第十話 奴隷から人へ
シラノは少女を担ぎ前領主の部屋へと向かうと、暗示など掛けずに今度こそ普通にベッドへと寝かせた。彼は気絶し倒れていた騎士達を魔術ですべて治療し、勝てなくてもいいからせめて善戦出来るくらいには鍛えろと一般兵に伝言を残して訓練場にそのまま放置してきた。
寝ているのか死んでいるのか分からないほど静かな少女を横目に、彼は彼女が起きるまで読書をしながら待つことにした。
「まあ、混乱して暴れられても困るからな」
シラノは誰に言い訳するでもなくそう呟くと、何もないはずの空中に手を差し込んだ。差し込まれた場所には小さな魔法陣が浮かび上がっており、彼はそこから一冊の本を取りだした。
それはカビが生えてきそうな程古くさい表装の本だった。エメラルド陶片というその本は、錬金術に関する短い記述が乱雑に書き込まれている。
しばらくシラノはその本を興味深そうに読みふけっていたが、ベッドで寝ている少女が小さく寝言のように声を上げたことで中断する。その本は先ほどのように何もない空間に差し込むようにしてしまった。
彼が少女に目を向けると、彼女が丁度体を起こしたところだった。彼女は眠気が取れないのか右手で目を擦ろうとして、そこにあるはずの右手が異形の触腕になっていることに気が付き素っ頓狂な声をあげる。
「へあっ!?」
「もう起きたのかね。思ったよりは早かったな」
シラノはその少女の様子など気にも止めず、椅子から立ち上がり彼女のそばまで来る。
「えっと……あの……ご主人様?」
生まれてからの奴隷生活で染み着いたのか、少女はシラノのことを主と呼ぶ。実際彼女を引き取ったのはシラノなのだから間違ってはいないのだが、彼はそれを否定する。
「何を言っている。もしかしてまだ寝ぼけているわけじゃないだろう。今の君の体はそれほどやわではないはずだ。そして君はすでに奴隷ではない。首もとを確認したまえ」
シラノにそう言われ、少女は自身の首もとに左手で触れる。そこには、生まれてからずっと付けていた奴隷の証である首輪が存在していなかった。
「……え?」
少女は首回りを確認するように何度も触る。
「君はかのルルイエまで行きクトゥルフと一種の契約を果たしたのだ。喜びたまえ、今の君はもはや人の範疇にはなく、常人では傷つけることすら出来はしない。今日から君は支配される側から、支配する側へと回ったのだ」
少女はしばらく彼の言葉が理解できなかった。それも当然だろう。彼女の16年の生は地獄のようなものだったのだ。人としての生活など許されず、時には食事の代わりに糞尿を食すことを強要されたことのある彼女は、解放されてもその事実が信じられなかった。
彼女は視線をゆっくりと自身の触腕へと移す。肩口から生える四本の触腕。彼女の身長よりも長いそれは、今はベッドからはみ出し床に垂れている。
「ああ、その腕が気になるのか? それは君の意志一つで元の腕のように変化させることも可能なはずだ。別段問題はあるまい」
怪物の腕を呆然と見ている少女にシラノはそう助言すると、少女の触腕は徐々に短くなっていき、左腕と同じ長さになったところで四本のそれらが収束し人の腕へと変化した。
少女は余りの出来事にしばらく手を握ったり開いたり、その手で首もとをさわりながら呆然としていたが、その事実が理解できたのかその瞳から涙がこぼれる。
「あ……あはは。そっか、私……もう奴隷じゃなくなったんだ。もうあんな思いはしなくっていいんだ……」
少女は泣きながら笑っていた。その様子を、シラノは優しげに笑いながら見守っている。
それからしばらくすると少女も落ち着きを取り戻した。彼女はベッドの上でシラノに向き直り、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「ふむ、何に対してかは分からぬが、その礼は受け取っておこう」
シラノのとぼけた様子に、少女はくすりと笑った。その笑顔は多少ひきつっていたが、彼女は生まれて初めて心からの笑顔を見せた。
「さて、君はこれからどうするかね?」
「どうするか……ですか?」
「そう、これからのことだ。君はもはや自由の身で、この世界で君に害をなすことが出来る存在など、私か神格を持つ存在くらいだろう。そんな君にはいくつもの選択肢がある。今まで自分を見下し、暴虐の限りを尽くしてきた過去の主人に対して復讐するもよし。このままただの人間としてひっそりと暮らしていくのもいいかもしれない」
シラノは少女にいくつかの選択肢を提示した。彼は人の意志の強さという興味深いものを見せてくれた彼女に、可能な限り便宜を図ってやるつもりでいた。しかし、しばらく考え込んでいた少女が出した結論は彼にとって意外なものだった。
「私を貴方に仕えさせては頂けませんか?」
「……なに?」
全く予想だにしない返答に、シラノは少し訝しむ。
「正直、復讐してやりたいという気持ちが無いわけではありません。しかし、私は先ほど騎士達と戦ったことを覚えています。あれほどの力が私にあるのなら、小手先でどうにか出来てしまう相手に復讐をしたところで虚しいだけの気がするんです」
それはシラノにも理解出来る感情だった。魂を取り込む秘術を身につけたその日から、今まで切磋琢磨しつぶし合ってきた他の魔術師達が、虫けら同然にしか見えなくなったことが彼にもあるからだ。
「なるほど、確かに君ほどのもが、有象無象相手に躍起になって復讐しても仕方ないだろう。しかし、私に仕えたいというのは?」
「それは貴方が私の恩人だからです」
「ふむ。まあ私は構わんが、君はいいのか? 折角自由になれたのに、自分を縛るようなことをして」
「私には自由な生き方というものが分かりません。ですから、貴方の元でそれを学びたい。先ほど私を止めることが出来るとおっしゃった。それに、あんなことが出来る位です。ならば貴方は、私では想像もつかない程の強者なのでしょう。ですから、貴方の元がいいのです。その生き方を参考にしたい」
「一理あるか。私の生き方はあまり参考にしない方がいいのだろうが……君がそう思うなら好きにすればいい。元々、私もこれからの君の生き方を止めようとは思っていない」
「はい。ありがとうございます」
少女はそういって、もう一度深々と頭を下げた。
シラノは机の上に置いてあったベルを鳴らす。すると、この屋敷で雇用されているメイドの一人がノックをし入室してくる。
「この子を私の専属メイドとして雇う。私が直接雇用する形になるが、まずは一人前のメイドといて鍛えてくれたまえ。期間は一ヶ月ほどもあればいいだろう」
「かしこまりました」
「まあ、まずは風呂にでも入れて綺麗にしてやれ。それと……」
彼の手元一瞬黄金に輝いたかと思うと、彼の手元には三つの小さなプラスティック容器が握られていた。
それは以前の世界の先進国では誰もが日常的に使っていた、ボディーソープにシャンプー、それにリンスだった。
その現実感のない光景に、メイドの女性は目を丸くする。
「体を洗うにはこれを、髪を洗うときはこれ、洗った後はこれを使ってやってほしい。裏にある説明を読めるようにしておいた。使い方は裏面をみたまえ」
さすがはプロと言うべきか、驚いていたメイドの女性はすぐにまじめな表情を取り繕い、シラノの命に従って少女を連れたって部屋を出てく。部屋を出て行くとき、少女は顔を赤くしながら体の臭いを確かめていた。
彼が椅子に座り窓の外を見上げると、空は僅かに暗くなりつつあった。
「さてと、私もそろそろ領主らしい仕事に着手しなければな。まずはこの地の現状を把握するところから始めようか」
報告書を上げさせるため、彼はベルを鳴らして人を呼んだ。




