第九話 奴隷の意志(下)
奴隷の少女は気がつくと、水の中に沈んでいた。体に力が入らず、ゆっくりと海底へ向けて落ちていく。
(ああ、私は死ぬのか……)
彼女は何となくそう理解した。沈んでいくうちに、光すら届かなくなっていく。肌に感じる刺すような冷たさすら、今の彼女には心地よく感じていた。
(そういえば、どうしてこんなことになったんだっけ?)
彼女は生まれながらの奴隷、それも両親ともに奴隷という血統書付きだ。
あまりいい趣味とは言われないが、奴隷同士を交配させて奴隷商に売りつけるという貴族の遊びがこの世界には存在する。赤子の奴隷は売れないし、売れるようになるまで育てても貧弱だったり、容姿が醜かったりすることも多いため、商売としては成り立たないのだ。しかし、美しい容姿の女奴隷や、体の頑丈な男奴隷が生まれればかなり儲かることもあるため、ギャンブル感覚で手を出す貴族も多い。
その結果生まれたのが彼女であり、美しい顔の奴隷を殴るのが趣味という変態貴族に買われたのが彼女の不運の始まりだった。
そこからは誰でも容易に想像出来よう。飽きを感じ変態貴族はすぐさま二束三文で奴隷商に売り払われ、値を下げながらあちこち転々と売買された。最終的に任された仕事でミスをし、殴り殺されそうになっていたところをシラノに拾われたのだ。
(そうだ、私はどこかの貴族の人に拾われて……)
――さあ、とりたまえ。この幻想を、本物に変えるのは君だ。
彼女はいつの間にか体が地についているのに気がついた。体を起こすと、そこは未だに暗闇だった。しかし、彼女は地に足が着いているのをはっきりと感じていた。
(ここは一体……?)
少しずつ目が慣れていき、彼女は周囲の状況が徐々に見えてくる。
彼女はそこが都市なのだと理解は出来たが、都市と言うには余りに異常な場所だった。そこにある建物はすべて非ユークリッド幾何学的な外見をしており、見ているだけで視界が揺れているように錯覚するほど歪な形をしていた。
平衡感覚が狂ってしまいそうな光景を見て少女は目眩を覚えたが、何かについ動かされるようにして建物の間を進んでいく。
彼女の視界の端では、人の体にカエルのような顔を持っている者達が、彼女を見守るようにじっと見つめていた。
彼女はどれだけ歩いたかわからなかった。下手をすると、数十年歩き続けたかのようにすら彼女は感じていた。水中だからか体が緩慢にしか動かず、実際はそれほど移動していないのかも知れないが、そんなことは今の彼女には関係なかった。
気を緩めれば発狂してしまいそうなほどの圧迫感と緊張感、周囲の不気味な雰囲気に彼女は必死であらがい続けた。奥に進めば進むほど、それらの感覚は強くなっていく。
それでも何かに突き動かされるように、彼女の足は勝手に歩みを進める。
(いやだ……いやだ……死ぬのはしょうがない。私は所詮生まれながらの奴隷だ。だけど、こんな理不尽な、狂って死ぬような死に方はゴメンだッ!)
