森の魔獣
翌日、近所の食堂の主人に無理を言って分けてもらった台所の灰をずた袋に詰めていたら、他の三人が降りてきた。
「おはよう。何しているの?」
「灰を詰めているところだ」
三人とも、意味がわからないようで頭をひねる。
「何に使うの?」
「〈森〉に入ったら必要になるかもしれないのでな。念のためだ」
まあ、使う羽目にはならないと思うが、用心しておくに越したことはない。
それを鞍の後ろに積むと、アーにまで言われた。
《ほお、かまどの灰か。用心深いことだな、人の仔よ》
「仕方ないだろう。これを用意しないでおいて、結果として時間を取られることは避けたいんだ」
《彼らは執念深いからな。人の仔のことを忘れていないと思うよ》
「まったくもってその通りだよ」
それから、朝食を摂って、俺たちは往きの最後の行程に入った。
昼までには余裕で付くと思われたことから、これまでと違い、並足と速歩を一対二程度の割合で併用しつつ、のんびりと行軍することにした。
今までしてこなかった、〈聖獣の森〉関連の知識もいくつか伝えることで、なんらかのトラブルが生じたとしても対処できるようにする。
「シチャーが好きだという〈永劫に咲く花畑〉が見たいのですが」
「どれだけ滞在できるかわからないからな……。シチャー、時間がありそうなら案内してやれ」
《わかりました。我が乗り手とあの場所で逢引できるなど、夢のようです。ああ、我はあそこでマイアンと心ゆくまで戯れたい。ふざけあいたい。抱き合いたい》
「シチャーはなんと言っているのです?」
「……夢のような場所でオススメだそうだ」
「そうでしょうね。お花の好きなシチャーのことですから、きっと声が出ないほどに素晴らしいに違いありません。楽しみです、セスシスさん」
「―――そうだね」
まつ毛まで金髪のマイアンが目を閉じると、その端正な顔立ちのおかげもあって、人形のように見える。
口元が少し緩んでいるのは、少女らしくまだ見ぬ美しい風景に思いを馳せているのだろう。
こう見えて、彼女はミィナの次ぐらいに乙女的なのである。
しかし、つくづく乗り手と騎馬の言葉が通じていなくて良かったと思ったよ。
思春期の少年が女の子に夢を抱くのと似たようなものなんだろうな。
まさに正体は知らぬが花さ。
「……しかし、聞けば聞くほど不思議な土地なのですね。〈聖獣の森〉は」
「そうなのか?」
「うん、そうだよね。私たちが聞いていた御伽噺なんかでも結構頻繁に登場するから、身近といえば身近なのだけど、細かいことはあまり知られていないし」
「ええ。『戦士バドオと魔女ミロ』や『ネル・ダガード卿の冒険』の舞台にもなっていたから、小説にもなっているところなのよね」
「あ、懐かしいぃ! 覚えているよ、バドオの伝説っ! あれにもでていたんだよねぇ」
「《青銀の第一王国》よりも遥か以前から存在しているのだから、逸話が多くて当然なんだけどね。それに、ミィナの持っている恋愛小説なんて、ユニコーン絡みが多いわよ」
「ミィはすっごく乙女だから」
どうやら俺が知っている以上に、〈聖獣の森〉については色々な話があるようだ。
人間の側から見た場合と、幻獣の側から見た場合では、見えてくるものも違ってくるだろうし、伝わってくるものも違うのだろうな。
さっきからのタナ達の話からすると、やっぱり人間の英雄絡みのものが多く、逆に、俺が聞いていたものは森の中でのちょっとした問題の話ばかりが多かった気がする。
《人の仔よ、我が家が見えたぞ》
「おい、森が見えてきたぞ。あれが、俺たちの目的地だ」
今歩んでいる丘の先に、繁茂した緑の木々が見え始めた。
〈聖獣の森〉の玄関となる針葉樹林が広がっている。
実際には中に入っても、すぐに〈聖獣の森〉に入れるわけではないが、あそこまで行ってしまえばもう着いたも同然だ。
ただし、そこからはちょっと危険が待っている。
住人たる幻獣や魔獣たちが、舌なめずりをして待ち構えているからだ。
人に友好的な王に支配されているとはいえ、勝手に侵入したものについては当然のことながら罰が与えられる。
