Post nubila Phoebus ~ある雨の日~
「──あかんわ」
僕はベッドの上で、そう一人ごちた。
ただでさえ朝に弱いというのに、こうも曇天が陽光を隠してしまっては気持ちがまるで起床しない。
「朝いちからこないに雨に降られたら、かなわんなぁ……」
「そうだね」
背後から聞こえる独り言への返事を無視して、昨日脱ぎ散らしたままの服を手繰り寄せる。
雨のサーサーという音を聞きながら薄暗い部屋にいると、ふと昔のことが不意に思い出された。
まだ、僕が幼いころの記憶。
そういえば、幼い頃の僕は雨の中を歩くのが大好きだったっけ。
雨で出歩く人の少ない町が、傘をさして歩く人々が、まるで別世界のように感じられて心が弾んだものだ。
世界の様相が変わってしまい、そこに取り残されたような既視感。
たびたび夢に見る、『あっちがわ』にとても……とても、よく似た孤独感と違和感。
──そして、形容しがたい奇妙な安心感が雨の町には在った。
そういえば、最近はあの夢もあまり見ていない。
子どものころから何度も繰り返し見る夢。
心象風景の断片。歪んだ世界の歪んだ街並み。
あの場所も、時々静かに小雨が降っていたっけ。
あぁ、本当に。
最近は『あっちがわ』を訪れていない。
夢でありながら現でもある、僕の……僕だけの世界。
バス停のある『黄昏坂』。
老賢人がお茶を淹れてくれる『球体薔薇園』。
暖かな団欒漂う『廃墟団地』。
そして、僕にとっての禁忌と恐怖が沈む──『不帰池』。
人に話せばそれらは夢の話だろうと笑われてしまうだろうが、僕はあの世界以外の夢を見ない。
急にサーッという雨音が耳元に戻ってきて、僕は思考の海から現実へ舞い戻る。
ふと窓から外を見上げると、空がうっすらと明るくなっていた。
雨の空を、しばらくじっと見つめる。
雨は天の恵み。
だけど、天の悲しみでもあり、その慟哭は空から太陽を隠してしまう。
天国で悲しい思いをした人が、悲しくて悲しくて流した涙が――僕らを、心を濡らそうと空から降り注ぐ。
だから、きっと雨の日が億劫になってしまうのだ。
雨に濡れて、心が重くなってしまうから。
こんなにも雨に濡れないための方法がたくさん用意されているのに。
心に降る雨にさす傘は、ない。
……せめて僕だけでも、誰かさんの涙の理由を聞きに外にでてみようかな。
そんな益体ないことを考えながら、僕は手繰り寄せた服をもぞもぞと身に付けてゆく。
着替え終わるころには、雨の日の一人歩きも悪くない……そんな風に思えてきた。
──僕は気分屋なのだ。
しかし……この湿気の中、あまり暑苦しい格好はしたくない。
だからと言って雨の中、シャツ一枚では肌寒い。
以前、衣料量販店で買ってもらった長袖シャツ、どこにしまったっけ?
「どこやったかな?」
「若草色のはタンスの三段目だよ」
そうだそうだ……あったあった。
どこか饒舌な〝独り言〟に助けられた。
肌触りのいいシャツを羽織ると、幾分か春先らしい格好になった。
鏡の前でくるりと回って確認する。
はしゃいでるようで恥ずかしくなって、少しばかり自嘲する。
でも、薄い若草色のシャツが自分に意外と似合うことを知った。
僕を半ば無理やりセールに引っ張っていった友人には感謝しなくてはいけないかもしれない。
今度は僕がコーディネイトしたシャツでもプレゼントするべきだろうか。
……嫌がらせにしかならない。
やめておこう。
普段、特にやることがない僕は、こうしてちょっとしたきっかけで何かをし始める。
大抵の場合はロクでもないことだけど。
でも、今日は雨の日の散歩とシャレこんでみよう。
もし運良く雨があがれば、虹が見れるかもしれないし。
少しご機嫌な気持ちで、僕は玄関に向かう。
「傘は何色にしよかな」
「黒い傘と青い傘があるよ」
じゃあ青い傘にしよう。
濃いブルーに白抜き文字で大きく文字が施されている。
『Cui placet obliviscitur, cui dolet meminit 』
この傘は、親しい友人にもらった特注品だ。
広くて雨の中を歩くには最適だし、乾きやすくて丈夫な素材だから、雨の後も短時間広げておくだけで済む。
ズボラな僕に合わせたチョイスだといえるだろう。
書かれている言葉は……何語だろうか?
