嘘をついても
ナオミは嘘をついた。
大丈夫なはずはない。
ただでさえ〈脚長〉という魔物は、ユニコーンの騎士にとっても大敵だというのに、それが〈雷霧〉の濃い霧に潜んでどこからか狙撃してくるというのだ。
もしも〈肩眼〉の異臭を発する血液がセスシスにかかったら終わりだ。
彼のエーテル化は事物万象を読み取ることができるというだけのものなので、接近戦ならばともかく遠距離からの狙撃に対しては極めて有効ではない。
加えて、セスシスには際立った戦技はない。
四方八方から飛んでくる矢を払ったり躱したりするだけの技量は有していないのだ。
セスシスが生き残るためには、彼の騎乗している相方である前の幻獣王“ロジー”の力を解放しなければならないだろうが、それは切り札だ。
ナオミの認識では、最後に彼が相対しなければならない相手は万全の状態で挑まなければならないと考えていた。
今、こんなところで使って疲労を感じさせてはならない。
そして、そのために今まで仲間たちが戦い、時間を稼ぎ、散っていったのだ。
無駄にすることはできない。
ついさっき離れていったタナや、〈方舟〉に残ったマイアン、ハーニェのためにもなんとしてでもセスシスをベストの状態で進ませる必要がある。
だから、嘘をついた。
〈脚長〉の脅威を低く見積もり、セスシスを誤魔化した。
彼は全面的にもと教え子たちを信じているし、疑うこともしない。
教導騎士という身分であるときに、むしろ生徒を教え導く教師としての信念をもって行動していた彼ならばナオミの言い分を鵜呑みにするだろうということはわかっていた。
もしナオミの考えを聞いていたとしたら、さすがに止めただろうことはわかっている。
それほど危険な賭けにでるつもりだったからだ。
ナオミは目配せをしてノンナに自分が残ることを伝えた。
わたしが残って魔物どもを引きつけるから、その間にセスシスを行かせろ、と。
ノンナは最初こそ驚いたが、すぐにその意図を理解した。
彼女たちは将と参謀という一枚岩だ。
考えていることは一目瞭然だった。
それから、左右にいる二人に手で指示を送る。
ハンド・サインというべきもので、声を出せない状況においても一糸乱れぬ部隊行動をするためにナオミが考案し、普及させたものだった。
もとは雷鳴で声の届きにくい〈雷霧〉内で戦う時のために準備したものだ。
参謀からの指示を受けて、こちらの二人もさすがに仰天したようだったが、次の瞬間には納得して受諾する。
ナオミが危険すぎる決意をしたことも必要なことだと理解したのだ。
やはりクゥデリアもミィナも戦士だった。
ここにいる五人の中で、その意味で戦士と呼べないものはセスシスただ一人なのであった。
所詮、セスシスは一般の若者にすぎない。
ただ、そのことを責めるものはいなかった。
戦場に相応しくない普通の青年が、無理を重ねてここにいるのだということを何よりもわかっていたのは彼女たちだったからだ。
逆説的に、だからこそ、セスシスのために戦えるのである。
ノンナが不自然さを感じさせないように誘導して、五騎は再び濃い霧の中を進みだした。
その途中でナオミは少し“エフ”の速度を上げ、ただ一人の男に話しかけた。
「……あと少しで、貴方の戦いが始まる」
この男を待つのはただの死闘ではない。
世界を背負った勝負だ。
その時にはおそらく女たちはなんの手助けもできないだろう。
おそらくは神話の時代の神々の英雄たちのものと変わらぬ激闘が繰り広げられるのだろうから。
「そうだな。正直、気が重い」
表情を見ればわかる。
貴方は気負いすぎている。
楽にさせてあげたかったが、タナなどとは違い、根が生真面目すぎるナオミには難しすぎることだった。
「大丈夫ですよ。みんなが貴方を信じているし、応援している。だから、貴方にすべてを任せられる」
「あんまり期待するな。これでもきついんだ」
そんな簡単な言葉で言い表せないほど重圧を感じているくせに。
「ふふふ。貴方はいつまでたっても変わらない。―――今でもわたしを信じていてくれますか?」
もう随分と昔の、あの懐かしく優しい〈騎士の森〉での語らいを思い出す。
タナに邪魔されるまで二人だけで美しい池を眺めながら語り合った思い出の時間。
そのとき、この人は「おまえを信じているよ」と言ってくれた。
女としてではなく、教え子の女の子に対してのものであったが、そのあたりは都合よく忘れたふりをしよう。
「ああ、前も言っただろ。人のいないところで泣くことを選ぶ女の子を信じない奴はいないさ」
「……昔のことをよく覚えていますね。わたしも忘れていませんが」
忘れるものか。
あの言葉をきっかけにわたしは盾としての人生を始めたのだ。
「……では、わたしの言った『貴方の盾になる』という約束も覚えていますか?」
「当然だ。忘れたことなんかないぞ。まあ、あまりやって欲しくないがな」
「良かった。でも、今までもずっとわたしは貴方をお守りしてきましたよ」
「わかっている。―――おまえが俺の背中を護っていてくれるから、ここまで来られた。おまえに任せればいつだって安心だ」
