ただ、乗り手のため
西方鎮守聖士女騎士団の本部にある独房は、滅多に使われることのない施設だ。
そのため、独房として最低限必要なベッドとカーテン付きの排泄器具、そして机と椅子があるだけだ。
だが、一歩外に出ると、廊下のいたるところに、中身のわからない木箱や丸まった絨毯などが突っ込まれていて、まるで物置のようだった。それ以外にも、鍵のかかった扉の外に乱雑に模擬剣や壊れた鎧、束ねられた新聞紙などが所狭しと放置されているので、実際には本当に物置扱いだったのだろう。
これは、今回使用されるにあたって、無理やりに場所を空けたという事実を如実に物語っている。
もっとも、その独房に入れられた住人には、そんなことはどうでもいいことのようだったが。
「……調子はどうだ?」
「わ、悪くないです。ほ、ほとんどベッドから動けないので、ですけど」
「そうか」
俺は見舞いに用意したビブロンで買ってきた菓子をベッドの端に置いて、それから周囲を見渡した。
廊下の壁に丸まって立てかけられている絨毯を指して、
「邪魔だろ? あとで、外に出すように言っておく。なんだったら、俺がやってやってもいいぞ」
「……だ、大丈夫です。あれ以来、ま、まともに歩けないし、殺風景よりはマシですから」
「そんなものか」
「え、ええ」
横たわって毛布にくるまったクゥデリアは、数日前よりは気分がよさそうだった。
確かに寝床から動くことができないのなら、独房の中が多少狭くても問題ないだろうが、それにしたってあまりいい環境とはいえない。
鉄格子付きの窓はともかくとして、もう少し住みやすくしてもバチはあたらないだろうに。
本来ならば、医務室で安静にさせるのが一番なのだろうが、いつまた例の〈催眠〉が発動するかわからない。
そのために隔離しなければならないということもあり、鍵のついたこの独房に押し込められてしまっているのだ。
見張りがいないのは、彼女が罪人でないことの証だ。
はっきり言って咎のないものをあえて軟禁しているのだ。
軟禁する側の暗澹たる気持ちもわかる。
「……退屈じゃないか」
「い、いえ。皆がよく来てくれますから……。お、お土産とか持って。机の上の詩集は、ミ、ミィナちゃんが持ってきてくれたのです」
「ああ、あいつ、そういうの好きだよな」
「朗読とかも、し、してくれます」
ジャラリと手首に嵌められた手枷から伸びる鎖が音を立てる。
華奢な彼女には相応しくない拘束具だった。
同じものが、足首にも嵌められ、その鎖の先は石の壁に埋め込まれたフックに繋がれている。
鎖自体の長さは独房全体を動き回れる程度の長さでしかないが、床にわだかまった部分が時折軋んだ金属音をたてるので非常に不快だった。
そのせいもあってか、クゥはほとんどベッドの上から動こうとしない。
「……そっか。寂しくはないのか」
「そ、そ、それよりも馬たちに乗れないことが辛いです。う、生まれてからこんなに乗馬から離れていたことはなかったですから……」
クゥの産まれたザッカスは馬の産地である。
バイロンで使用される馬のほとんどがザッカスからのものであり、彼女の実家のサーマウ家は代々伝わる名伯楽を輩出したりもする名家であった。
爵位こそないが、多くの貴族がサーマウ家に馬の馴致を依頼したりしている。
そんな家の出身だからこそ、クゥの際立った馬術があるのだろうが。
「もう一週間も乗れていません……。こんなことは初めてなので、精神的にも辛くて仕方がないのです」
「気分展開に外に出してもらうように頼むか?」
「そ、れは遠慮します。また、いつ、タナたちを襲ってしまうかわかりませんから……。で、できたら、ハーレイシー様や皆もあまりわたくしに、ち、近づかない方が……いいです」
「馬鹿なことを言うな。今回のことは、おまえが悪いわけじゃない。おまえを閉じ込めることになったのは、やむにやまれずのことだ」
