第三十八話 夢の終わり
シラノは眼下に広がる巨大な帝国帝都を見下ろしていた。空高くに浮いているシラノは、着実に魔術の準備を始めながら、同じくシラノの斜め後方に浮いて控えているカノンに話しかける。
「さて、帝国のどこに妖虫が潜んでいるかも分からないからな。取りあえず帝都そのものを滅ぼすぞ」
「かしこまりました」
シラノの宣言に、まるで当然の事のように恭しく一礼するカノン。彼女にとって、もはや人の命の重みなどまるで感じていないのだろう。
魔術の準備が完了したシラノは、それを魔法陣のように頭上に展開した。濁った七色に鈍く輝くその巨大な幾何学模様の集合に、帝都に住む地上の人々はそれぞれ手を止め頭上を見上げていた。
不安を感じている者、神が降臨したと歓喜する者、何が起きているか分からずに混乱する者、内心は人それぞれ違っていたが、皆一様に呆然と空を見上げていた。
「さて、我が名において命ずる。起きろ、アブホース」
その言葉と同時に、帝都全域に異変が起こった。最初は帝都の中央にある大きな広場、その中心から灰色がかったこの世の『不浄の源』のようであり、液体とも個体とも言えぬ、見ているだけで胃の底から吐き気が押し上げてくるほどおぞましいなにかがにじみ出てきた。
それは、シラノがアードラース辺境伯に就任した後、騎士とともに自身の領地へ向かう途中にゴブリンの大群と遭遇した際に、それを討伐するために用いたものだった。
それ沼は気が付けば倍以上の大きさに広がっており、その爆発的な広がりですぐさまその広場全てを飲み込んだ。
そこからはまるで分身を生み出すように、様々な異形のものが這い出ようとして、同じように生える手足が自身に引きずり戻していった。
だが、その手足から逃れることに成功した一体の異形がいた。それはまるで時間を加速するように成長していき、数秒でその小さな異形は巨大なものになり果てた。
それはもはやアブホースからは完全に独立した一つの宇宙的な生命と化しており、巨大な咆哮を上げ人々を喰らい始める。
帝都の中心は地獄絵図と化していた。アブホースの落とし子と言えるその異形は、人を捕食する度にその大きさを少しずつ増していき、移動速度も最初は亀にも劣る程度のものだったが、今や人の歩行速度で移動している。
その体からは無数の触手が伸びており、帝都を守ろうと必死に戦おうとする兵士や、それを討伐しようと勇敢にも立ち上がった冒険者と呼ばれるもの達を、その努力をあざ笑うかのように捕らえ自身の体に引きずり込んでいく。
剣で攻撃しようにも液体のようにその体に沈み込みそのまま体に取り込まれ、魔術や弓で攻撃しようとも、当たった瞬間に吸収されてしまう。
立ち向かっていた人々もその余りの不死身さに、徐々に武器を棄て逃げ始めた。
そして、そんな彼らを追い打ちするように、アブホースから生み出される落とし子は数を増やしており、アブホース自身も植物や建物を飲み込みながら肥大化していく。
「おいおい、こりゃなんだ!?」
「気持ち悪い……」
そこに、帝国勇者である蓮と恵美が現れた。彼らはみたこともないその不浄の沼を見て呆然としていた。
しかし、彼らは直ぐに気持ちを奮い起こし立ち向かった。
脳を虫に犯されている彼らは、この程度で戦闘が出来なくなくなることはない。彼らは自身の意思で動いていることを疑わないが、彼らの意思は実質虫が操作しているのだから、戦闘に支障を来すような精神の脆弱性を残されていなかった。
だが、彼らのいかなる攻撃も、アブホースの落とし子には聞かなかった。蓮は神速とも言える速度で切り刻み、恵美は自身の知るあらゆる魔術を試したが、そのどれもが落とし子に吸収され、ダメージを負った様子がまるでなく、むしろそれらを吸収したことにより、移動速度が多少に早くなっているようにも見える。
蓮も恵美も後退しながらの攻撃を余儀なくされており、その上落とし子の数はすでに十を超え彼らを囲むように迫ってくる。
「くそ! 一旦引くぞ!」
「分かってます。もう魔力も半分ほど使ってますし、これ以上は私たちが危険です」
彼らは攻撃の手を止め、そのまま撤退に切り替えた。そして、地面を強く蹴ろうと瞬間、体を突き上げるような自身が彼らを襲った。
地面がひび割れ、あちこちから水が噴き出す。
その上空では、シラノの横でカノンが魔術を展開していた。彼女の周囲をいくつもの歪な魔法陣が囲んでおり、その歪み方は海底都市ルルイエを思わせるようなものだった。
「シラノ様のお手を煩わすことはございません。この程度の掃除は私にお任せください」
「ふむ、確かにいい機会かもしれないな。いいだろう、やってみたまえ」
シラノの了承を得ると、カノンは魔術を調整し、その吹き出す水の量を増大させる。その水はあっという間に帝都全域に渡って広がり、城壁内の全ての建物が浸水した。
アブホースやその落としから逃げ惑う人々は、膝まである水に足を取られ転んだ子供や老人を踏み潰していく。
そして、彼らの悲劇はまだ終わらない。
帝都全域に広がったその水のあちこちから、深きもの達が召還され始めたのだ。
深きもの達はアブホースとその落とし子達を避けるようにして帝都を駆けめぐり、生き残りなど残さずに殺し尽くしていく。
帝都の人々をほとんど殺し尽くした時点で、シラノは違和感に気づいた。カノンの魂が全く強化されていないことに。
シラノはその虐殺をまるで演劇をみる気分で眺めていたため、カノンにまで意識が回っていなかったのだ。これは、カノンに対する多少の信頼の証でもあり、彼女のことを自身より圧倒的な下等生物としてしか認識していない証でもある。
そして、シラノですら寒気がするほどおぞましい太鼓とフルートの音色が彼の耳に届くと、彼はカノンに虐殺を中止するように言った。
「カノン、中止したまえッ!」
「……ッ!?」
カノンは今までに聞いたことのない程焦燥しているシラノの声を聞き、深きもの達にやめるように命令した。
だが、すでに分水嶺とも言える地点は過ぎていたのだ。
太鼓とフルートの音色は徐々に大きくなると同時に、カノンは自身の力とは比べるのもおこがましいほどの大いなる力の波動が、帝都の中心にそびえ立つ城の頂点から吹き荒れるのを感じた。
そして、その音の大きさが最高潮に達したとカノンは感じたが、徐々にその音は小さくなっていく。それと同時に耳を劈く悲鳴にも似た音が響き世界に亀裂が入った。
「シ、シラノ様……?」
「この愉快な夢も終わるのか」
カノンがその異様な自体にシラノの方に振り返ると、彼はいつものような軽薄な笑みは浮かべておらず、すべてを諦観したような失望にも似た表情をしていた。
亀裂は罅となって、世界全てに広がっていく。その罅はカノンをも飲み込むようにして広がり、唯一シラノだけは世界から浮かび上がっているように罅が入っていなかった。
そして、太鼓とフルートの音が止む。それと同時にガラスが砕けるようにして世界はあっさりと砕け散った。




