3 憐憫
その少女は飾り気がなく大人しい雰囲気だが、間近で見ると可愛らしい顔をしていた。
「いや……やめて……」
震える声に耳をくすぐられ、俺はこのような状況にもかかわらず良い気分になった。
本当に哀れな少女だ。仲間に囮にされ、魔力を込めた渾身の一撃も通じず、双子に柔肌を食い破られた。そしてこれから俺の餌になって死ぬ。
甘い血の香りに酩酊しそうになる。彼女の白く滑らかな首筋に食いつきたくなる衝動を何とかこらえ、俺は穏やかに告げた。
「怖がる必要はない」
せめてもの情けをやろう。食物連鎖の上位者から、下位の生物への慈悲だ。
丁寧に口づけを交わすと、少女の体から力が抜けていった。これで痛みや恐怖がだいぶ和らぐだろう。俺としても女の金切り声は聞きたくない。
首筋に牙を突き立て、血をすすった。ヤナギの言った通り、めったに味わえない極上の血だった。病み付きになる美味さとはまさにこのこと。消耗した魔力がみるみるうちに回復していく。
このまま殺すのはあまりに惜しい。できれば連れ去って飼いたいものの、今はシオンの救出が先決だ。荷物は持っていけない。
断腸の思いで俺は急いで血を貪った。味わう時間もないのが辛いところだ。本当なら双子にやるのももったいないくらいだったが、まぁ、これをお預けにしたら恨まれそうなので独占はやめた。
少女は俺に身を委ね、うつらうつらと小刻みに揺れていたが、やがて意識を失った。一粒の涙が俺の口元に落ちてきた。とてもしょっぱくて、何とも言えない味だった。
「鼓動が止まっちゃった……」
「ごちそう様でした」
手を合わせて少女の骸にお辞儀をする双子。俺も短めに魔族式の礼をし、手早く少女の心臓をいただいた。
「魔力は回復した。行くぞ。シオンの元へ」
それから俺たちは魔狩人の研究施設を強襲した。てっきり罠や反撃があるかと思ったが、結界が多重に展開されているだけだった。人間どもは逃げるばかりだったので、肩透かしを食った。
結界のせいで幾分か遠回りをさせられ、やっと最奥の研究室に辿り着いた。ちょうど研究員たちが慌てた様子で部屋から出てきて、俺たちと鉢合わせになる。
「ひっ、貴血種……!」
「我らの同胞を返してもらおう」
俺が睨みつけると、男たちは尻餅をつき、這うように部屋の中に戻ろうとした。すかさず双子たちが牙を立てた。俺も露を払う程度の労力でその場にいた人間を惨殺する。こいつらの血など俺は口にしたくない。
「シオン!」
部屋の外での見張りを双子に頼み、俺は研究室に踏み込んだ。ガラスケースの中に変わり果てたシオンの姿があった。
俺は、また間に合わなかったことを悟る。
ケースを粉砕してその身を抱き寄せても、シオンは何の反応も示さない。ぼんやりとした瞳にはまるで生気がなかった。かろうじて体温は残っているものの、彼女の魔力は枯渇している。
もうシオンはここにはいない。元に戻すこともできない。それを痛感した。
「なんてことだ……魂を壊されたか」
町の外に出るとき常に行動を共にしていれば。
兄上や同胞の協力を積極的に求めていれば。
魔力の補充をせずに捨て身でここに来れば。
後悔と悲しみが押し寄せてくる。俺は守るべき者を守れなかった。
いや、これはシオン自身が招いた事態だ。俺が自責の念に囚われることを彼女は望まない。他人の行動によって自分の生死が決定づけられるなど耐えがたい屈辱だろう。
そして、このような姿を晒し続けることも。
双子にはとても見せられない。この状態で町に連れ帰ることなど以ての外だ。
俺はねじ切れそうになる胃の痛みに耐え、剣に手をかけた。
「許せ、我が未来の妃よ。お前とともに戦った百年の時は決して忘れぬ。……安らかに眠れ」
「やめて!」
その瞬間、彼女の体から新しい魔力の胎動を感じた。シオンのものに似て非なる気配に俺は面食らった。
混乱したまま城に連れ帰って話を聞くと、彼女はヴィオン・フロストルと名乗った。
俺が殺した人間――極上の血を持つ少女だった。
訳が分からない。なぜ人間ごときがシオンの体に……。
なんでも死に際の思考が共鳴し合ったことで、同化する現象が起こったらしい。生命の神秘に俺は辟易とした。
今すぐ追い出してやりたいと思ったが、俺は魂を扱う術など知らない。何よりシオンの生存はすでに双子から町の民に広まっているだろう。
民に本当のことを話して、シオンの体もろともこの少女をもう一度殺すべきか?
