を立てないように反対側に頭を向けてみた。
そこにはベッドで横になっている奏の姿があった。
「もう、ダメだよ愛以……」
こちらも気持ちよさそうに寝言を言いながら寝ている。何がダメなのかは分からないけど何か私と楽しい事でもしている夢でも見ているのかな。ちょっと頬が赤に染まっているのが気にはなるけど笑顔だし楽しそうだ。
それからしばらくは由紀菜さんと奏の寝顔を交互に眺めていたのだけど二人の寝顔を眺めていたら段々と眠くなっちゃって再び睡魔が来た。どうせ体も動かせないし、他にすることもないから寝ようかな。
瞼を閉じ、数分もしないうちに再び眠りに落ちた。
愛以には同い年の幼馴染がいた。
幼馴染の名前は不知火彼方。
自分の事を女の子だと思っている不思議な子。元気で常に明るくて、男の子からも女の子からも人気な好少年だった。
彼方と愛以が初めて出会ったのは保育園の頃だった。
そう、当時から自分のことを『女』だと自認していた彼方は大好きな従姉である綾香の真似ばかりしていた。そのせいか振る舞いも女の子らしいものがあり、身に着けるものもそれらしいものを好んでいた。母の菜穂香も忙しいながらに彼方が望むように身なりを整えてあげていた。
そのため幼かった彼方は同い年の女の子には引けを取らないほどには可愛かった。
彼方が保育園に入園。入園していた保育園に愛以がいた。
特に仲良くするわけでもなく、互いに一人でいる時間の方が長かったかもしれない。
愛以は一目見て彼方のことを女の子だと勘違いしていた。そのことに何の違和感も持っていなかった愛以が初めて彼方の性別を知ったのは愛以が絵本を読んでいる場所で男女二人の保育士が遠足の目的地について話していた時だった。
二人の通う保育園では男女に分かれて違う目的地が用意されている。そのため毎年のように保育士は男女でそれぞれ違った目的地を考えなければならなかった。
「少し先のことになりますけど、今度の遠足の件、今回は私が女の子達を引率しますね。昨年は幼児誘拐やら色々あって保護者からの目もありますし」
と女性の保育士が言った。
「ええ、それで構いませんよ。僕は男子の引率をします。あの子ら、元気なんで怪我しないか心配なんですよね」
と男性の保育士。
絵本を読みながら話を聞いていた愛以はほんの少し男性の保育士に好感を持っていたので二人に隠れながらひっそりと残念がった。
そんな愛以を除けて話は続く。
「そうですね。公園とかに連れて行くとすぐ木登りを始めちゃう子もいるので落ちたりしないか心配で注意はするんですけど、言う事聞いてくれませんしね……」
「わかります。僕もそういう時はどうしたらいいのやら分かんないです」
「ですよね」
愛以はうんうんと頷くように話に同意していた。男の子ははしゃぎまわっては怪我をして帰って来ることが多い。怪我をして勝ち誇ったような顔で帰ってくる子もいれば、わんわん泣きわめきながら帰ってくる子もいる。
そこでふと思い出した。そういえばあの子もよく怪我をしているな、と。せっかく可愛い顔を泥や土で汚し、時折、膝を擦りむいて満足そうに笑顔で帰って来るのだ。
もったいない。
そう思いながらふと周囲にあの子はいないかとキョロキョロとあたりを見渡した時だった。
男性の保育士が再び口を開く。
「そういえば、男女で別れるとき彼方くんはどうしましょうか」
突然、愛以の頭の中にいた子の名前が挙がり、ビクッと驚いてしまう。
でもどうしてあの子の名前が出てくるのだろう。
不思議になって話の続きに耳を傾けた。
「あー、あの子ですか。難しいですよね。本人は自分のことを『女』だって言っていますけど、でも結局は『男の子』ですし、どう扱うべきなのか……」
「そうなんですよね。彼自身も見た目こそは女の子みたいに可愛いですけど、男子と遊ぶことの方が多かったりするので男子のグループに振り分けても大丈夫だとは思いますが……」
「じゃあ、そのことについてはあとでそれとなく本人に確認してみますね」
そう言って話は終わり、二人の保育士は各々の仕事に戻った。
部屋には愛以だけが取り残され、先ほどの話がどうしても頭から離れなかった。
嘘でしょ。
あんなに見た目や仕草、ちょっとした時の色んな表情も可愛くて。
そんな子が実は男の子だった……!?