その場合、殺されて食われても文句はいえないのが、大陸の掟だ。
それは大陸にあるすべての魔境についての一般常識でもある。
駐屯している騎士団や魔境伯に訴えても、魔境に無断で立ち入ったものについては救出も報復も許可されることはない。
極まれに、魔境を抜けて逃走しようとする犯罪者などがでるが、騎士警察がそいつらを追うことさえ許されない。
まさに、無法地帯。
実力行使のみが支配する地域。
それが魔境なのだ。
立ち入れば、間違いなく危険が迫ってくる。
例えユニコーンに乗っていたとしても、襲われないという保証はないのだ。
まあ、普通に乗り入れてきて、俺のところに苦もなく顔を出すことができる女将軍もいたんだけどさ。
「三人とも、戦える準備はしておけよ。俺たちに友好的な奴ばかりではないからな」
「はい」
「マイアンもタナもできる限り、槍で応戦しろ。近づかれると厄介な奴が多い。遠くから串刺しにしろ」
「……殺しちゃったりしたら、仲間の仇討ちということで一斉に襲われたりしないの?」
「この森は生き死にかけては平等なんだ。獲物だと思ったら襲ってもいいし、襲われれば返り討ちにしてもいい。負けて死んだ方が悪いんだ。そこには文句の挟める余地はない」
「ふーん」
タナたち三人はそれだけで納得した様子だった。
実戦を経た騎士であり、生命のやり取りを日常的に行える戦士だからこその平然とした反応だった。
どんなものとでも戦えるという覚悟がなければこの顔はできない。
マイアンは数ヶ月前のダンスロットとの戦いに気迫で負けて以来、ナオミはオオタネアに完膚なきまでに打ちのめされた時から、そして、タナは初陣で〈手長〉を仕留めた日から。
全員が、最強を目指す戦士となっていた。
……たかだか半年でたいしたものだと俺は思う。
それに比べて俺は。
偉そうにアドバイスやら説教をしたところで、覚悟という面ではこいつらには遥かに及ばない弱い精神しか持ち合わせていない。
正直言って、嫉妬したくなるほどに、こいつらのことが羨ましい。
いつまでたって強くなれない男の僻みだ。
「では、行きましょう、騎士セスシス」
ナオミに促され、俺たちは一定の間隔で針葉樹が生える森の中へ足を踏み入れた。
道らしいものはわずかにあるが、それよりもユニコーンたちの往くのに任せて、道なき平地を進む方が賢明であった。
少なくとも、自分たちの故郷の森である以上、ユニコーンたちを信じて歩いてもらったほうが慣れているだろうし。
針葉樹には、いたるところに、大きな傷がついている。
魔獣たちの縄張りの印だ。
中には自分たちの毛をこすりつけて主張するものもいる。
警告の意味も兼ねているのだ。
ここから先は、魔境だという。
それに気づかないものは確実に殺されるだろう。
最後の親切心と言えなくもない。
《ちらほらこっちを見ているよ》
「上か?」
《おそらくは》
「おまえたちもいるのに、簡単に手を出してくる奴がいるとは思えないが。騎士たちにはああいったが」
《……君の用心深さが役に立ったかもしれないよ》
アーが嘶いた。
すると、他の三頭の肢も止まる。
理由はひとつだ。
突然、俺たちの前に頭上から落ちてきた影のせいだった。
人と同じ形状の四肢を持ち、サイズもほとんど変わらない。
顔の形や目鼻立ちも人と類似しているが、眼だけはまぶたがない白くて丸い球形をしていた。
だが、一番の違いはというと、見た目そのものではなく、その耐性にあったと言えるだろう。
そいつは逆さ吊りのように頭を下にして、俺たちを見上げていた。
尻、おそらくは肛門部から噴出した白い糸を使って、木の横枝から自分を吊り下げているのだ。
こういう行動をとる生物のことを、俺たちはよく知っている。
それは蜘蛛だ。
タナが手槍を構える。
十間(約十八メートル)ほど先にぶら下がっているが、安全圏というわけではない。
先程の落下スピードは予想していないと対応できないほどだったからだ。
「……セシィ、こいつは?」
「文字通りの蜘蛛男だ。上から獲物を狙って落ちてきて、そのままかっさらう。わざわざ顔を出したったてことは、挨拶のつもりなんだろう」
