地の涯の島
朝になったらしいことはわかるが、濃い靄に隠されていて視界はほとんど塞がれていた。
いや、朝というよりも黄昏の世界に迷い込んでしまったかのように、薄ら寒い光景が続いていると言った方がいいか。
俺たちは、〈転送魔法円〉から出てくるかもしれない〈妖魔〉に警戒しながら、甲板に集まっていた。
予想されていた襲撃はない。
最下層まで行ったマイアンとハーニェがきっと任務を果たしてくれたのだろう。
だが、二人はまだ戻ってこない。
せめて無事でいてくれればいいと願うことしか俺たちにはできなかった。
「……セスシス、あれを」
ナオミが指差した先、船首の海の方にわずかだが黒いものが見え始めていた。
大きさからして島のようだった。
いつのまにか隣にいた“ゆかり”に訊ねた。
「あれが目的地か?」
『そうだね。……この世の涯にあるという運命の火山島〈タカマガハラ〉だ』
俺は耳を疑った。
タカマガハラ……だと?
とてもではないが信じることはできない名前だった。
「なんだ、その名前は?」
『ふむ、なかなかいいネーミングネセンスだとは思わないか? なんだったら命名権をつけてスポンサーを募集してもいいぐらいだ』
「……わざとらしく俺の世界の単語を使うな。無暗に俺を疑わせるような真似をしても、その手にはのらんぞ」
『別にそういうことではないさ。まあ、揺さぶりに乗る聖一郎でもあるまい』
この期に及んでまだ俺に何かを隠しているこいつの言い分など聞くに値しない。
俺は仲間たちを連れて、例のタラップのあたりまで行った。
〈方舟〉が目的地に接岸すれば、自動的に降りる仕組みらしいのでその時間を待つ。
「そういえば、“ゆかり”よ。あなた方がわたしたちに放ってきた刺客はまだいるのか?」
『いるよ』
「……あの島にだろう?」
『正解だ、〈盾の聖女〉。君たちが来るというので、僕たちが用意した最強の剣士があの〈タカマガハラ〉で待っている』
さすがに緊張が走った。
まだ、敵がいるということはわかっていたが、わざわざ最強をつけているのだ。
つまりはそういうこと。
「〈剣の王〉の化身の所持者ということか」
俺の腰に佩かれている剣を見た。
乗船前に、アオとキルコが食い止めてくれたあいつと同格の敵がいるとなると、今度は俺が相手をすることになるかもしれない。
受けも防ぎもできない武器の使い手なのだから。
だが、“ゆかり”は肩をすくめ、首を振った。
『違うね。端的にいうと、ただの人さ。魔具の類を持っていない訳ではないが、それだってささやかなものだ。……しかし、君らが束になっても敵わないだろうということは断言できるね』
真っ先に反応したのはタナだった。
さすがに最強という単語に燃えない彼女ではない。
「私たちが束になっても? そんなに強いってこと?」
『―――ああ、そうだよ、〈騎馬姫〉。今の君よりも遥かに強いね』
「へえ……。面白そうだね」
タナの黒い瞳に火が点った。
聖士女騎士団筆頭騎士のタナを大幅に上回る人間など、この世界にはほとんど存在しないはずだ。
あるとすれば、オオタネア・ザンかシャッちんか……。彼女らでも相当キツいはずなのだから。
久しぶりに見るタナの熱い闘志満々の姿だった。
「それが最後の守護者というわけですか。……ちなみに“ゆかり”さん。他にはあの島にはいないのでしょうか?」
『さすがに、僕の友達を守るためにいくらかの帝国人たちが残っている。もちろん、未来から連れてきた連中だがね。君らにとっては足止めにもならないかもしれないが』
「ご助言ありがとうございますわ。―――ナオミ、〈手長〉と〈脚長〉がいるそうよ。油断はしないでおきましょう」
「了解だ」
ミィナが叫んだ。
「島だよ!」
甲板の縁までいって身を乗り出してみると、ようやく島の全景が拝めるようになった。
それほどの大きさはない。
おそらくは外周部だけでも三町はないだろう。
中央に巨大な尖った山―――休火山のようだ―――があり、そこにいたるまでに岩場と荒れ地が混在している。
草木の類は見えない。
火山から出た溶岩が吹き固まってできた島という様子だった。
殺風景すぎて、〈王獄〉の中の方がまだ眼福だったような気がするぐらいであった。
まさしく一個の“黒”という印象である。
ここで俺を待つという〈剣の王〉の所持者の心にはどんな風が吹いていることだろう。
どんなに寂しい、怖くなるような風が胸中に流れていれば、ここに佇み続けることができるのだろうか。
さすがの俺が同情を感じてしまうような、そんな沈んだ哀しみが島にはあった。
「……な、泣きたくなるような景色ですね」
クゥが潮風に吹かれた三つ編みを掴みながら言った。
同感だった。
最終決戦のために用意された、悪の暗黒要塞があるなんて妄想は抱いていなかったが、やってきた舞台がこんな寂しい荒れ地だというのは意外だった。