とにかくコレを渡すとき、「キミにピッタリな言葉を選んだよ」と言われた。
今の今まで使ったことがなかったし、興味もなかったので、いまだに意味を調べていないけど。
でも……この鮮やかな青!
とてもきれいだ。
今まで気にも留めていなかったのに、なんだかいっぺんに気に入ってしまった。
靴はどうしようかと玄関を見渡して、ふと『それ』に気付く。
……下駄箱の横に積まれた薄く埃が積もった真新しい箱。
そういえば、レインブーツなる靴があったのだった。
今しがた箱を見つけるまで、すっかり忘れていたけど。
傘を受け取ったあの日、ほぼ強制的に近くの靴専門店に連れて行かれ、『お出かけ記念』と称してプレゼントされたものの、今の今までなかなか履く機会に恵まれずに箱に収まったまま。
……早い話が、長靴なんだろう? これは。
いま履いておかないと、もう二度と履けない様な気がする。
こんな状況を見越して、買い物に連れて行ってくれたのだろうか?
そうだとすれば彼の〝病気〟は悪化しているに違いない。
僕の大切で、物知りで、なんでもお見通しの愛しい友人。
きっと君ったら、僕が一人で雨の中を歩く夢をみたんだろう?
まったく……どうせならキミと一緒に歩きたかったな。
相合傘でもしてさ。
君の涙が空から僕に降り注がないように、せめて祈るとしよう。
「ほな……出かけよかな。どこいこかなぁ。せやなぁ……『Cafe:Lupus in fabula』にでも行こか」
「そうだね カギわすれないでね」
そうだった。
カギ、どこにやったっけ。
あんまり家から出ないものだから、外出のときにカギをいつも探すハメになる。
「どこやったっけ……」
「洗濯機の中にあるよ 黒のジーンズの右ポッケ」
そうだった。
以前出かけて、そのままポケットに入れっぱなしで洗濯機に放り込んだ気がする。
カギをキーケースに入れるか、何かストラップでもつければいい毎回思うのだけど、結局毎回面倒がって裸のままカギをポケットに放り込んでしまうのは悪い癖だ。
とにもかくにも洗濯機を回す前でよかった。
雨天様々?
◇
外はしとしととゆっくりとした雨が降っていて、風はあんまり吹いてない。
空気はすこしひんやり。
もう五月だと言うのにね。
傘に水滴があたるパタパタという音を聞くと、有名なアニメ映画を思い出してしまう。
僕ならあんな巨大でハッキリした輪郭の物の怪には出会いたくないなぁ……なんて可愛げのない感想がでてしまうのは、職業柄仕方がないかもしれない。
僕の仕事は、そういったものに関わることが多いから。
やめよう。
せっかくのお出かけだし……仕事のことを考えるのはよくない。
昼前の雲に遮られた陽光は薄ぼんやりしているけど明るくて、冷えた空気の中でもじんわりと暖かさを届けてくれる。
春は、春なんだなぁ……なんて感慨をもちながら、僕はゆっくりと西に向かって坂を下っていく。
初めて履いたレインブーツは驚くほど僕の足にピッタリとフィットして、軽い。
なるほど、長靴とは一線を画した靴かもしれない。
昔はいたことがある長靴は、とにかく重くて大きかった。
色もかわいくなかったし。
「雨、今日にはあがるんかなぁ? そろそろ洗濯せんとえらいことになりそうやけど」
「明日は晴れって、テレビでいってたよ」
それは助かる。
テレビの言うことなんて信じないけど、天気予報は信じることにしているんだ、僕は。
しばらく歩くと、新しくできた第二京阪道路が見えてくる。
付近の歩道もきれいに整備されたけど、雨のせいかやっぱり誰も歩いていない。
今日はこっちの新しい道を通っていこう。
方向音痴だけど、地元で迷うほどじゃあないし。
……たぶん。
新しい歩道は目の細かい黄土色のアスファルトで舗装されていて、水はけがいいらしく水溜りがない。
折角のレインブーツだが、水溜りの中を横断する機会はなさそう。
ゆるやかな坂を下りきり、国道170号線を横断したその先にある小さな路地、その突き当りに目的の店はある。
――『Cafe;Lupus in fabula』。
小さく構えた看板。
普通は見落としそうな店。
僕の数少ないプライベートな外出先。