「……で、でも」
「あまりそういうことをいうな。オオタネアたちだって、今、懸命にお前をこんな目に合わせた奴を狩り立てているんだ。だから、すぐに、こんなところからは出られる」
「……」
「大丈夫だって」
俺はクゥの頭に手を伸ばし、かいぐりしてやった。
最初は驚いたようだったが、そのうちに笑顔になってくれた。
相変わらず乗馬しているとき以外は、儚い印象が先に立つ美少女で、放っておけば簡単に手折れてしまいそうだ。
いつもの二本の三つ編みでなくて、ボサボサの黒髪をゴム一本でまとめただけの簡素な髪型になっていることも、普段と違ってみえる理由の一つだとわかった。
長めの三つ編みはクゥのトレードマークであるのに。
毛先を見ると、やや水気が足りておらず枝毛もある。
まともに風呂にも入れさせてもやれないのか……。
「あ、あ、なにを」
「ちょっと静かにしていろ。あと、あっち向け」
「え、ハーレイシー様……」
俺はゴムを外して、クゥの髪を二つに分けると、そのまま丁寧に編み始めた。
やるのはかなり久しぶりだが、他人の髪をいじるのは慣れている。
俺の意図を察したのか、抵抗もしないで、されるがままになるクゥがいじらしい。
背中に触るとびくんと震えるので、怯えさせないように慎重に手を動かして三つ編みにまとめていく。
多少時間がかかったが、いつものクゥらしい髪型になると、俺は机の上にあった手鏡を渡す。
普通の独房の囚人なら所持できない品物なので、仲間の誰かの差し入れだろう。
自分の髪をいじりながら、
「は、ハーレイシー様は殿方なのに器用なのですね。わ、わたくしが適当に編むよりっぽど繊細で……」
「ハッハッハ、そうだろ。俺にはどうやら年の離れた妹がいたみたいだからな」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。素ではもうほとんど思い出せないが、妹っぽい小さい子の髪結いをやっている夢をみることがある」
「……」
「あれは多分妹なんだろうな。十歳ぐらい離れていたから、今だと多分おまえらと同い年ぐらいなんだと思う。まあ、顔は全然わからないんだけどさ」
クゥは振り向いて、俺の目をじっと凝視する。
なにか言いたいことがあるが、言葉にならないといった風情だ。
だが、別に口に出してもらう必要はない。
もう俺にはどうにもならないことなのだから。
「よし、そろそろ戻るわ。今日はたまたま雨が降ったから、教練が中止になっただけで、他の連中はいろいろと忙しくしているし、そっちの手伝いに行ってくる。また、今度、髪結いをしてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
「なあに、騎士らのためなら、俺はなんだってできるぞ。なんといっても教導騎士様だからな」
「ハーレイシー様……。エリにもよろしくお願いします」
「ああ、任された。じゃあ、またな」
俺はさっさと立ち上がると、そのまま扉を抜けて廊下に出る。
外から鍵をかけるときにやや抵抗があったが、それは仕方ない。
クゥのためでもあり、騎士団のためでもあるのだから。
ただ、クゥが少しでも気が楽になるようにできるかぎり音を立てないようにして鍵を掛けた。
本当に気休めにしかならないとしても。
廊下を歩くと、さっきまでは聞こえなかった雨音が耳に届いてくる。
石造りの静かな廊下だからという訳ではないだろう。
さっきの独房の周辺には音を遮断する結界が張られていたのだろうな。
おそらくは、クゥに本部内から聞こえる人の喧騒を聞かせないため。
ああいうのが耳に入れば、寂しさが増すだけだから。
オオタネアはいつもそういう不器用な優しさばかりを見せてくれる。
外に出る。
