楽園から来た少年
[第三者視点]
ユニコーンたちに振舞われた豪華な食事のあと、薄情にも彼女たちの教導騎士は、旧知の幻獣たちに会いに行くと言ってどこかに出かけてしまった。
なんでも、幻獣・魔獣の中には夜しか活動できない種が多く、今日は徹夜してご機嫌伺いに行くとの話だった。
騎士達にとっても、初めて間近で観察する幻獣たちの生態や、見たこともない生き物や光景を見物するだけでも、まったく飽きることはないのだが、それでも近くに彼がいてくれると安心できるというのに、まったく薄情にもほどがある。
タナは特にご機嫌斜めなのだが、他の二人もやはり似たような感想は抱いてはいた。
そこで、腹ごなしと頭を冷やしに、三人で森の散歩を始めた。
案内と護衛も兼ねてシチャーが後を付いてきているが、三人の誰も、夜の深い森の中を歩くというのに、まったく危険を感じなかった。
月が美しいだけでなく、風も優しく、そして木々はあたたかい。
この森には、人を不安にさせる何ものも存在しないようであった。
「幻獣王のおかげなんでしょうね」
「うん、私、こんなに怖くない夜の森って初めてだよ」
「女だけで深夜に出歩いて、危険をまったく感じさせないなんて、すごいことだよね。奇跡みたい」
三人は、なんの武器も携えていない。
最初のうちは心細かったが、そのうちに慣れてきて、もう気にならなくなっていた。
「森というと、何か魔物や凶暴な生物が棲んでいて、いつも人を襲おうとしているものとばかり思っていましたから、こんな夜に散策するなんて考えたこともありません」
「月灯りって綺麗なんだね」
「夜を美しいと思う日がくるなんて……」
夜の散策なんて、普通の子女は絶対にしない。
比較的、治安のいい部類にあたるバイロンでさえ、夜には泥棒や暴漢がうろつきまわり、朝には不注意な男女が死体となって発見されるなんてことはザラにある。
よその国ならもっと酷いだろう。
魔物が跋扈し、馬賊が暴れまわり、買収された兵士が国民を虐げる。
人間にとって夜という時間は必ずしも平和なものではないのだ。
彼女たちほどの遣い手でも、身の危険を感じざるを得ない。
いや、世の中というものがそうなのかもしれない。
一歩、知らない場所に踏み込めば、どんな目にあうかまったくわからない、人にとっての魔境そのもの。
生きている限り、人には平和は訪れないのかもしれない。
……そんなにべもない思考を手繰りながら、三人が歩いていると、小さな泉に出た。
いや、違う。
泉自体はかなり大きく、〈騎士の森〉にあるものとかわらない広さだ。
問題なのは、その淵に立つ巨大な馬の姿だった。
あまりに通常の大きさと違いすぎるため、目が錯覚を起こしてしまうのだ。
幻獣王の立ち姿は、それだけ、規格外ということである。
背後のシチャーが嘶いた。
自らの主君に問うているのだろう。
ロジャナオルトゥシレリアがそれに答えた。
《よい、下がれ。余は、この処女たちに話がある》
どうやら、王はずっとここで彼女たちを待っていたようだった。
ただ、下弦の月を眺めながら。
「私たちになにか御用ですか、幻獣王陛下」
《……汝ら、この森を歩いてどう感じた?》
「え、あ、平和でいい場所だと思います。危険もないし、美しいし、のんびりできてとても楽しいです」
「私も同じです」
《そうか……》
王は月から目を離さない。
あえて、彼女たちの方を見ないようにしているようだった。
「侵略や略奪のためといった大きな戦乱もなく、人が食うものに困って殺し合うことは稀で、腹を満たせないものがあばら家で餓死することはほとんどなく、道端に人の死体が無造作に転がっていることは皆無で、子供が武器の使い方を知らず、女が夜道を一人で歩け、道端に金貨を落としても多くは持ち主の手元に戻ってくる。……そんな世界のことを、汝らはどう思うね?」
王が何を言いたいのか、三人にはすぐにはわからなかった。
話の内容も、だ。
そんな楽園のような世界がある訳はないではないか。