「マイアン、頭上注意」
「槍だと間に合わないね。剣か拳でいこう」
「りょーかい」
騎士たちが迎撃準備を整えていると、前方の蜘蛛男は人に似た口元を尖らせた。
なにやら、もごもごと動かしている。
どうやら人語を喋ろうとしているらしい。
蜘蛛男は人に近い魔物なので、人の行動を真似て色々とすることがある。
言語についてもそうだ。
〈念話〉ばかりのユニコーンよりもコミュニケーションは取りやすい相手なのである。
『ヒトノ仔デハナイカ! ヨクモ、ノコノコト戻ッテ来レタモノヨ』
「……久しぶり」
『二度ト会イタクナゾナイワ、コノ疫病神メ。貴様ハ我ラニ災害バカリモタラス』
「そう言うなよ」
『黙レ、黙レ。マタ、森ニ足ヲ踏ミイレルトイウノナラバ、我ラハ一度ダケハ貴様ト一戦マジエルコトモ辞サズ』
「……ねえ、セシィ。事情は知らないけど、なんか個人的にセシィが恨まれているっぽいよ。クモさん、ものすごーく、鬱憤が溜まっているみたいだけど」
「……」
俺はどうして恨まれているか記憶にあったし、多分、覚えているだろうなあと思っていた。
しかし、まあ、十年前のことをよく覚えているものだ。
蟲よりも人に近いおかげだろうか。
「あの時は悪かった。謝る。もう二度としない。だから、許してくれ」
「……もう少し下手に出てください」
「あの時はごめんなさい。すいません。もう再犯は致しません。ですから、許してもらいたいんです」
「……本気で悪いと思っていないから、さっぱり心がこもっていませんよ」
すぐ後ろからナオミが突っ込んでくる。
口調は丁寧だが、その呆れ返り方にはちょっと軽蔑が宿っていた。
俺に対しては、エイミーあたりとはまた別の辛辣さがこいつにはある。
ちょっと苦手なんだよ。
『ヒトノ仔メ! カツテノ悪業ノ報イヲウケサセテヤルッ!』
「待て、蜘蛛男!」
俺は糸を辿って上に戻ろうとした蜘蛛男を止めた。
頭上からは無数の気配が漂っている。
蜘蛛男はそれなりの群れを作って暮らしているはずだから、俺の予想よりも多くが控えている可能性がある。
通常、頭上からの攻撃というものは想定されていないことから、厄介なものであり、できることならばここは戦いを避けたいところだった。
「これがなんだか、わかるか?」
俺は鞍の後ろに載せていたズタ袋をぽんぽんと叩いた。
灰色の粉がわずかに漏れる。
見せつけるようにしたので、蜘蛛男からはそれがなんなのか完全に把握できたはずだ。
事実、そういう反応を見せた。
『マ、マサカ?』
「そう、そのまさかだ。忘れたわけじゃないよな」
『マタ、ソレヲ撒クツモリナノカッ!』
「ああ、そのまさかだ。〈聖獣の森〉の入口ではおまえらが巣を張っていることが多いからと、俺が友達の忠告に従って用意したあれだよ」
『オイ、貴様、バカナノカ、オイ』
「確か、もう少し行けばおまえたちの巣が見えてくる筈だよな。そこで、これを撒いたらどうなるか、忘れたわけではないよな。蜘蛛男くんたち」
俺は精一杯の怖い顔をした。
脅迫と恫喝するためには必須の顔だ。
だが、それが蜘蛛男に通じたかどうかはわからないけれど。
『……貴様ヲ、巣ニマデ近ヅケナケレバヨイダケダ……』
「ふふん、そんな簡単なことができないと思うなよ」
《……ところで蜘蛛男よ。さっきから気になっていたが、我らのことは眼中にないのか? それはまさに近視眼的としか言えないな》
アーが口を挟んできた。
面倒を避けたいのは、こいつらも同じだからか。
『ユニコーン、邪魔ダテスル気カ!』
《邪魔も何も、この人の仔が我らの友であることは、貴君らも知っているだろう。それに、この度の彼の帰還は、我らの王ロジャナオルトゥシレリアの命によるものだ。邪魔立てするなとはこっちの台詞よ》
『幻獣王ノ……』
《それに十年前と違い、人の仔は分別を弁えた大人になった。君らの巣に対して行なった狼藉を繰り返すことはないと断言しよう》
『ダガ、例ノ粉ヲモチコンデイルデハナイカ』
《護身用だよ。そのぐらいは目をつむってあげてくれないか》
『……』
あれ?