土砂降りに近い雨の中を、俺は自分の小屋まで歩いた。
濡れることに抵抗はなかった。
少しだけ体を冷やしたい気分だったからだろうか。
そんな俺の前を大きな影が待ち構えていた。
白い毛並みがずぶ濡れで、跳ね上がった泥で汚れてしまっているが、鋭く輝く一角の淡い光ですぐに正体がわかる。
馬の顔つきともいえる馬相を見れば、すぐに個体名も識別できた。
俺を待っていたのは、エリだった。
クゥデリア・サーマウの相方である。
エリは俺を見ても、最初はなにもいわなかった。
〈念話〉が飛んできたのは、ややあったからのことだった。
《人の仔。我が処女の様子はどうでしたか?》
どうやって、俺がクゥに会いに行ったことを突き止めたのだろう。
俺が見舞いに行くことは誰にも伝えていなかったのに。
《……貴方のその顔を見ればわかります。おそらくは、今の我と、同じ気分なのでしょうから》
「そうか。さすがだな」
《それで、どうでしたか?》
俺は言葉を選んだ。
クゥにかけられた〈催眠〉について見抜けなかったことを、こいつは責任を感じているのだ。
ただ、〈催眠〉は直接に魔導に関係するものではなく、見抜けなかったとしても、こいつにはなんの落ち度もないはずだ。
しかし、ユニコーンは恥を知るものだ。
自分の相方の異変に気づかなかったことだけでも、自分を責めるのは不思議なことではない。
他のユニコーンどももそうだ。
普段は、馬鹿みたいに「胸と尻と太腿」の話ばかりをしているが、かつて喪った騎士たちのことをいつも思い出しては苦しんでいる。
ほとんどの騎士が、やつらの鞍上で死んだのだから、それも当然だろう。
心通わせた戦友の死を気にかけないものなどいない。
そして、ユニコーンは心優しい聖獣なのだ。
「元気だったぞ。ミィナの差し入れの詩集の話をしたりした。おまえにもよろしくだとさ」
《乗馬できないことについて、悩んでいませんでしたか?》
「それは言っていた。あいつは生粋の乗り手だからな。空気を吸うのを止められたみたいなものだろうし」
《そうでしょうね。我が処女はそういう女性です》
エリは項垂れた。
やはり、クゥが完全に復帰しない限り、こいつは戦力にならないだろう。
もともと若い個体で精神的な部分が未熟なのだ。
クゥという勇者のもとでこそ、実力を発揮できるが、エリ一頭ではなにもできないだろう。
「あいつが復帰できるまで、おまえは休んでいたほうがいいぞ。なんなら、一旦、〈聖獣の森〉に帰るか? 王様に頼みたいこともあるし、丁度いいから」
《……実は、その王より〈遠話〉が入りました。そのことについて、人の子に告げるようにウー殿から仰せつかっております》
「王から? 珍しいな」
《はい》
あいつはいつもこっちの様子を覗き見しているが、接触してくることはほとんどないはずだ。
こないだの〈雷霧〉戦の前に一度あったきりなので、少々気になった。
「それで、なんだって?」
《処女クゥのことです。彼女にかけられた呪いの解き方に心当たりがあるということでした》
「……本当か。いや、王様のことだから間違いないか。だが、よくわかったな」
《ウー殿が連絡をとっていてくれたそうです。あの方は同胞の中でも優れた幻視使いでありますし……》
ウーが詳細を聞き出して、ロジャナオルトゥシレリアに問いただしてくれたということか。
それならわかる。
だが、〈妖帝国〉の技術についてどれだけの知識が、あいつにあるのだろうか。
「で、どういう話だった?」
《なんでも、我が処女にかけられた〈催眠〉という呪いには欠かせない道具があるそうなのです》
「道具?」
《はい、鬼芥子という植物から採れる汁を煎じたものだそうです。むしろ、その汁こそが技術の全てといってもいいらしいです。……王のお言葉によれば、かつて、鬼芥子は〈聖獣の森〉で採ることができたらしく、〈白珠の帝国〉の魔道士が頻繁に採取に侵入してきて、追っ払うのにとても苦労していたという話でした。そのために、よく覚えておられたというお話でした》