いみじくも、ついさっき彼女たちは実感したのだ。
彼女たちの祖国でさえ、決して桃源郷ではない。
この世は、理不尽な危険と不条理に満ちているのだと。
「……楽園だと思います」
「できることなら、そんな場所で一生を送りたいですね」
「でも、夢ですよ。ありえません」
ロジャナオルトゥシレリアは、まだ月から目を離さない。
いや、離せないのかもしれない。
《余の友は、そんな世界から来たのだ》
王にとっての友であり、異世界から来たものといえば、彼女たちの知る範囲ではただ一人しかいない。
セスシス・ハーレイシー。
その人だ。
《……余の友は、自分の世界にいた時、同族である人の遺体というものをその目で見たことがあるのは、ただ一度きりだったらしい。しかも、それは友の年老いた祖母であり、死の原因は老衰であったそうだ》
ありえない、と三人は思った。
王都ではそれほどではないが、バイロンの国中のいたるところで人の死体は転がっている。
死因は様々だが、小さい頃からお屋敷から出ないような箱入りの貴族の子女でもない限り、普通に暮らしていれば容易く死体に遭遇する。葬式だって、頻繁に起こる。
貧しい地域の出身であるナオミは、死体が流れ着いた波止場の脇で、泥をあさって金目のものを探していたこともあった。
マイアンは、父の友人の僧兵が北の民族との戦いで八つ裂きにされた葬式をとりしきったことがある。彼女以外に適任者がいなかったからだ。
貴族の娘であるタナでさえ、通りに打ち捨てられた人の死体を見たことがある。
何らかの見せしめのために手首を断ち切られた残酷なものだった。
そう、人はいつも死と隣り合わせに暮らしているものなのだ。
老衰で亡くなった祖母のことでしか、死を実感していないなんて普通ならありえない。
《……余の友の世界には、ほぼいくさはなく、飢えもなく、皆が文字の読み書きができ、ほとんどのものが一生誰かを手にかけずに終わる。弱者には国から金が支払われ、罪人はすぐに捕まり、売買される奴隷もいない。子供達が剣を握ることもない。……友は剣というものを目にしたのが、ここに来てからが初めてだと言っていたぐらいだ。なぜなら、友の世界では戦いとは罪悪の一種でもあったからだ。極端な思想の持ち主によれば、軍を運営することですら間違いであるそうだ。そして、友の世界での軍人の仕事は、土砂崩れに埋まった人々や大雪に閉じ込められた民の救出が多いらしい》
そんな世界があるものなのか。
まるで、聖人たちの暮らす楽園ではないか。
誰も想像できない、すれば狂人とでも言われそうなくらいな幸せな世界。
《だから、余と汝らの主人たる女将軍は、ここに友を残したのだ……。汝らとて、一度は心に浮かべたことがあるだろう。なぜ、友をもっと早く、あの薄汚い〈雷霧〉との戦いに赴かせなかったのかと。そのおかげで、汝らの先達たちは悉く死に、人の王国の版図は減った。直接、戦わせなくてもよい、ただ後方にいてくれただけで生命をなくさずに済んだものがいたのではないか、と》
「……それは思いました」
《だが、それは無理だったのだ》
「なぜですか」
《余の友は、『戦うこと』と『殺すこと』を知らなかったのだ。そのようなものを戦いの場に駆り出すなど、なんの意味もないどころか、ただの害悪でしかない。だから、余は女将軍と謀って、友をここに閉じ込めた。……そして、壊した》
壊した。
なんという凶々しい言葉であろう。
それをされたのが、彼女たちの敬愛する教導騎士だということがさらに重かった。
「壊したとはどういうことでしょう?」
《まず、友は戦い方というものを何も知らなかった。剣の使い方、槍の振るい方、弓の引き方、馬の乗り方、何一つとして知らなかった。かろうじて、素手での殴り合いぐらいはやったことがある程度だ。友にとっての戦う方法とは、魔道士に貰った爆弾で敵の中に突っ込むことだけだったのだよ。……だから、余と臣下たちは、友に武器の使い方を教えた》
