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赤錆色の月の下で

 月が赤かった。

 この世界の月は、時折、いつもの光の代わりに真っ赤な血のような輝きを発することがある。

 赤というよりも、赤錆色というべきか。

 大陸の人間は、あの色を発する月のことを〈赤月(せきづき)〉といい、不吉なことの起こる前触れとして恐れていた。

 確かに、あの色を見ているとどことなく不安な気持ちになってくる。

 だが、月光は太陽の光を反射したものにすぎないはずなのに、どうしてあんな色になるのだろう。

 剣と魔法の世界なら、そういうことも起こり得るのか……。

 俺は残ったワインを瓶ごとラッパ飲みして、そんなことをずっと考えていた。

 ふと気がつくと、すぐ隣に巨大な馬が座り込んでいた。

 通常、馬というか野生の生物は、寝るときでさえ立っているのが普通であり、こうやって座り込んだりはしない。

 例外的に、なんの危険もないか、病気や疲れているときだけ、座って寝たりもする。

 まあ、〈聖獣の森〉で、その支配者たる幻獣王に危害を及ぼそうとするものがいるはずもなく、ロジャナオルトゥシレリアはいつも適当に野原に座り込んでいた。


「……〈赤月(せきづき)〉だな」

《人の仔らは、あれを忌むべき色というが、余からすれば風情があって美しい、まさに名月だよ》

「いや、さすがにおどろおどろしいだろ。血が滴っているように見えるぞ」

《血は生命の源だ。恐れることはない》

「生き物がどばっと流血していたら、それは死ぬ寸前みたいなものなんだが……」


 懐かしい。

 前はよくこういう会話をしていたものだ。

 他のユニコーンとは違い、幻獣王はあまり「乳、尻、太腿」を連呼しないのでやりやすい。

 まあ、たまにおかしなことを言い出すのは、種族(ユニコーン)の宿痾みたいなものだが。


《それで、汝の嫁になるのはあの三人のうちの誰なのだ?》


 ……こんな感じに。


「……だからさあ、結婚しないって言っているだろ。俺たちは、ユニコーンの乗り手なんだから、〈雷霧〉を潰して回らないといけないんだからさ」

《その心配はいらんよ。余の予感では、あの薄汚い霧との戦いはあと十年ほどで終わる。この大陸が完全に〈雷霧〉に包まれるか、それとも人の仔らが凌ぎきるのか、それはわからんがな》

「……予言はできないんじゃなかったのか?」

《これも予感だよ。ただ、それほど的外れではないと思うがね》

「十年ね、それで終わればいいな」

《十年後ならば、あの処女(おとめ)たちもまだ子を産める年頃だろう。もっと早く〈雷霧〉が終結すればさらに問題ない》

「無茶言うな……」


 ロジャナオルトゥシレリアの言うとおり、十年でカタをつけられれば、もうユニコーンたちが戦う必要性はない。

 そのあとで、人間同士の戦いが起きるとしても、それはこいつらには関係のないことだ。

 敵と戦わせるために、この平和な森から一角聖獣(ユニコーン)を引っ張り出したことを、俺は未だに後悔し続けていた。

 それが〈雷霧〉という脅威と戦うためにどうしても必要だったとしても。

 戦うことに向いていないものたちに、手を汚させることを強制するということの残酷さを俺は実感していた。

 一角聖獣(こいつら)を戦場に引き摺りだしてしまったことについての罪悪感は、いつまでも俺について回るっているのだ。

 すまない、幻獣王。

 すまない、一角聖獣たち。

 俺は自分のエゴのために、恩のある少女のために、おまえたちを望まぬ場所に駆り立てたのだ。


《すべてが片付けば、友もつがいを作り、子をなすことができるだろう》

「俺にその気はないよ。全部終わったら、死ぬまでこの森で暮らすよ」

《そうはいかん。余は汝の子が見たいのだ》

「……あんたのわがままだけじゃないか」

《汝のもな》


 結婚ねえ。

 考えたこともないや。

 それどころか、彼女を作ったり、付き合ったりということも、最近では考えなくなった。

 いつからだろう。

 この世界に来た時からか。

 それとも、前の世界にいた時からすでにそんな傾向があったのか。

 昔の自分のことは、もうほとんど思い出せないので、その答えを出すことはできなかった。


「まあ、嫁の話は後回しだ。それより、俺はあの〈雷霧〉の正体が知りたいところだ。俺が出て行ってから半年は経ったけど、あんたの方で何かわかったことはあるのか?」

《特にないな。むしろ、汝の体験したことから、余はいくつかの疑問を感じているのだ》

「俺の体験?」

《ああ、そうだ》


 幻獣王は、いくつかおかしな点があることを指摘した。

 まず、〈雷霧〉とその中に潜む〈手長〉ども魔物との関係だ。

 これは俺がツエフでの体験をバイロンに報告した際から言われていたことだが、当初は〈雷霧〉=〈手長〉どもの巣という公式が成り立っていたにも関わらず、〈雷霧〉発生以前から〈手長〉どもと人類との戦いは〈妖帝国〉で始まっていたという事実の存在がある。

