綾辻愛以。
「もっと自分を大事にして。もう二度とこんな無茶はしないで」
懐かしい声。今となってはいつどこで聞いたのかすらも思い出せないけど、その声は不思議と私の耳によく馴染む。とても懐かしいようでどこか寂しさの残る声。けれど、とても暖かい。そんな声だ。
そんな声に心地の良さを感じていると、段々とほかの声も聞こえてくる。
「私はずっと――と一緒だから。ずっと傍にいてあげるから」
次に聞こえてきたのは幼い少女の声だった。
声の主である少女のことははっきりと憶えている。いつだって私のことを気遣ってくれて、支えてくれていた。もう会うことの出来ない少女の声だ。
「僕の分まで幸せに生きてね。約束だよ」
次に聞こえてきたのは少年の声だった。
子どもだった私にたくさんの思い出をくれた少年。私が私になる手伝いをしてくれた。苦い初恋を思い出させる声だ。
頭の中で響いていた無数の声。それらは聞こえてきた順に段々と遠ざかっていく。
「……待って!」
追いかけても追いかけても届かない手を必死に伸ばし、そして……
「行かないで……‼」
そう叫んだ途端、バタンッと音を立てて目の前で何かが倒れた。
倒れたのは机だった。それに気づき、足元を見る。机の上に置いてあった教科書類や筆記用具などが床にぶちまけられている。
床から目を離し、次には周囲を見渡した。
教室の中にいる教師やクラスメイト達が奇異な目で私のことを見ていた。
どうやら授業中に居眠りをしてしまっていたらしい。
何だか夢を見ていた気がするけど内容がうまく思い出せない。
(どんな夢だったっけ……)
頭の中で必死に夢の内容を思い出そうと試みてみた。思い出せないとすごくモヤモヤする。
と、そこで。
「おい、綾辻。目が覚めたみたいで結構。早く机を元に戻して授業に参加してくれると助かるんだが」
「あ。すみません……」
教室内の至る所からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
男性教師に注意され少し恥ずかしさを覚えながら机を元に戻し教科書や筆記用具を拾う。一連の動作の完了を見届けた男性教師は一つ呆れ顔で溜め息を吐くと授業を再開した。
結局夢の内容は思い出せないまま、時間が過ぎた。
「ねー、愛以どうしたの?普段は居眠りなんてほとんどしないのに」
そうして話しかけてきたのは同じクラスで友人の奏だった。
「別に何でもないよ。ただ、予習済みの内容を授業でやっててつまんかったから寝ちゃってただけだよ」
「愛以はさすがだなー」
「別に、普通だよ。普通」
街田奏。親同士が知り合いという事で仲良くなった彼女。父親が弁護士をしており、彼女自身も父のようになるのだと日々勉学に励んでいる。しかし、必ずしもそれが成績に結びつくとは限らず、毎回のテストでも成績の順位は中の下。
だから私が彼女の試験勉強に付き合ってあげることも少なくない。
「本当に珍しいよな。なんかあったか?」
そうして二人の会話に口を挟んできたのは奏と同じくクラスメイトで友人の本郷大和。実のところ彼とは友人以上の関係でもあるのだが、そのことについてはまたの機会に。
彼は奏とは違い成績優秀だ。私とクラスで一、二を争うくらいには。美術の分野に長けており、たまに見せてくれる絵も繊細なタッチが特徴的ですごく上手いと思っている。
「なんもないって。奏も大和も大袈裟だよ」
心配してくれた二人の気持ちは素直に嬉しいけれど、たった一度の居眠りで大袈裟だと思う。
(ま、何もないわけじゃないのは確かだけど)
「大袈裟かなー?
「大袈裟か?」
心配そうに私の顔を窺う二人が勢い良くハモったことに笑いつつ内心で少し焦りを覚えていた。
(やっぱ、この二人には誤魔化しは効かないか……)
付き合いの長い二人は私の性格を熟知している節がある。だから迷惑を掛けたくなくて嘘を吐いてもすぐにバレてしまうようで、今もこうして疑いの眼で盛られている。
「正直に言って?私は本当に愛以のことが心配なだけだから」
奏が上目遣いでこちらを見ながら尋ねてきた。
(おまけに私が上目遣いに弱いのもバレバレか……)
もう流石に降参だった。
「はあ……仕方ないか。実はね……」
観念して今日居眠りに落ちるほどに授業に集中できていなかった理由を話そうとした。そんな時だった。
「綾辻さんいるー?」
教室のドアが開き、入ってきた学級委員長が私を呼んだ。
「ここにいるよー!」
奏が元気にそう応えると学級委員長は私たちのいる席まで来る。
「綾辻さん。担任の吉川先生が職員室に顔を出すようにと仰っていました」
「職員室に呼び出しか。今日の居眠り以外で呼び出される理由が思いつかないんだけど」
「絶対それだよ」
「絶対それだろ」
「絶対それだと思います」
まさかの三人でハモり……
でもやっぱりそれしかないよね。しかもあの吉川さんだし。
なんとなく何の話をされるのかが想像できてしまう。あまり話したい内容では無いんだけどな。
「はあ~。気は乗らないけど呼び出されたなら仕方がないか。ちょっと職員室行ってくるね」
これから話されるであろう話のことを想像するとどうしても気鬱になってしまう。悟られないように取り繕って簡単に一言を残して席を離れる。
「うん、行ってらっしゃい」
「しっかり怒られて来い」
心配そうに手を振りながら見送ってくれる奏と余計な一言を添えつつも私のことを慮っている様子が窺える大和。
すぐに私の片鱗に気づいてこうして支えてくれる二人。