「そうでしょうとも」
ナオミは口元が綻ぶのを感じた。
嬉しい。
貴方がわたしのことを信じてくれて、わたしの戦いを知っていてくれて、わたしを頼ってくれたことが。
本当に何よりも誇らしかった。
「では、最後まで貴方の背中をお護りしますね」
「任せたぞ、〈盾の聖女〉」
「みんなを、この世界をお願いします。我が連れ添いよ」
最後に一つだけ、ナオミは冒険してみた。
他の連中のように、「夫」だの「旦那様」だのは言えずにちょっとだけ誤魔化し気味だったが、それでいい。
ナオミはこの鈍感男と最後まで連れ添うことを誓った。
貴方の背中をきっとお守りします。
少し不思議そうな顔をしたセスシスの脇から、ナオミは離れた。
嬉しすぎたというのに涙はこぼれなかった。
やはり彼女は人前では泣けない女なのだろう。
ずっと黙っていた“エフ”が心配そうに〈念話〉を送ってきた。
《……ナオミのしようとしていること、我はできるのならば止めたいところだ》
「貴方とセスシスがわたしにしてくれたのと大した変わりはないのに?」
《我は君を絶対に守り切ると誓った。その誓いに反することはしたくない》
「でも、“エフ”はわたしと一緒に戦ってくれるのだろう」
《無論だ。我は君のユニコーン。君の相方だ》
信じて愛する相方までが彼女を支えてくれている。
ならば怖いものはない。
「クゥ、ミィナ、周囲を飛び回っている〈肩眼〉のうち、例の腹の膨らんだ奴だけを仕留めろ。腹に溜まった血を浴び無いように首を狙え」
「……ナオ姉さんは?」
「わたしも一匹仕留める。完全に駆逐しきったら戻ってきてくれ」
「り、了解。行こう、“ゲー”、ミィ」
彼女に付き添っていてくれる二人がそれぞれユニコーンを駆って離れていく。
本来の相方でないとしても、もともと乗馬技術の高い二人だ、なんなくこなしていく。
ナオミも“エフ”を駆って、一匹の〈肩眼〉のところに近寄ると、単槍の一撃で頭を貫きとどめを刺した。
仲間の仇と襲ってくる他何匹かの〈肩眼〉を剣で撃退してから、クゥたちが戻ってくるのを待つ。
手早く片づけたクゥたちが戻ると、ナオミは槍の穂先に貫かれたままの死骸を剛力を持って頭上に掲げた。
騎士団随一の重騎士たるナオミにのみ可能な力技だ。
「ふんっ」
そして、逆手にもった剣で腹を切り裂く。
噴き出した汚濁の血潮を全身に浴びて、ナオミは真っ赤に染め上がった。
芳醇な金髪も鮮血によって無残に汚れ、青銀の鎧は変色した。
死骸を投げ捨てるとナオミは顔の血を拭って、金髪をリボンで留めた。
彼女のイメージカラーともいえる青い色だけが鮮明に映える。
鼻をつく異臭に顔をしかめても、彼女は凛々しく美しかった。
死すら恐れぬ覚悟が沸き立つ美しさを引き立てる。
「クゥ、ミィ、これからすぐに〈脚長〉がわたしを狙撃してくる。その射線を追って、一匹ずつ確実に殺して回ってくれ」
「……わ、わかった」
「了解、ナオ姉ちゃん」
「任せたわよ。さすがに、あれだけの矢を相手には何十発も受けきれないからね」
ナオミの作戦はこうだ。
自分が〈肩眼〉の血を被り囮となることで、〈脚長〉を引きつける。
当然狙われるだろうが、それはすべて受けきることで凌ぎ、その隙に二人の仲間が霧に潜んだ〈脚長〉を丁寧に殲滅していく、というものだ。
〈盾の聖女〉と謳われ、防禦に自信がある彼女だからこそできる策であったが、あまりにもリスクが大きい。
迫りくる何十本もの〈脚長〉の強弓をすべて防ぎきるということが前提なのだ。
一本でも当たれば、その時ナオミは確実に死ぬ。
セスシスのような〈復元〉能力のない彼女では刺されば終わりなのだから。
だが、ナオミは怯まない。
悠然と立ち尽くす。
「“エフ”、〈物理障壁〉は三本以上が同時に来たときに限るわよ。それ以外は温存していくから」
《二本までならば?》
「わたしなら凌げるので不要」
《―――君の度胸には甚だ感服する。怖くないのかね》
「怖いのはわたしが死ぬことでみんなに危険が迫ること。でも、そんなものはわたしが死ななければいいだけの話でしょう。だから、怖くない」
ナオミはかつて死ぬことに怯えていた。
守れないことに怯えていた。
しかし、そんな彼女はもういない。
自分が死に物狂いで生き延びて戦い続ければ、確実に誰かを助けることができるということを知ったからだ。
ならば、全身全霊をかけて生き延びればいいだけのこと。
セスシス・ハーレイシーが教えてくれた通りに。
すでに手になじんだ魔槍〈不破城〉だった。
決して折れることがないという伝説の魔具を手にして、ナオミは調息して〈気〉を練る。
すべての神経を飛んでくる矢の撃墜に費やすのだ。
彼女が一分一秒でも長く粘り続ければそれだけセスシスへの脅威が減じる。
生き延びることができればそれはもっとだ。
であるのならば、あとは奇跡を起こすだけ。
「来なさい、魔物ども。―――〈盾の聖女〉ナオミ・シャイズアルの一世一代の槍の舞を見物させてあげる」
今、ナオミの奇跡すら必要な戦いが幕を上げた。