金属製のしゃれたドアノブを回し、ドアを押すとカランコロンとドアベルの音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
丸いレンズのサングラスをかけたマスターがニコリとほほえんで、僕をカウンターの席に手で促す。
僕は水滴を払った傘をこれまたオシャレな傘立てに置いて、促されるままにカウンターの一席に座る。
程よく薄暗い店内、ゆったりした配置のテーブル、椅子。木製の磨かれたカウンター。
どれもこれもが落ち着き払った雰囲気をかもし出していて心が安らぐ。
ちらりと見渡した店内に客はいない。
つまり、お客は僕一人っきり。
カウンターに用意された落ち着いた色合いのランチョンマットも、まるであつらえたように一人分だけ。
「もしかして……僕のこと待ってたん?」
「当店はいつだってお客様を待っておりますよ?」
「さよか。コーヒー。ホットで」
ここのマスターは「ミルクはどうなさいますか?」とか「砂糖はおいくつですか?」などとか聞いてくれない。
ブラック以外のコーヒーは出してくれないのだ。
柔らかい物腰とはうって変わって、コーヒーに関しては頑固一徹。
……僕はブラックしか飲まないからいいけど。
「今日は雨なので商売あがったりですよ」
カップとソーサーを準備しながらお湯を沸かし始めるマスター。
「そら、雨降ってて寒かったら誰も外でたないやろ」
そう言って、僕は自分のマイノリティーさをアピールしてみた。
こういうあざといところも僕の良さだ、と彼も言っていたし。
「雨だからこそのお客様も、いるんですけどね」
……軽く流されてしまった。
「そういえば、今日はどうして雨の日にわざわざ? 珍しいですね。」
「いや、逆に雨降ってたから外出たろ思て。気がついたら使ってない雨具があってん。ちょっと使うてみたろって思い立って、雨の日の散歩決行や」
あはは、と乾いた笑いを漏らす僕はもしかすると少し痛々しかったかもしれない。
「いい色のレインブーツですね」
「人にもろた物や。履くんも今日初めてやねん、実は」
僕につられたように、マスターが柔和な笑みを浮かべる。
「いい、センスをしていらっしゃるんですね……その方は。よくお似合いですよ」
「くれた本人は連絡すらとれへんけどな。礼もなかなか言われへんわ」
「それは、お寂しいでしょう。……さぁ、コーヒーをどうぞ。今日のは少し酸味を強くしてみました」
寂しい。
そんな感情、あったっけ。いや、あるんだろう。
でも、耐える事にも、諦めることにもずいぶん慣れてしまった。
――孤独でいる事にも。
ふと湧いた不安のような感情を振り払うように、目の前の芳醇な香りと湯気を立ち上らせるカップに口をつける。
マスターの腕はとても確かで、ちょっとピリリとした酸味が口に広がる。
雨の陰鬱としたイメージを払拭してくれるさわやかな後味。
「そろそろ、ですね」
僕がコーヒーをすっかり飲み終えたころ、マスターが扉を見やる。
「なん? 誰か来はるん?」
僕が顔を向けると同時にドアベルの音がした。
「こんにちは、お待ちしておりました。お連れ様が待ちくたびれてしまったようですよ?」
入ってきた客に、マスターが苦笑いをもらす。
「そうかい? これでピッタリのタイミングだと俺は思ったんだがね」
……と、そいつは僕の隣の席にドサっと腰掛けた。
短くぼさぼさの黒髪、ガッシリした肩、切れ長の目。
とても見覚えのある奴だ。
「よう、久しぶり。一年ぶりくらいか? 似合ってるじゃないか、そのシャツ。よしよし、靴もピッタリだったな。合わせないで買ったからちゃんとサイズが合ってるか不安だったんだよな」
「……」
彼はニヤリと笑って、うろたえて涙ぐむ僕の頭をそっとなでる。
僕の友人。とても大切な。
愛しい、僕の……そう、友人だ。
それ以外の関係ではありえないし、あってはいけない。
「ヨウスケ! なん……なんや? なんでここにおるん?!」
「何だ、お前が呼んだんじゃないのかよ?」
「んなアホなことあるか! 僕は雨の散歩ついでにコーヒーを飲みに来ただけや」
意味がわからない。
マスターの苦笑が、いつのまにか微笑みに変わっていた。