ほんと、二人には助けられてばかりだなって思う。
職員室に到着する。
吉川さんは私が来るなり「二人で話ができる場所に行こうか」と職員室の横にある応接室に私を通した。
「体の調子はどうだ」
最初の質問はそれだった。
私が「良好です」と無難に言い返すと奏達同様信じてはもらえず、吉川さんは私の額に軽く触れた。額に触れ、熱がないことを確認すると次は軽く腕をつかみ脈拍を調べる。
「うん、熱もないし脈拍も安定しているな」
「だから良好だって言ったじゃないですか」
「愛以はそういうのをすぐに誤魔化そうとするから信用できないんだよ。そういうところ
本当に『あの人』とそっくりだ」
一瞬にして、顔が凍ったのが分かった
「すみません。母の話は、避けてもらえると助かります」
唐突に出た『あの人』という言葉に胸が窮屈になるのが分かる。取り繕う余裕もなくなるほどに苦しくなった胸を必死で庇いながら言った。
いつ死んだのかも知らされないままに事実だけを知らされた母の死。あれからもう五年もの月日が流れた。五年の間、結局何も教えてもらえないままだった。母の死因について何も。
皆が私を気遣ってくれた結果かもしれない。だってあの時は色々とあり過ぎて私はまともで居られなかったのだから。
「まだ振り切れていなかったのか。すまん」
「いえ、吉川さんは悪くありません。なかなか整理を付けられない私自身の問題ですから」
話もまだ途中だというのに吐き気が止まらなくなった。もう何も考えたくない。考えれば考えるほど気分が悪くなってくる。
こうなるのが分かっていたから、ここに来るのは気が進まなかったのだ。
少しでも記憶の紐を解くと芋づる式に過去の嫌なことをすべて思い出してしまう。
母の死や幼なじみの死、私に生きる希望を与えてくれた少年の死。
私が経験した暗い過去のことを、思い出す。
私が綾辻愛以になるまでのことを。
あるところに父の横暴さのせいで母と生き別れになった少年が居ました。
父は少年に「生きるためには自分で稼いで来い」と言い渡し、一切の面倒を見なくなります。少年は寝る場所も、食べるものも何一つ与えられずに、生活をします。
一年が経ち、少年は自らが生きるため汚いことや小狡いことをし、犯罪にも手を染めるようになりました。
そうまでしてようやく得たお金。少年は満腹感を得る事を楽しみに帰宅します。
家には昼間からお酒を飲んで酔っ払った父と、その父に添い寄る一人の女性が居ました。父と女性は少年が帰って来たことに気づくなり少年に手をあげました。
「父親のために稼いできてくれるなんて良い子だねぇ」
女性はそう言って少年を褒めると少年から全額取り上げ、家から追い出しました。
家から追い出された少年は空腹を訴えながらもまた犯罪行為を繰り返します。掏り、窃盗、詐欺etc……。
ある日、少年はヘマをしてしまい、殺し屋に狙われるようになってしまいます。
そのせいで都会の路地裏のゴミ箱に隠れ生活する日々が始まります。食べるものは捨てられた生ごみのみ。極稀に通りかかった人がパンを恵んでくれる。その程度だった。
ある日、少年は一人の老人と出会いました。その老人は少年の祖父にあたる人でした。
老人は少年の生き方を見てとても悔しそうな顔をしました。
「息子が不甲斐なくてすまない。君をこんな風にしてしまってすまない」
何度も何度も頭を下げられて困惑する少年。
老人は少年を匿いたいと申し出ました。
少年は「迷惑がかかるから」と老人の申し出を拒否しました。
一晩泊めてもらい、翌日の早朝。老人が起きていないことを確認して、少年はまたも暗い道を歩き始めてしまったのです。
その晩のことでした。
隠れ家にしていたゴミ箱へとたどり着いた少年はついに殺し屋に見つかってしまいました。
「はあ……はあ……はあ……」
街中を逃げ回って逃げ回って。それでも殺し屋は少年を追い詰め続けます。もう何度飛来したナイフが腕や脚に刺さったか分かりません。
少年は死を悟りました。
そんな時でした。
あの老人が現れ、少年を駅まで連れて行ってやると言ってくれました。もう歩くのも限界だった少年は老人の申し出に甘えさせてもらい、駅まで連れて行ってもらうことになりました。
駅への道中、老人に切符と行先が書いたメモを渡され、駅に到着。
老人は孫との別れに涙を流し……
腰に差してあった小刀で少年を攻撃しました。
意味が分からずに怯える少年は逃げることもできないままに老人と話をしました。
老人は息子が抱えた借金を肩代わりさせられていて、その返済のために少年の身柄を拘束、または殺害する必要があった。
老人は涙を流しながら少年に話を聞かせた。
その話を聞いた少年は怯えることも逃げようともせずに言った。
「ボクが死んであなたのためになるのなら、ボクを殺してください」と。
笑みを浮かべながら。
老人はそんな孫に狂気を感じた。
そして自分を責めた。
「儂が息子を真っ当に育ててあげられていたならこの子はこんな子に育たなかったろうに」と。
老人は無抵抗な少年を殺そうとした。
その時だった。
「バンッ」という銃声とともに少年の顔が血だらけになり、老人がその場に崩れた。
突然のことに頭が真っ白になった少年は目の前で倒れた老人に歩み寄った。
「ねぇ、起きてください」
「お前は優しく育ってくれ。ほら、早く行け」
老人は少年にそれだけを言い残し、力尽きた。
泣きながら駅の構内を走る少年。
老人を射殺した殺し屋は必死で少年を追い続ける。
そして少年は走り続ける。