闇夜の晩ばかりでもない
一昨日の凱旋式の興奮の残滓が漂うバウマンの裏通りを、俺はのんびりと歩いていた。
さっきから連れがやたらと話しかけてくるので、それに生返事をするのだけが非常に面倒くさいが、この呑気な月夜に免じて許してやることにした。
今日の月は綺麗だった。
風は多少冷たいが、それでも分厚い上着を羽織るほどではなく、夏も終わりだと感じさせる程度だった。
俺の隣に並んで歩くダンスロット・メルガンには、そんな些細なことはほとんど気にも留まらないもののようだったが。
もともと見た目そのままで細かいことを気にする性質の持ち主ではない。アンニュイな気分など想像もできないだろう。
ダンは、野生の大熊のような巨体とびっしりと張り付いた筋肉が示すとおりに、まさに絵に描いたようなマッチョなのだ。
なにせ、七尺二寸(約二メートル十八センチ)の長身と、並の女性の腰周りはあるだろう二の腕と丸田のような太腿の持ち主である。
ただし、下から見上げるダンの顔は、すっきりとした鼻筋、目元もすらりとしていて、全体的に爽やかな快男児という風情だ。それに、ちょっと癖のある金髪も、活発なイメージを発するのに一役買っている。
こいつの率いている王都守護戦楯士騎士団の強さと大貴族の息子という出自に加えて、このような見栄えの良さからもバウロンの住民にはかなり強く支持されているというのもわからなくはない。
もっとも、俺からするとちょっとうっとおしくて面倒な奴でしかないのだが。
しかも、何が楽しいのか知らないが、さっきからひっきりなしにしゃべり続け、俺としてはとても閉口していた。
月に免じて許してやってはいたが、うるさくて仕方がない事実だけは変えられない。
こいつの声はとにかくおおきいのである。
普通の会話の声量でさえ、オヤジのくしゃみぐらいのボリュームがあるのだ。
かといって、露骨に耳を塞いだりしては可哀想なので、俺は我慢してダンの話を聞いてやっていた。
まあ、話自体はそれなりに面白いのだが。
「……いやいや、そこの店の塩ダレと焼き方が絶品でしてね。あそこまでのものは、うちの料理人でさえ作れないぐらいなのですよ。おそらく焼くための炭が違うんでしょうね。頼んでも教えてはくれないのですが。それと豆と腸の煮込み。猪の臓物を何日もかけて煮込んだものなんですが、野卑な見た目のくせに、香草の匂いと絡み合うと、生唾が止まらないほどの旨さなのです」
「……おまえ、メルガンの家で散々美味いものを食べているのに、それでは飽き足らないのか?」
「メルガン家は将家ですからね。酒はともかく、美食はさほど振る舞われないのです。いざという時に臣下とともに粗食に耐えられるように、たまに夕食に肉がひと切れしかでないということもありますからね」
「徹底しているな、メルガン家……」
うちのお姫様など、部下が用意しないとお茶も飲めないほどの浮世離れなのだが。
用意してもらえないと餓死するまで何も食べないということを平然としそうな貴族の姫と、こういう生命力溢れた男を許嫁にするという発想が、そもそも婚約破断の原因ではなかったのではないだろうか。
「しかし、いつ、そんな食い物屋の存在を知ったんだ?」
「部下の騎士に案内させました。『美味いものを食わせる店を教えろ』ということで。このあたり、私の教育が行き届いているのですよ」
「だからといって、将軍閣下が護衛をつけずに」
「いつもならばキィランが付いてくれますよ。今日は、私がセスシスくんの護衛役ということになりますがね。大舟に乗った気持ちでいてくださいよ」
「……おまえみたいにデカい奴がついていたら、お忍びでもすぐに正体がバレるだろう」
ちなみに、俺を挟んで、ダンの反対側に控えているうちの騎士団のマイアン・バレイなんかは、さっきからさりげなく耳に詰め物をしていた。
彼女からすれば、ダンの胴間声はただうるさいだけにしか聞こえないのだろう。
マイアンは俺の護衛だ。