嘘だ……。
愛以は『彼』の姿を想像しながら頭の中で否定を繰り返した。そんな中、気づいた。さっきの話の中に引っかかることがもう一つあったことを。
でも「本人は自分のことを『女』だって言っていますけど」とも言っていたはず。どういう事なんだろう。
本当の性別は『男』なのに、自分のことを『女の子』だと思い込んでいるって。
そんな疑問を抱えつつ、保育園での一日を過ごした愛以は帰宅後、母親の由紀菜に相談した。
由紀菜は愛以に優しく話した。
「愛以、人には二つの性別があるの。一つは『体の性』。みんなが言う『性別』はほとんどがこれ。そしてもう一つが『心の性』。これは意識する人の方が少ないからあまり知られてないんだけどね」
「心の性……」
「そう。この二つは必ずしも同じとは限らないの。だから彼方さんみたいに体は『男の子』なのに『女の子』って子も、反対に体は『女の子』だけど『男の子』って人もいるの」
「そうなんだ……」
初めて知った『心の性』の話に少し驚きながらもすぐに納得し、今度はそんな彼方に興味を持った。興味を持つとそこから「どう接するべきか」「なんて話しかけよう」なんて考え始めて頭の中がいっぱいになった。
だから母の「彼方、元気に育っているみたいで良かった」という呟きにも気が付かなかった。
翌日、由紀菜に手を握られながら保育園に来た愛以は彼方を見つけるなりそこに駆けていき、少しモジモジとしながら「おはよう」と声を掛けた。
そんな初めての会話でもある挨拶に彼方は満面の笑みで答えた。
「うん、おはよう!」
と。
けれど、その日からも目を合わせた時に挨拶こそすれ、一緒にいることはほとんどなかった。
二人の関係に進展はなかった。
当時、『不知火』という名字から園児たちに『ぬいちゃん』と呼ばれていた彼は男子とも女子ともよく遊ぶ子だった。
男子たちとは木登りや鬼ごっこなど外での遊びを。女子たちとはままごとや絵本、好きな洋服の話などで盛り上がった。
けれどある日、愛以が一人静かに絵本を読んでいた時のことだった。
「愛以ちゃん、一緒に遊ぼ!」
そんな人気者の彼方が声を掛けてきた。
最初は気が重く感じられた。正直に言ってしまえば外に出て遊ぶというのが面倒くさい。こうして絵本を読んでいる方が楽しいし、疲れないから。
でもせっかく誘ってくれたこの子の気持ちを無碍にしたくはなかった。
「ぅ……」
「うん、いいよ」とそう口にしようとしたところで思ってしまった。
こんな半端な気持ちで一緒にいて、この子は楽しんでくれるだろうか、と。
私なんかといても結局時間を無駄にしてしまうだけなのではないのか、と。
「ごめん、私は絵本を読んでいたいから……」
だからそう言って断ってしまった。拒絶してしまった。
(これでもうこの子とは一緒にはいられなくなっちゃうな……)
そうして途端に覚える焦燥感。
残ったのは後悔だった。
変に色々と考えずに誘いを受ければよかった。
怒っているだろうか。寂しがっているだろうか。呆れてしまっただろうか。
今彼がどんなことを思っているのか、どんな顔をしているのか気になってしまう。だから私は絵本を読むふりをして恐る恐る彼の顔を覗いた。
目の前の彼の顔は相も変わらずの笑顔のままだった。そして……
「そっか!じゃあわたしも一緒に絵本読も!」
そう言った。
「なんで……」
「だってわたしはもっとあいちゃんと仲良くなりたいし、もっと一緒にいたいもん!それじゃダメ?」
最初は聞き間違いかと思った。けれど違った。
彼は拒まれた上でそれでも仲良くなりたい、一緒にいたいと言ってくれた。
それが凄く嬉しかった。
だってそれは私も同じだったから……
「私も、あなたともっと仲良くなりたい。外で遊ぶのも動き回るのも苦手だけど、それでも良かったら……」
だから次はきちんと本音で話すことが出来た。恥ずかしがりながらも手を差し伸べて。
彼方もその答えを聞いて満面の笑みを浮かべ、愛以の手を握った。
「うん、もちろんだよ!よろしくね!」
それから二人はいつも一緒にいるようになった。
無邪気で自由気ままな彼方をしっかり者の愛以が片時も離れることなく面倒見ていた。
愛以は木に登った彼方を「危ないよ」と注意しつつも、木に登った彼方に引っ張ってもらって一緒に木に登るようにもなったし、彼方も愛以にお勧めしてもらった絵本を読んだりと二人はますます仲を深めていった。