「芥子……ねえ」
ケシと聞くと、俺の世界にあった覚せい剤のようなものを想像してしまう。
だが、クゥの様子にはクスリによる中毒症状のものはみられなかった。
そのことから、よく似た何かなのだろうと推測できる。
「その汁を煎じたものがないと、〈催眠〉は使えないのか?」
《はい》
「じゃあ、魔道士どもは今でも〈聖獣の森〉にあるその芥子を狙ってきているということか」
《いえ、王は完全に魔道士たちを追い払い、ここ数十年は侵入させてはいないそうです。ただ、鬼芥子自体は〈聖獣の森〉でも数十年前に絶滅してしまっていたそうですが。それもあって、魔道士たちは、どうやら鬼芥子が自然に群生しているもう一つの地に場所を移したのではないかと》
「……栽培できないのか?」
《〈白珠の帝国〉の知識でもまだ不可能だったそうです。そのため、皇族や貴族しか〈催眠〉を使うことが許されなかったと聞いています》
俺は腕を組んで考えた。
〈催眠〉というのはかなり便利な技術だが、実際には使用において相当な制限を受けるものなのだろう。
他国に詳細な話が広がっていない理由も理解できた。
「必要な分を確保するためには、その自生している土地に行かねばならないということだな。……待てよ、クゥに術をかけたやつだってその鬼芥子を常に必要とするはずだな。ならば、その自生地の周辺を洗えば足取りが見つけられるかもしれない」
《その可能性は高いです》
「いい情報だぞ。これをオオタネアに流して、周囲に網を張ってもらうとしよう。場合によっては俺も乗り込む。で、場所はどこだ?」
《……それが問題なのです》
「言いよどむような場所なのか?」
《はい》
「構わない。さっさと言え」
そこで、エリはやや躊躇ってから、〈念話〉を発した。
《―――〈呑竜嶽〉です》
俺は眉間にシワを寄せた。
その名前がどれだけ俺たちにとって厄介な場所か思い出したからだ。
西の国境、もとは〈赤鐘の王国〉のあった地域に、際立って峻険な威容を誇る山のことである。
美しい稜線を誇り、ある意味で神々しく雄壮な外見をしたこの大陸でも指折りの美岳であった。
しかし、それと同時に人々には恐れられ、近寄るものはほとんどいない。
なぜか?
呑竜という名前に由来する逸話があるからだ。
それは何気なく降り立った一匹の竜が、山に救う幾千もの怪物に襲われて食われ消えていく様を見て、「まるで山が竜を呑み込んだようだ」と人々が評してつけたというものだった。
要するに、〈呑竜嶽〉は魔物の巣だ。
しかも、その峻険さのおかげで、ユニコーンでも登山が難しいほどに厳しい場所だった。
だが、俺にもわかる。
そんな怪物の棲家であるからこそ、鬼芥子は群生できるのであろう。
ある意味で〈聖獣の森〉と同じ魔境だからだ。
「……その鬼芥子の汁を手に入れれば、クゥの〈催眠〉は解けると思うか?」
《断定できません。ただ、あるのとないのとでは、問題に対する対処の仕方が確実に違ってきます》
「わかった。ロジャナオルトゥシレリアには礼を言っておいてくれ」
《……人の仔はどうなさるおつもりなのですか?》
「決まっているだろ」
俺は、降り注ぐ雨を受けながら、エリが落ち着けるように、クゥが安心できるように、力強く宣言した。
「俺が〈呑竜嶽〉に行く。行って、その鬼芥子を採って戻ってくる。そうすれば、クゥをまた馬に乗せてやることができる」
《人の仔……》
俺はエリにも言った。
「そして、おまえがまた騎士と一緒に大地を駆けることができるようにしてやる」
若い一角聖獣は、土砂降りの雨の中で感極まったのか、ただの馬のように長い長い嘶きを上げ続けるのだった……。