徒手格闘術の達人であるということと、俺と同じく酒や肴に目がないという理由で護衛役に選出したのである。
しかし、実際のところ、十三期の中で唯一まともに酒を飲める騎士であり、たまーに警護役達とビブロンで宴を催しているほどに酒好きなので、護衛役という口実でご相伴に預かりに来ただけなのであるが。
本来、護衛の一人ぐらいつけないと夜の街中にお忍びで出かけるなどということは普通許されるものではない。
俺もダンも国の重要人物であり、このような市井にふらりと出かけることなぞ認められないはずなのだ。
もっとも、バイロンでは意外とこういう貴人のお忍びが多発している。
王家や貴族と、普通の庶民との距離が近いバイロンでは、庶民の視線での視察という目的のためによく行われている行為なのだ。
ビブロンでよく西方鎮守聖士女騎士団の連中が町娘に混じって買い物をしたりしているのも、身分差を超えて、交流を深めようとする意識があるからだ。
そして、もしかしたら王族や大貴族がお忍びで街中を歩いていることもありえるという考えが、王都内の秩序維持に貢献し、一方で庶民から親しみを受けやすいという結果をもたらしていた。
そのため、バイロン王国では、王族と一部の貴族が庶民から多大な支持を受けているのである。
当然、そのために腕利きの護衛たちが必須ということはあるのだが。
今日の俺たちの場合、俺はともかくダン自身がこの国では一二を争う戦士であるため、それほど多くは必要ない。
少し後ろを見ると、王都守護戦楯士騎士団の騎士が一人、用心深く目を光らせているし、マイアンという格闘術の達人もいる。
「しかし、おまえと飲むのは久しぶりだな」
「ええ、ビブロンでは一度しか杯を合わせられませんでしたからね」
「俺が王都守護戦楯士に行くと言ったら、オオタネアが絶対に止めるからな」
「まったく、あいつはいつまでたっても器の小さい女ですよ。セスシスくんが出かけたいといっているのを邪魔するなんて、古女房気取りですか」
「……いや、一応、あいつは俺の上司なんだが」
「もっとガツンと言わなければダメですよ。女というものは、そういうものです」
「……おまえ、ガツンとやられたじゃん」
ダンはオオタネアとのビブロンでの決闘のことはもう覚えていないらしい。
一方で、隣にいたマイアンがびくりとする。
彼女にとっては、あれはあまり思い出したくない記憶なのだろう。
マイアンはダンとの対戦に際して、完全に臆してしまい、結局のところ、自分の出番だというのにオオタネアに譲ってしまう結果となったからだ。
今日の俺とダンの護衛につくということを簡単に承諾した時に、もう吹っ切れたのかと思ったのは早計だったか。
だが、マイアンの変化はそのことに関してではなかった。
「……将軍閣下。〈気当て〉をなされますか?」
「せずともわかる。これに気づくとは、なかなか優秀だな、貴様」
「ありがとうございます」
「ふん。貴様はセスシスくんの護衛を勤めるのだ。それぐらいでなければ困る」
突然、俺の両脇の二人の足が止まり、ダンスロットが腰に佩いていた剣を抜き放ち、マイアンは刺のついたメリケンサックのような武器をはめる。
将軍の行動に気づいたのか、背後にいた騎士も剣を抜き放ち、背後で壁を作った。
俺は周囲を見わたす。
この世界ではごく普通の街の裏通りだ。
明るい月の輝きだけが頼りとはいえ、何かおかしな様子は微塵もない。
いや、人通りがないことがおかしいといえた。
ついさっきまでは何人もの住人とすれ違っていたのに、今は俺たち以外には誰もいなくなっていたからだ。
確かにおかしい。
「……人払いをされましたね。多分、魔道士の仕業です」
「魔道士が俺たちに何の用だ?」
「まともな用事ではないと思いますよ」
「うむ、そうだな」
俺も少し遅れて、剣を抜いた。
だが、俺としてはむしろ左手にはめた〈猛蛇鉄〉の方が剣よりも頼りになる。
俺の剣技は、それはもうどうしようもなくレベルが低いものなのだから。
王都には〈阿修羅〉も持ってきてはいるが、今は知り合いの錬金工房に再度の調整に出しているので手元にはない。