少女の足は突然止まった。首以外がぴくりとも動かない彼女の前には、わずかに蠢く巨大な物体がある。
彼女はゆっくりと視線をあげていくと、そこには紛うこと無き怪物がいた。
タコのような顔には、髭のように無数が触腕が生えている。巨大な鉤爪のある手足に、ぬらぬらとした鱗がびっしりと生えた、山のように大きなゴム状の体。その背にはコウモリのような細い翼が生えており、それは飛ぶためというより、むしろ退化したもののように見える。
彼女はその姿を見ると同時に、恐怖よりも先に脳内にある言葉が浮かんできた。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うが=なぐる ふたぐん」
その言葉を呟くと同時に、彼女の意識は闇に落ちた。
奴隷の少女を寝かせたシラノは、城の各責任者に挨拶をしたあと、騎士達を呼び集めて訓練場へと向かっていた。
「さて、帰ってきて早々で悪いが早速戦闘準備をしてもらいたい」
「りょ、了解しましたッ!」
旅から帰って一段落していたところなのだろう。全員護衛の時の装備ではなく動きやすい軽装備をしていた。そんな騎士達はシラノの命令によって駆け足気味で準備を始める。
この場には主に仕える騎士の他に公募で集まってきた一般兵士も訓練をしていた。新たな城主が騎士を全員集めて何を始めるのかと彼らの視線が集中する。
騎士全員がシラノを護衛していたときのように全身フルプレートの鎧を着込み、準備が完了すると彼のまえに整列する。
「それで辺境伯様、戦闘とは?」
「ああ、もう起きたようだからね。すぐ来るだろう。もし生きていたら起きしだいここへくるように暗示をかけておいた」
「はぁ……それは一体」
「来たな。一応君達を守護する魔術を掛けておいたから死ぬことはないが、殺す気で挑まなければ骨の一本や二本は砕けるぞ?」
そう楽しげに言いながら訓練場の入り口を見つめるシラノの姿に、騎士達もつられて視線を向ける。そこには、シラノが町で拾った奴隷が立っていた。
シラノは一般の兵士達を訓練場の壁際まで下がらせると、彼らに結界を張る。
奴隷の少女はゆっくりと騎士達へ向かって歩いていく。彼らはその少女の姿に言いようのない恐怖を覚え、全員が一斉に武器を構えた。
彼らが少女を警戒していると、彼女は人とは思えない動きで一気に加速し、騎士達の目の前まで移動する。そしてその右腕を高速で振るった。
三人の騎士が、まるでおもちゃのように中を舞う。しかし騎士達は鈍い音をたてながら地に落ちる仲間よりも、少女を姿から目が離せなかった。
その振るわれた右腕は、もはや人のそれではなかったからだ。少女の右手があるべき場所からはイカの触腕のようなものが生えていた。四本のそれはまるで各々が意識を持っているかのように蠢いている。
「私が魔術を掛けているから君達が死ぬことはない。だから全力を振り絞って戦いたまえ」
シラノの声に、騎士達は戦うしかないと覚悟を決め少女に切りかかっていく。
そんな声を掛けたシラノ本人は三日月のように口端をつり上げ、他者から見れば不気味きわまりない極上の笑みを浮かべていた。
「ああ、すばらしい。この世界は私を飽きさせないと幾度も思ったが、これほどすばらしいものを見るのは久しぶりだ。そうか、君はただ力を与えられるだけだは我慢ならず、旧支配者の腕をもぎ取ってきたか! やはり私の目に狂いは無かったというこということだ。こちらに来るまで人など久しく見ていなかったが、私の目もまだまだ捨てたものじゃあないな」
いつも以上に上機嫌で、まるで演じるように独り言を語っていくシラノ。彼の独り言どころか、彼の姿を初めて見た一般兵達はその様子にどん引きしていた。
だがシラノはそんな彼らの様子などみじんも気にせず、上機嫌のまま宙を舞う騎士達を眺めていた。
彼は少女の腕が何なのかはっきりと分かっていた。
海底に沈む都ルルイエに眠る旧支配者と呼ばれるモノ、人から見れば神にも等しき力を振るう怪物、その名はクトゥルフ。
さすがにクトゥルフの本物の触手を奪ってきた訳ではないだろう。そんなことをすれば、死体と変わらぬクトゥルフとて目覚めてしまう。目覚めたクトゥルフの前には、人の意志などひとたまりもない。
しかし、シラノが彼女に施した魔術は一種の契約だ。意志の弱い人間なら目撃するだけで発狂してしまいかねないルルイエに、むき出しの精神のみを送り込み、そのもっとも深い場所にいるクトゥルフの元までたどり着ければ、その強大な力の一部を貸与するといったものだ。
それでも通常貸与させるのはほんとに一部、短い触腕の一本程度だ。しかし、現在彼女の右肩から生えているのは触腕四本。
「とすると、彼女はクトゥルフに迎えの言葉を唱えたのか。本当にさすがだ」
少女が騎士達を全員気絶させると、今度はシラノの方へ歩いてくる。
シラノは指を鳴らして魔術を行使し、少女の脳を直接揺らして気絶させた。
倒れ伏した少女に近寄りしゃがみ込むと、シラノは彼女の頭をそっと撫でた。
「おめでとう、名も知らぬ少女よ。今このときより、君は自由のみだ」
彼は奇跡に等しき人の意志を見せた彼女の、これからの生を祝福した。
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