彼方と出会うまでは一人でいることの方が多く、笑顔なんて由紀菜の前でしか見せなかった愛以にもいつしか笑顔が増えていた。家に帰れば彼方の話ばかりになってしまって、それを聞く由紀菜もとても楽しそうに愛以の話を聞いた。
そうして半年ばかりが過ぎた。この頃、彼方の母である菜穂香が多忙になってしまい、彼方の面倒を見られなくなった。そのため必然的に父親の誠が彼方の面倒を見ていたわけだが、それはそれは酷いもので、菜穂香がいないのをいいことに仕事で溜めたストレスを彼方に手を上げることで発散していた。
それを指摘する菜穂香と毎日のように喧嘩をするようになっていたため、彼方は「わたしのせいでお母さんとお父さんが喧嘩をする」「わたしがお母さんに迷惑を掛けている」と自分のことを責めるようになった。
それでも保育園に来ればいつものように元気な彼方だった。男子からも女子からも人気者の元気な『ぬいちゃん』だった。ただ、着替えるときに見えてしまった腕や足、体の至るところある痣や傷跡がとても痛そうでとても心配だった。
半月が経った頃だった。保育園では遠足についての話が出た。
まずは簡単に目的地に関しての話だ。
男の子は歩いて三十分くらいのところにある公園、女の子はそのちょうど反対側にある綺麗な花が沢山咲いている河原へ行くことになった。
遠足の持ち物の話が出ると園児たちからざわざわと話し声が増えていった。持っていくお菓子の話や一緒にどんなことをして遊ぼうなど、それぞれが遠足に想いを馳せ、騒ぐ中で彼方と愛以だけは静かに話に耳を傾けていた。彼方はおやつを買って貰えるかどうかの心配。愛以は彼方が『男』のグループ、『女』のグループのどちらに振り分けられるかの心配をしていた。
そして男女に分かれて目的地についた後に一緒に遊ぶペアについての話し合いをすることになった。
『体の性別』が男である彼方は当然のように男に振り分けられていた。
「なんでぬいちゃんが男の子のグループなの?」「なんでなんで~?」「一緒に木登りはしたけどそれでも『女の子』なんじゃないの?」
いままで彼方のことを『女の子』だと思っていた男子からは疑問の声が多数挙がった。
一緒に遊んだこともある子たちも含めて。
女性の保育士は男子たちが彼方の性別の件を知らなかったことを知らなかったらしく驚いていた。「仲良く遊んでいたから知っていたものだとばかり思っていた」と。
段々と疑問の声が強みを帯びてきて、「ぬいちゃんは嘘つきだったんだ」「でも女の子みたいな遊びしなかったから不思議に思ってた」「うそつき~!」と男子の中から非難の声が挙がった。
「なんでそんなこと言うの!」「ぬいちゃん可哀想じゃん」
女子たちは彼方を庇うようにして男子に食い掛った。
けれど。
「でも、確かに私も彼方ちゃんのこと女の子だと思ってた……」「ぬいちゃんが自分のこと女の子だっていうから信じていたのに」
女子たちの声もだんだんと暗いものに変わってきた。
皆が彼方のことを訝しむような目で見る。
そうして渦中にいる彼方は思った。
――家に帰ればお母さんとお父さんはわたしのせいで喧嘩をする。「わたしがこの家にいなければ」なんて何度も思った。だからこそ保育園に来るのだけはすごく楽しみだった。みんながわたしと遊んでくれみんなが仲良さそうにしてくれる。だからこの場所がすごく好きだった。それなのに……。
もしかしたらわたしの居場所なんてどこにもないのではないか、と。
そう思って顔を伏せようとした時だった。
「彼方、私だけはずっと傍にいるからね」
周囲の様子に怯え、震えていた彼方の手をそっと握ったのは愛以だった。
話の以前から彼方の采配について気を配っていた愛以はそんな周囲の人間の様子に怒りを通り越して呆れていた。
そして、何もかもを諦めたような顔の彼方が放っておけなかった。
「行こ」
だから一刻も早くこの場を離れようと握った手をそのまま引き、園から出た。
後ろから追ってくる保育士を気にも留めずに走った。
愛以に手を引かれ、手を繋ぎながら二人で走った。
そんな初めての逃避行に彼方は満面の笑みを浮かべていた。抱え込んでいる苦悩の全てを忘れて愛以とこうして二人でいられる時間に幸せを感じているように見えた。
そう、私は彼方にずっとこういう顔をしていて欲しい。
ずっと笑顔でいて欲しい。そのためなら私はなんだってする。
彼方が何かに悩んでいるなら何とかしてあげたい。分からない時にはお母さんに相談して一緒に考えて解決してあげたい。彼方が笑ってくれるなら私はなんにだってなってやる。何でもしてやる。
齢5歳にして愛以はそう誓った。