「まあ、落ち着け。知らずにこの店にいるなんて、お前らしいっつーか、流石と言うか」
「どういうことや?」
マスターが僕達にコーヒーを差し出す。
「さぁ、どうぞ。今日は少し酸味を強くしてみましたよ」
「ありがとうマスター。ん……モカとキリマンジャロ半々、だろ?」
「正解。ヨウスケさんの舌は健在ですね」
マスターと笑いあう彼に、僕は少し腹を立てていた。
「……質問に、答えてもらおか。どういうことや?」
「怒るなよ。折角のコーヒーが味気なくなる。……マスター、いいかい?」
うなずくマスターを見て、コーヒーを一口含んだヨウスケが、僕に向き直る。
「ここ……『Cafe;Lupus in fabula』はな、人と人が再会する場所なんだよ」
「……まさか……」
「おう、そうとも。ここも超常特異点ってワケだ」
そうだった。
僕は怪奇と怪異を知らず知らずに引き当て、引き寄せる人間だった。
まさか行きつけの喫茶店迄そうだったとは知らなかったけど。
◇
ヨウスケといろいろなことを話した。
こんなに色んなことを、長く話していたのは何ヶ月ぶりだろうか。
僕は、嬉しかった。本当に純粋に嬉しかったのだ。
服を褒めてもらえて、うれしかった。
頭を撫でてもらえて、うれしかった。
皿を拭くマスターの目をそっと盗んで、頬にキスをしてくれたのもうれしかった。
長い時間を 過ごした。
ヨウスケはいつもどおり優しくて、すこし寂しそうだった。
僕はただただ、うれしさにまかせて今までの事を語り、聞きたかったことを訊ねた。
そして、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
朝と同じように細い雨の音で目を覚ますと、そこにヨウスケの姿はなく、彼が座っていた椅子には小さな箱と紙袋が残されていた。
「あれ……ヨウスケは? どこいったん?」
「少し前にお帰りになられました。お仕事を残しているそうで。……あなたにこれを、と」
マスターが桜色の封筒を僕の前にそっと置く。
中には封筒と同じ桜色に、かわらしいウサギのステンシルが施さた便箋が入っていた。
『気恥ずかしいので手紙を残しておく。
去年渡せなかったクリスマスプレゼントと、
ホワイトデーのプレゼントだ。
気に入ってもらえるといいんだが。
次のお前の誕生日までにまた会いに来る。
陽輔 』
無骨な──ヨウスケの字で綴られた手紙。
涙が、止まらなかった。
嬉しくて。
悲しくて。
寂しくて。
悔しくて。
起こしてくれればよかったのに!
まだいてほしいと駄々をこねて、次はいつ会えるんだと問い詰めて、約束させて、ハグをしてから送り出したかったのに!
……黙って行ってしまうなんて。
こんなセンチメンタルな部分が僕にあるなんて。まだ残っているのなんて。
またしても僕は、彼に人間としての『僕』を確認させられてしまった。
そんな風に引っ掻き回すなら、一緒に居てくれればいいのに。
なのに、静かな店内には小さな雨音だけが響く。
彼の残り香を掻き消すようにして。
「マスター、お勘定」
「もういただいております。またご来店をお待ちしております」
にこりと微笑うマスターは、なんだか満足そうだ。
「マスターが、仕込んだん?」
「いいえ、あなたが想い、あなたが望み、この店がそれに応えたんです」
「さよ、か」
僕は一人納得して、「ごっそさん」とマスターに伝えて扉を開ける。
雨が降っていたはずの扉の外は、きれいな茜色に染まっていた。
僕は雨上がりのキラキラと輝く道を、来たときと同じように歩く。
行きも帰りも、結局一人だ。
「雨、上がってもうたなぁ」
「そうだねぇ」
「ちょっと残念やわ」
「どうして?」
お気に入りの傘がさせないからだよ。
心の中でそう答えて、家路を行く。
雨上がりの風がふわりとふきぬけ、僕の髪を揺らした。
プレゼントの中身はなんだろうか?
家に帰って、ゆっくり深呼吸して……それから開けよう。
きっと中には僕の喜ぶものが入ってるに違いない。
彼が僕のために選んだのだから。
だから帰って、いつものように日記をつけよう。
今日の雨の日のことを忘れないように。
そしてこんな風に締めくくるのだ。
――こんな雨の日も悪くない。