 つまり、前述の公式は成り立たないのだ。

 そして、半年前のはぐれ〈手長〉と俺たちの戦い。

 ここから導き出されるのは、要するに魔物と〈雷霧〉とは直接には関係しないという結論である。

 次に、ルーユの村でのことだ。

 ロジャナオルトゥシレリアは、〈幻視〉を使ってアーやゲーが実際に視たものを、さらに視ていた。

 その際に、〈墓の騎士〉と〈手長〉との奇妙な類似性に気がついたらしい。

 姿かたちも容姿も異なるが、人に似た異形、そして、纏う魔導力。

 非常に似通っていた上、どちらも幻獣の王たる彼にとって未知の魔物であるということだった。

 何千年を生き、他の次元へと移動することも可能な幻獣王が、見たことも聞いたこともない魔物というだけで稀少なのだ。

 それがたかだか十年ほどの間に、何種類も確認されるということが異常な話なのだ。

 俺が、〈墓の騎士〉たちが魔道士によって作られたものであることを言うと、鼻息とともにロジャナオルトゥシレリアは考え込んだ。

 そして、言った。


《やはり、〈雷霧〉の発生の裏には人の魔道士の存在があるようだな》


 俺もそう思っていた。

〈雷霧〉の発生が〈妖帝国〉の魔導実験の失敗によるものだという仮説は、随分と昔から存在している。

 裏付けはないが、多くの人々はそれを事実だと確信しているようだ。

 だが、ただの仮説だ。

 そして、それがわかったとしても〈雷霧〉の現実の脅威から逃れられる訳ではない。


《友よ、例の女将軍と共に〈妖帝国〉の魔道士を捕まえたまえ。なんとしても情報をかき集めねばならぬ》

「……わかった。しかし、やけに真剣だな」

《この大陸が滅びたら、余とその眷属とて困るのだよ》

「それもそうだ」


 それから、愚にもつかないその場限りの楽しい会話を続け、とうとう俺はワイン瓶に残った最後の一滴を飲み干してしまった。

 これで、もう用意しておいた分は全部なくなってしまう。

 帰りにまた買っていかないと……。

 などと呑み助的な思考で頭をいっぱいにしていたとき、


《来たか……》


 と、幻獣の王が虚空を睨みつけた。

 そこには俺たちの好きな月はない。

 ただ、西の夜空があるだけだ。

 しかし、俺はそれだけでわかった。

 わからないはずがない。


「……来ちゃいましたか」


 俺は立ち上がる。

 西の空には星以外にはなにもない。

 だが、その下では確実に異常が発生している。

 この大陸を蝕む、死を招く黒い霧が。

 

〈雷霧〉


 ついにこの時が来たのだ。

 生命を賭けて、限界に挑戦しなければならない時が。

 背負ったもののために戦う時が。


《―――友よ、悪い知らせがある》

「何だ? 〈雷霧〉の発生よりも悪い知らせなんて、そうはないぞ」

《残念ながら、それを上回る酷い知らせだよ》


〈雷霧〉発生を上回るって、どれほどの凶報だよ。

 さすがの俺も想像さえできなかった。

 だが、ロジャナオルトゥシレリアがこの後に及んで嘘を言うはずもない。

 俺は覚悟して訊いた。


「教えてくれ。いったい、何が起きたんだ」


 幻獣の王は一度、北西を見てから、もう少しだけ頸を振り、南西に頭を向けた。

 その意味を俺は読み取れなかった。

 だが、無意味な仕草のはずがない。

 そう思ったとき、俺にとって最悪の思いつきが脳裏に浮かぶ。


「……もしかして、そういうことか?」

《ああ、そうだよ。汝の考えの通りだろう》


 そして、幻獣王ロジャナオルトゥシレリアは言った。



《此度の〈雷霧〉は、南北に二つ、同時に発生した……》



 それは、まさに、俺たちにとって最悪の凶報だった……。

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