俺の強圧的交渉法と違い、理をもったしっかりとした説得がなされている。
『ワカッタ……。ソヤツト仲間ノカツテノ悪業ニツイテハ忘レヨウ。ワレワレハ巣ニモドル』
《わかってもらえて良かった。蜘蛛男は高潔で理性的な種族であることを再確認できて、我も嬉しいよ》
『フン、世辞ハイラン』
そう言うと、さっきまでの険悪さは嘘のように、ゆっくりと蜘蛛男の代表は上に昇っていった。
あとは、ちょっと拍子抜かれた俺たちだけが残り、緊張がなくなると、木々の間を抜ける風の音が再び聞こえてくるようになる。
「えっと、アーさん。お疲れ様でした」
《ひと暴れせずにすんで不服かね》
「いや、しなくていいなら争いは避けるべきだから、ホントに助かったよ。俺だけだとこじれるところだった」
《君が準備を怠らなかったことも、いい交渉材料にはなっていたのだがね》
「ほとんど、おまえのおかげだ。ありがとうな」
《どういたしまして》
頭上の蜘蛛男たちの気配が雲散霧消したことで、戦闘態勢を解いたタナが言う。
「いったい、どういうことなの? アーくんが話し合いで追っ払ってくれたみたいだけれど、私たちにはちんぷんかんぷんだよ」
「説明、お願いできますか?」
「私も聞きたいです」
「つってもな……」
俺は端的に昔のことを説明することにした。
十年前、初めてこの〈聖獣の森〉に来た時に、森の入口に巣食うという蜘蛛男対策に大量の灰を用意しておき、実際に襲われると面倒なので、さっさとその灰をぶちまけて難を逃れたこと。
蜘蛛男の巣は、蜘蛛の巣らしく粘着性があり、普通なら捕まると逃げることができないのだが、灰に触れると途端にその特質が失われ、ただの弱いゴムの糸程度にまで強度が落ちること。
その時は今回以上に大量の灰を使用したので、当時の蜘蛛男の巣がすべておじゃんになってしまったこと。
俺が〈聖獣の森〉で生活しているうちに、なんとか復興できたのだが、それをちょっと前に俺を訪ねてきた女にまた壊されたらしいこと。
あ、ついでに言うと、実のところ蜘蛛男たちはその容姿に似合わず、人間を食べることはなく、糸に引っかかった鳥や昆虫を主食にしていること付け加えた。
厄介な人間を捕らえることはあるが、すべて糸で簀巻きにして森の外に捨ててしまい、殺すことはしないということも。
以上が、さっきの会話の背景にあった事情である。
「「「……」」」
「あー、納得した」
「セスシスさんのやりそうなことですね」
「ですよねー」
「交渉事がホントにヘタなのは昔からなんですね」
「言われてみれば、騎士セスシスの要求が通った場面って見たことがありません」
「それで、よくもまあさっきの灰を手に入れられたものです」
「食堂の親父さんにも、ぼったくられたんじゃないの?」
それを聞いて、口々に小娘どもが俺のことをボロクソに言い出す。
なんだろう、一生懸命に頑張っているのにこの理不尽な扱いは。
反論しようとしても、どういうわけが何も聞いてくれないみたいなので、憤慨した俺はさっさと森の奥に向かうことにした。
首尾よく問題を起こさずに進めたというのに、まったくどういうことなのか。
――と、いうこともあったが、俺の的確な案内の元、俺たちはついに〈聖獣の森〉の深奥にある王の住まう宮殿にたどり着いたのである。
……言っておくが、この森には本当に危険な魔獣だって山のようにいることだけは忘れないでおいてもらいたい。