マイアンは完全に格闘用に構えをとっていた。
両足ともに踵の浮いた猫足立ちなのに、まったく揺らぐことはない。
ダンの得物は、決闘のときのような〈手長〉の大剣ではないが、それにしても通常のものよりも長く刃が分厚い。頑丈一点張りのおよそ貴族のものらしくない肉包丁のような代物であった。
しかし、ダンのような見事な巨漢が振るうと途端に勇ましくこれしかないという武器に見えてくる。デカイやつはたまにズルい。
「囲まれたな」
「ええ」
俺たちの進行方向に、一人の茶色の装束を着た男が現れた。
手には短めの反りの入った剣を持っている。
顔には布が巻かれていてわからないが、見た目と雰囲気から言って男だろうとあたりをつける。
しかも、ただの男ではない。
明らかに間者とわかる上、物腰からすれば暗殺者だ。
少なくとも殺し屋に狙われる覚えはない俺としては、夜中に会いたくない類の来訪者だった。
「前に三人、後ろに五人か。多勢に無勢だな」
「はい、すぐに襲いかかってこない事の意図はわかりませんが……」
ダンとマイアンは互いに前後の様子に気を配りながら、対策を小声で相談している。
さすがに実戦をくぐり抜けた戦士たちだ。
胆の座り方が違う。
しかし、待てよ。
今、ダンは前に三人と言ったな?
俺には一人しか見えないのに。
「マイアン、前の通路に何人いる?」
「はい? 茶色の装束を着た間者らしいものが三人並んでいますけど」
「……わかった。そういうことか」
俺は今まで隠していた〈猛蛇鉄〉をかざし、それから一歩前に進み出た。
護衛役を自認している二人が慌てて引き止めるが、逆に手で制する。
「おまえたちは、他に気を配れ。前の『一人』は俺が引き受ける」
すると、一瞬だけキョトンとした二人だったが、すぐにその内容を理解する。
飲み込みが早いということもあるが、二人が俺の言うことを完全に信頼してくれているということなのだろう。
俺は、前に立つ間者に向けて歩を進めた。
間者は少し戸惑ったが、すぐに反りのある短剣を構える。
そして、するすると近づいてきて俺の首筋に切りつける。
早いことは早いが、騎士団の連中に比べれば遅いので、俺でもなんとか躱すことができた。
続いて二回、縦と横からの斬撃がきたが、剣と〈猛蛇鉄〉を使って凌ぐ。
だが、〈猛蛇鉄〉を見て間者が激しく動揺した。
これで二度目の揺らぎだ。
どうも、こいつは間者の癖に精神的な部分で鍛錬が足りていない。
おそらくは相当な下っ端なのだろう。
ユギンやモミたちのような一流には及ばないレベルだ。
そう考えると気が楽になり、俺はこいつとの相対にも余裕を持てるようになる。
ただし、これは真剣を使った生命のやりとりなのだ。
余裕は持ってもいいが、油断は許されない。
俺は抜け目なく様子を探りながら、これという隙を見つけて、間者の腹に拳を押し当てた。
打撃としてはなんの効果もない、ただ拳を当てるだけの行為。
だが、これで十分なのだ。
鮫のごとき牙を生やした蛇の口を模した篭手は、俺の体内のなけなしの魔導力を掻き集め、一気に弾丸のように噴出する。
七尺(2メートル)程度離れたものを吹き飛ばすことができる魔導の弾丸は、その距離が零であったとしても容易に敵を打ち倒す。
むしろ、近いからこそすべての打撃力が一点に集中する。
「げふっ」
と、悲鳴にもならぬ声を上げ、間者は後方に吹き飛び、地面を転がった。
そして、何回転かした後のうつ伏せの姿勢のまま、二度と立ち上がることはなかった。
「マイアン、ダンっ!」
当面の敵を倒したとことから、仲間たちの様子を知ろうと振り向くと、すべてが終わっていた。
さすがというべきだろう。
護衛の騎士も含めて三人の足元には、七人の間者が俺の時と同様に転がっていた。
四人までは一斬りで仕留められており、それはダンの仕業だろう。
あとは、マイアン二人、騎士が一人か。
早すぎるぐらいの戦いの結果だった。
