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第三十三話 勇者の懇願

「勇者が脱走?」

「はい。昨晩帝都の城壁を飛び越え、国境へ向けて走り去るのを目撃しました」


 シラノは自室にて早朝からカノンの報告を受けていた。彼女の話によると、昨晩勇者の一人がもの凄い形相で脱兎のごとく帝都を離脱し、国境――つまりはアードラース領へ向けて走ってきているとのことだった。

 その報告に、シラノは首を傾げる。


「ふむ、既に勇者は全員妖虫に犯されていると思ったのだが……案外アレも手ぬるいな」

「どうしましょうか」


 指示を仰ぐカノンに、シラノは少しだけ目を閉じ思考を巡らせると、薄気味悪い笑みを浮かべた。


「悪い顔をしてますね」


 カノンはそのシラノの顔がユリアを始末するように言ったときの表情を重なって見え、思わずジト目になる。


「おや、そんなつもりはなかったのだが……。カノン、少し聞くが、私が政務の合間の息抜きに外出した先で、国外逃亡している勇者と遭遇したとしても、それは仕方がないとは思わないかね?」


 カノンはシラノの言わんとしていることを直ぐに理解し、仕方がないと肩を竦めながら答えた。


「……なるほど。確かにそれは仕方がないですね。そしてこれは私の勝手な憶測ですが、その勇者の走力を考えるとおよそ三時間後に国境付近に向かえば勇者には遭遇しない(・・・)と考えています」


 カノンはそれでもシラノの従者であり、信仰にも似たものをシラノに対して持っている。格は違うがシラノと同じモノになった今の彼女は、仕方がないと思いつつもそれを否定することを決してなかった。それ故に、わざと間違った予想をシラノに告げ、彼女は対外的には偶然だったという体を整えた。


「そうか、では三時間後に国境付近へ着くように早速馬車を準備しよう。一領主が他国の勇者に遭遇などしたら、外交問題に発展しかねないからな」

「はい、ではその様に手配致します」


 そんな茶番につき合った彼女は、シラノの乗る馬車と護衛の騎士を準備するために部屋を後にする。それを見届けたシラノは、先ほどと同じ思考を繰り返す。


(あの幼虫が、たかが齢十数歳の少年少女相手に遅れを取った……? なくはないが、可能性としては限りなく低そうだ。となると、あの這い寄る混沌が動いたか?)


 彼は出発の時間まで、楽しそうに口元を歪めながら思考を巡らせていた。

 数十分後、準備をしいているカノンの代わりにシラノを呼びに来ていた城のメイドが、その光景を目撃し表情を引き攣らせていた。




 達也は憔悴しきっていた。勇者の恩恵による強靭な肉体と魔術を一晩中酷使し続けながら全力疾走していたからである。何かが追ってきている様子はないが、彼はいつ背後から襲われるかも分からない恐怖で寝ることは愚か、休憩すらまともに出来なかったのである。

 少しでも遠くへと逃れたい。その一心で平原を走り続けていた達也は、道中の障害となりうるものを見境なく排除していた。


「邪魔だッ!」


 立ちふさがるオーガやゴブリンの頭部を殴り飛ばし、達也が返り血にまみれながらひたすら走り続けると、地平線の辺りに数台の馬車が停車しているのが彼の視界に入ってきた。その馬車には豪華絢爛な装飾が施されており、上流階級どころか、下手をすれば王族のものだと勘違いしてしまいそうになる程のものだった。

 だが、勇者として敵国の事を学ばされていた彼には、そこに刻まれている紋章が王家のものではなないことが分かった。しかし、彼はその紋章自体に見覚えがなかった。彼が記憶しているアーデルハイト王国のどの貴族の紋章とも一致しない。

 その紋章は不定形な模様をしており、見方によっては渦巻いているようにも、ねじ曲がっているようにも見える。混沌としたその模様は、達也の疑心暗鬼をさらに煽った。

 達也は自身の出来る限りの魔力を練り上げ、それをさらに外側から隠蔽する魔術で隠し馬車へと近づいていく。

 そこには多くの騎士が立ち並び、その中心では平原には場違いなほど豪華なイスに腰掛けながら紅茶を飲む、端々がボロボロのローブを着込んだ胡散臭い男がいた。

 その男――シラノは飲み終えたカップをそばに控えていたカノンに渡し、達也の方に向き直った。


「おや、これは思ったよりも遅かったな。足の十本生えた奇妙な虫に求愛行動でもされていたのか?」

「ッ!?」


 彼はシラノの言葉に反応して攻撃態勢に入った。彼はシラノの小馬鹿にしたような冗談に反応したのではなく、足の十本生えた奇妙な虫という言葉に反応し反射的に構えてしまった。