「しかし、それは壊したとはいわないのでは?」
《戦いとは敵を殺すことだよ。戦わなくても済む、戦いを避け、同胞の生命を奪うことを嫌がる無垢で純粋なものに、同胞殺しのやり方を教えることは魂と心を穢すことではないのか。それは、清純なるものを貶め、破壊することではないのか?》
誰でも人を殺さなければそれで済むのならば、人を殺してまでなにかをしようとはしないだろう。
セスシスの世界では戦わないことは臆病なのではない。
美徳でもあったのだ。
しかし、彼のことを知る三人は、彼がいざという時に戦えない人ではないことを知っている。
だから、彼の世界では戦わないということは、無駄な争いをして人を傷つけないように振舞うということにつながるのだろう。
それを美徳とするものに、この世界での合理的な殺し方を教えることは、まずは人殺しをせよというようなものだ。
そして、今、セスシス・ハーレイシーは彼女たち同様に戦い方を覚えてしまっている。
《友は、生き物を殺したことがなかった。人はおろか、家畜や、鳥の類までな。伝説の幻獣、麒麟のようだと余は思ったものだ》
「狩りとかはしなかったのですか?」
《友の世界では、肉や魚はどこかで誰かがしめて加工したものが売られていたらしい。直接、その手で生き物を殺すことなどほとんどなかったそうだ》
甘やかされた生き方だったのだな、とマイアンは思った。
自分が口にするものが、その生命を奪って得られるものだという自覚がなかったのか?
《この世界に来てから、友は生命を奪い、その肉を食らうことの崇高さを知った。納得できる理屈だったのだろう。だが、彼は食べるための殺生は認めても、同種族である人間を殺すことだけは認めなかった。同族殺しを何よりも忌避したのだ》
それはそうだろう。
そこまで戦いを認めていない世界に産まれ育ったものが、たとえ何かを守るためであったとしても人を殺すことを容易にできるようになるとは思えない。
しかも、セスシスの世界では戦わないで物事を解決する方法も進歩していた可能性がある。
必要だからといって、安易に殺しに走るこの世界の考え方とは馴染まないはずだ。
「でも、セシィはいざとなれば、戦って相手を殺してでも大切なものを守ることができるよ。それはどうして?」
《簡単だよ、太陽の姫よ。……余が、友の倫理感を、道徳を、純潔を、壊して奪ったのだ。同族どころか、家畜さえ殺せない天使のような生き物を、必要とあらば躊躇いもなく生命を奪える普通の生き物に貶めたのだ》
「……」
《今の友は、理由さえあれば君らや普遍的な人の仔同様に、罪悪感も抱かずに人殺しができる。余がそう仕向けたのだ。それが女将軍の望みでもあったしな》
「オオタネア様はなにを望んだのですか?」
《友がこの世界で生きるために、美しい彼の心と思想をすげ替えてくれとな。人を殺せねば、友は間違いなく誰かに殺されて死ぬ。それだけは嫌だと。だが、人が人に殺しを教えれば、間違いなくそこには暗い闇が残るゆえ、どうしても自分にはできない。だから、頼むと。それを受けて、余とその臣下たちが行なったのだ。……そして、天使の心をただの人のそれにまで堕としめた》
ロジャナオルトゥシレリアは、初めて三人娘を正面から見た。
《余は、友と何度も語らった。多元世界を生きる余らが聞いたこともない、美しく優しくそして儚い思想を幾つも友は教えてくれた。友は、仁といい、義といい、信という言葉を好み、色々な話を物語ってくれた。民を救うため、巨人の口の中で爆破して果てた剣士の話。遠き星から同胞を救うために、同胞に疑われながらも説得をし続けた青年の話。自分が滅ぼしてしまった国のために、世界をやりなおそうとして挫折する王の話。どれもが御伽噺だ。しかし、友の世界ではその物語のままに生きようとするものたちがたくさんいたそうだ。全てのものがそうというわけではないだろう。だが、確かにいるのだ。まぶしすぎる理想と夢想を直視して目を焼かれても、いつかその光に耐えられるものたちがやってくると信じて疑わないものたちが。……友もその一人だった》