「……セスシスさんの指摘通り、やはり〈幻覚〉で二人ほど姿を隠していました。気がついていなければ、もしかしたらやられていたかもしれません」
「そうか、それなら良かった」
「さすがはセスシスくんだ。このような魔道士に対しても冷静で、魔導などにはおいそれと騙されはしない。このダンスロット・メルガン、やはり感服しました」
俺は特に難しいことしていない。
最初、前にいたのは一人だけなのに、ダンスロットたちには三人に見えていた。
つまり、目くらましをかけられていたのだ。
俺は〈妖魔〉であることから、この世界の魔導法則に関してはほとんど囚われることがない。
魔導で幻覚を見せようとしても、それが効果を顕すことはないのだ。
しかし、相手方が〈幻覚〉を利用しているということが判明していたのなら、他に使っていないはずがない。
俺はそのことをダンたちに告げ、あいつらはそれを織り込んだ上で、間者たちの襲撃を凌いだというわけである。
もし、〈幻覚〉を使うということがわかっていなかったのならば、いくらダンスロットとマイアンといえど危なかっただろう。
「閣下、これを」
護衛の騎士が差し出した間者の反りの入った剣を見てみると、どうもおかし色をしていた。
「……毒ですか?」
「はい。おそらくは」
「刃に毒を塗って必殺のつもりだからこそ、あのような策に出たということか」
「もしかして、傷でも負っていたら」
「即、お陀仏でしょうね」
俺は震え上がった。
まさか、毒なんて用意されているとは。
しかし、間者が暗殺者であるとしたら、それは間違いなく常套手段なのであろう。
それに気づかないで、何度も相手の剣を篭手で受け止めたことを考えるとなんとも背筋が寒くなる。
マイアンもさっきまでとは違い、やや顔色が悪い。
素手で戦う彼女からしたら、かなり危険な橋を渡っていたといえるからだろうな。
「だが、間者を八人も投入しそれぞれに毒まで持たせるとは、こいつらの依頼主はよほど切羽詰った状況に置かれていたんだな。なあ、ダン」
「……そうですね」
「で、心当たりは?」
「……私が狙われたと考えているのですか?」
「ああ、あそこに転がっている間者は、俺の〈猛蛇鉄〉を見て驚いていた。少し知識のある奴なら、俺が〈ユニコーンの少年騎士〉であるということに気づくのは当然だが、もし狙いが俺ならそんな反応はしないだろう。そうなると奴らの狙いはおまえしかいない」
ダンスロットは押し黙った。
本人もわかっているのだ。
ただ、俺に説明すべきかどうかで迷っているようだった。
こいつの性格から、狙われたことについての内容そのものではなく、俺を巻き込むことの是非を自分に問うているのだろう。
なんだかんだ言っても、昔の真っ直ぐだった少年時代の心根を失っていないところがダンスロットのいいところだった。
ややひねくれてしまったところはあったが。
「……わかりました。話しましょう」
「頼むよ」
「ですが、ここではなんですので、先程の店で酒でも飲みながらということで」
「おい、そんな悠長なことを言っている場合では……」
「酒でも飲まないと説明しづらい話なのですよ」
「長いのか?」
「長いです」
「だったら、茶よりは酒か。マイアンも一緒でいいか?」
「……ネア、というよりもザン家にも関わりはあるでしょうね。そこの護衛には、ネアへの報告を兼ねて貰いましょう」
「わかった。じゃあ、行くか」
ダンが護衛の騎士にこの後始末を任せると、俺たちは再び通りを歩き出した。
さっきまでの呑気な雰囲気は欠片もない。
ダンは口を閉ざし何やら考えているようだし、マイアンも気を張り詰めて再度の襲撃を警戒しているからだ。
そして、俺は、風が妙にじめじめとして湿りだしていたことに気がついた。
爽快さはまったくなくなり、なんとなくべとつくような気持ちの悪いものに変わっていたのだ。
湿気が多く、喉も無性に乾いてくる、はっきり言えば不快な風に。
久しぶりに訪れた王都。
そこで俺は紛れもなくヤバイ事件に首を突っ込む羽目になりそうだった。