どれだけ皆が嘆き悲しむだろう。人間への憎しみに駆られ、無茶をしでかす者もいそうだ。
不誠実だが、できることならシオンの死は隠したい。
それに……。
「あなたがひどい男だからよ! やっぱり魔族って最低!」
俺たちの関係を聞いた途端にヴィオンは泣き出し、シオンの気持ちを代弁し始めた。どうやら体にシオンの思念が残留しているらしく、シオンの秘めた感情を告白し、俺の問題行動を詰った。
衝撃的だった。
餌へのキス一つで浮気男扱い……。
兄上は「魅了の口づけなど食事前の挨拶だぜ」と言っていたが、それは魔族にも人間にも一般的な感覚ではないらしい。
何より驚いたのは、シオンが俺のことを好きだったこと。
あり得ない。好きならばなぜあんなにつれない態度ばかりとっていたんだ。
だが、言われてみると思い当たる節がないこともない……。あの暴言は嫉妬によるものだったのか?
くそ、俺のこの数十年の気苦労は何だったんだ!
どうしてこうなった。俺もシオンも間抜けすぎる。
俺たちはもっと言葉を交わすべきだった。恥を捨てて、歩み寄るべきだったのだ。
そうしていたら今頃は……。
心臓がじくりと痛んだ。
俺は改めて正面のソファに座る少女を見つめる。
大粒の涙を流すシオン。いや、シオンならば絶対に見せない表情だ。これは人間の女。だがこの涙は……。
「泣くな。釈然としないが、悪かった」
どちらにせよ、放ってはおけない。
いろいろと腑に落ちないまま、俺は彼女の肩を抱いた。シオンの泣き顔と嗚咽は堪える。とにかく泣き止んでほしい。人間の前で謝罪の言葉を口にするのは初めてだ。
ヴィオンも混乱していた。
無理もない。今まで憎しみの対象だった吸血鬼の体に憑依し、自分を殺した男に慰められているのだ。だが、彼女は俺に負けず劣らず人間の同胞のことも恨んでいるようだった。
短い会話の中でも彼女の人柄は分かった。
感情に流され、冷徹になりきれない弱い女だ。シオンの残留思念に引きずられて泣いているのがその証拠だ。
俺は皆に真実を黙し、このままヴィオンを生かすことに決めた。殺すのはいつでもできる。
それに、ヴィオンがシオンと合せて二人分の涙を流しているのだと思うと、俺も少しばかりほだされてしまった。
魔族の体に人間の記憶と心。
アンバランスな生物になってしまった目の前の少女は、この世界のどこにも行く宛てもない。頼れる者も信じられる者もいない様子だ。
俺以外の誰が彼女の味方をしてやれる?
シオンそのものではないが、全くの他人でもなくなったこの娘を守りたい。シオンへの未練と後悔、そしてヴィオンのいじらしさが決め手だった。
だが、可哀想だからと甘やかして囲うつもりはない。彼女は人間への未練を捨てきれていない。俺たちの脅威になる可能性だってある。
だから選択肢を与えて試すことにした。
俺と結婚して子を産むか、人間と戦うか。
願わくば、人間の心を捨て、彼女には魔族として生き直してほしい。