「なんで知ってる……というよりお前は誰だ!」

「ふむ、最近の無軌道な若者は礼儀というのがなっていないな……これも時代というものか。私はシラノ・アードラースという。それで君の名前は何というのかね?」

「達也……北川達也だ」

「そうか、では達也。君に聞きたいのだが、一体西暦何年の日本から来たのか教えてはくれないか?」


 そのシラノの問いに、達也は声が出せなくなるほど驚愕し唖然とした。彼は口を開いたり閉じたりしていたが、一度自分で深呼吸をすると落ち着きを取り戻したのか、シラノの質問に答えた。


「二〇一六年だ。それで、あのわけわかんねえ虫の事とか、日本の事とか、あんた一体何者なんだ?」

「何者なのか……これはまた難しい質問が来たな。私自身、自分の存在をはっきりと言葉にはし辛いのだ。『征服者』『夢からの追放者』『外なるもの』『世界最強の魔術師』。様々名で呼ばれてきた私だが……そうだな。その年代は恐らくまだ私がギリギリ人間の範疇に含めてよい領域にいた頃だろう」


 シラノは達也の言葉と自身の言葉を噛みしめるようにゆっくりと遠回しに語った。

 その様子を側から見ていたカノンには、シラノがその会話自体を楽しんでいるのだと察したが、シラノは一貫して軽薄な笑みを浮かべており、その内心が初対面の人間である達也に察せるはずもなかった。


「あんたのいいかたじゃ、まるで今は人間じゃないみたいだな」


 達也はシラノのその口調に苛立った様子で先を促した。


「まあ、既に人間ではないだろう。そもそも、夢の内で意識を自覚する存在を生物だと定義するのであれば、私は生物として定義して良いかすら危うい」

「一体何の話をしている……」

「まあこれは君に言っても詮無きことだがね。さて、君が知りたいのは恐らく、私が元々日本に住んでいたという事と、この世界には(・・・・・・・)自分の意志で来たということだろう」

「自分で来ただと……」


 平和な日本の科学に常に触れていた達也はシラノの言葉を信じられず、かといってこの世界の魔術を目の当たりにし実際に使用しているため、彼は否定出来なかった。


「ああ、君達の様な日に照らされながら生涯を歩む人間は知らないだろうが、あの世界にも魔術というのは存在するのだよ」

「なら俺を元の世界に戻してくれ!」


 達也は土下座する勢いでシラノに頼み込んだ。


「それは出来ない。そもそも、ここは単純な時間軸で語るなら君のいた時間より遙か未来だ。そして、私は時間跳躍は出来ないのだよ。私の専門は一応魂や世界そのものに関する魔術でね。時間制御は、私が完全に支配しきれなかった数少ない魔術の一つなのだよ」


 シラノは達也の頼みを断った。時間停止や時間感覚の遅延程度ならシラノにも使えるが、時間の逆行というのは世界を取り込んだ彼でも出来ぬ偉業だったのだ。それ故に、時間を支配した偉大なるイスの種族を尊んでいるのだ。


「あんた……あの奇妙な虫のことを知ってたよな。俺の仲間があいつ等に支配されてるんだ。助けられないか……?」

「それも厳密に言ってしまえば出来ない。あれはシャッガイからの昆虫といってね、人の頭部にもぐり込み脳に直接影響を与え記憶や思想を書き換える。私が魔術で人格を形成し、直接脳に書き込めば元の人格は再現出来るかもしれないが、もうそれは既に別人だ。どちらにしろ、以前の君の仲間は死んだものと思った方がいい」


 仲間は死んだのだと無慈悲に告げられた達也は、全身が一気に脱力し膝を着いた。だが、彼はシラノのあるシラノの発言に気づき勢いよく顔を上げた。


「なあ、さっき時間制御は完全には出来ないって言ってたよな」


 震える声で、達也はシラノの発言を確認した。


「ああ、確かに私はそう言った」

「なら、多少なら出来るって事だよな」

「基本的な理論は頭に入っているが、あれは理論を知っているからどうこうという代物ではないのだよ。パラドックス一つとっても、人の身では耐えられぬほどの膨大な処理をしなければならない」

「それを僕に教えて欲しい。いや、教えてください」


 そう頼み込む達也のその瞳の奥に、僅かな狂気が芽吹いたのを見抜いたシラノは、その申し出を快く請け負った。


「ああ、いいとも。その代わりに、君の可能性を私に見せてくれ」


 シラノはいつもより上機嫌に口端をつり上げ笑った。

 達也の可能性に期待して――。


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