ユニコーンの王は、再び月を見上げる。
泣きそうなんだと、タナは感じた。
だから、正面を向けない。
《だが、余はその友に、彼を死なさぬための唯一の方法とはいえ血で手を汚すことを十年かけて教え込んだ。友にとっては、十年をかけなければならないほどのことだったのだ。それが呪われた所業でなくてなんだ? 血塗られた冒涜的な振る舞いでなくてなんだ? 許されることであるのか?》
もう、三人は声をかけられない。
何千年を生きた幻獣の王は、罪悪感に苦しんでいた。
そして、それと同じ表情を浮かべるものが身近にいることを思い出した。
―――オオタネア・ザン。
彼女もそんな顔をして、よく教練に励むセスシスと彼女たちを見つめていた。
厳しくとも、彼女たちの成長を見守るための顔だと信じていた。
だが、違ったのかもしれない。
ただ、自分の犯した罪の結晶がそこにいることを眺めていなければならないという罰を受ける者の仮面だったのかもしれない。
「ですが、ユニコーンの王よ。私は、それはちょっと違うと思うのです」
「うん、そうだね」
「確かに……」
ナオミが言い、タナとマイアンが同意する。
ロジャナオルトゥシレリアとオオタネアは近すぎるからこそ、気づいていないのかもしれない。
そこは指摘しないといけない。
セスシスを含めた三者のうち、誰か一人でも欠けたときにそれが理解されていないと、きっと全員が救われない。
だから、三人が言わなくてはならない。
今、たった今。
「セシィは王様に感謝しているんだよ」
「……うん、それは確かだね。そうでなければ、陛下と一緒にお酒を飲んだ時のことをあんなに楽しそうに語ったりしない」
「オオタネア様だってそうだよね。悔しいけれど、騎士セスシスはあの方を誰よりも大切に想っている。オオタネア様が自分にしてくれたことをわかっているのでしょうね。だから、きっと感謝こそしても恨むことなんてありえない」
「それに、楽園から来た少年を戦いのための駒にして、自分たちを守ろうとしているのは、私たちを含めてこの世界に住むもの、皆同罪なんです。王様やオオタネア様だけが背負っていい罪ではない」
そして、タナが言う。
「すべてが終わったとき、皆でセシィに謝ろう。それで許される訳じゃない。でも、罪は皆で背負うべきだよ。……それに、王様だけなんて、ふふ、ちょっとズルいよね」
《ズルいだと?》
「うん、ズルい。なんか、王様とオオタネア様だけが、セシィの特別みたいなんだもん。私だって、セシィの特別になりたい」
タナにとっては、それは何よりも重要なことだった。
出会いは幻獣王と女将軍の方が早いとしても、だからといって遅すぎるわけではない。
あの少年騎士の心を射止める機会はまだ彼女にもあるべきなのだから。
《ズルいとは、また酷いいいようだな、太陽の姫よ》
「いえいえ、正当な主張ですよ」
ロジャナオルトゥシレリアの巨体が震えた。
笑っているのだと、三人は即時に悟った。
どうやら、自分の罪を嘆くことと同様に、彼を慰める三人の言い草に感じ入るものがあったのだろう。
自分たちの言葉で、いくらかでも幻獣王の曇った心を晴らすことができたのなら、それはいいことだったのだと思った。
《汝らを招いたことで、もしかしたら余は救われるかもしれんな》
幻獣の王は前屈し、そしておもむろに泉の中に頭部を突っ込んだ。
大きな水柱があがり、四方にしぶきが飛んだ。
しばらく経ってから、泉から頭を上げた幻獣の王は、最初に宮殿で見たときの覇気が戻っていた。
「王様?」
《ふん、少しは頭が冷えたよ。礼を言うぞ、バイロンの娘たちよ》
そう言うと、ロジャナオルトゥシレリアはもう振り向くこともなく、森の中に消えていった……。
激しく乱れていた泉の水面は少しずつおさまり、そして何事もなかったかのように静けさを取り戻す。
水面に映る月は、さっきまでと同じ姿を取り戻し、いつまでも輝いていた。