むしろ当たり前か。
ここで待つものは、〈王獄〉という地獄で世界を包むことを選んだやつなのだ。
滅びのあとに待つものは、さらなる滅びしかない。
俺たちはそれを防ぐために来たのだ。
ならば破滅した後の世界に近しいこういう地こそが相応しいのかもしれないな。
「〈方舟〉が停まりました」
俺たちは自動的に降りて行ったタラップを降りて、また少しだけ海の上を走った。
この段になってもマイアンたちは戻ってこなかった。
「なあ、“ゆかり”。頼みがある」
『あの二人が甲板まで上がってきたら、保護しておきますよ。ただし、下まで迎えに行ったりはしませんがね』
「いや、それでいい。敵の友達であるおまえにそこまでは頼まない」
『……僕は敵ではないのですが』
「友達を裏切る真似はできないんだろ? だったらこっちの都合は無視してくれてもいいさ」
島に上陸すると、もう一度だけ〈方舟〉を見上げた。
無事に辿り着くことができたのは二人の騎士の―――俺の妻になりたいといった少女たちのおかげだ。
二人を待ち続けたいところだったが、そうもいきそうにない。
俺は〈タカマガハラ〉の中央、火山の先端のあたりに突然発生し黒々と広がっていく見覚えのある霧を睨んだ。
暗雲のごときドーム状の煙。
時折、中から輝くのは生命を焼く稲光。
侵入する物を片っ端から殺していく悪霧。
―――〈雷霧〉であった。
『僕の友達はあれがお気に入りでね。君たちがあれと戦っていると聞いていたからかな。わざわざ準備しておいてくれたようだ』
「悪趣味な……」
「ホント、最悪ですね」
「また〈雷霧〉に飛び込むことになるなんて……。ついてないなあ」
俺たちにとっては、宿命ともいえる儀式魔導の産物を予想もしていない場所で見たことで、全員が困惑気味だった。
大きさは今まで潰してきたものとは比較にならないほど矮小ではあるが、それでも〈雷霧〉は長年にわたる聖士女騎士団の敵だったのだ。
複雑な気持ちになったとしても当然といえる。
「でも、いいんじゃない」
ただ一人軽い台詞を吐いたのはタナだった。
「今まで多くの国や関係ない人たち、私らの先輩や友達を散々苦しめてくれた〈雷霧〉にはっきりとした落とし前をつける絶好の機会じゃない?」
「……そうなのか」
「私らの異名を忘れたの? 〈悪霧を貫くもの〉だよ。……人の世を黒い霧で包み込もうとするものを止めることこそが、私たちの任務じゃないの」
いつもそうだ。
タナは大切な言葉を、必要な時に紡げる能力を持っている。
いや、心を持っているのだ。
太陽のような少女は、ユニコーンを率いる騎士団の姫となり、そしていつでも輝く心でみんなを照らし出している。
尊い一条の光が差し続けてさえいれば、人の世は救われるのだ。
俺はタナの頭を撫でた。
もうそんな真似は似合わない美女になりつつある彼女には不釣り合いかもしれないが、精一杯の感謝のつもりだった。
一瞬だけ驚いて、タナはそのままなすがままにされていた。
眩しい笑顔を浮かべて。
「……おまえの言う通りだ。俺たちはもう〈雷霧〉なんぞには負けない、それどころかあいつらにとっての唯一の天敵なんだ。苦し紛れにあんなものをだしたって、こけおどしにもなりはしないよな」
「そうだよ。ユニコーンの騎士を舐めんな、って感じだよね」
ふと周りを見渡すと、ノンナもナオミもクゥもミィナも苦笑いしている。
腑に落ちたというよりは、呆れかえったという感じだったが、それでもさっき〈雷霧〉を見た時と比べれば肩から力が抜けていた。
こいつらも同じ気持ちなんだろう。
世界も、場所も、仲間が減っても、聖士女騎士団で培った魂は健在のままだ。
であるのならば、いつもと同じ気持ちでいけばいい。
それができるからこそ、こいつらはまだここにいるのだ。
「じゃあ、そろそろ行くか。……じゃあな、“ゆかり”」
俺は“ロジー”の馬上から短い間の道連れに別れの挨拶をした。
《さらばだ、〈紫〉のものよ。余とおぬしはやはり相容れぬようであったな》
『こちらこそ、幻獣王。だが、終の別れというわけにはいかないよ。君たちがすべてを片づけられたのならば、五十六億年後あたりにまた会うかもしれないね』
《……気の長い話だな》
“ゆかり”は他の騎士には話しかけなかった。
もともと人外の存在らしく、人間たちには興味がないのだろう。
騎士たちもあえて触れようとはしなかった。
必要な情報は仕入れたし、もう用済みなのかもしれないが……。
そう考えるとうちの連中は非常に怖い奴らだ。
『またね、聖一郎』
俺たちは馬首を巡らせてユニコーンたちを駆けださせた。
ただあの火山の頂目指して。
新たな〈雷霧〉があそこを中心に発生している以上、〈核〉となるものはあそこにある。
そして、今回に限りあの不気味な眼の塊ではなく、間違いなく〈剣の王〉の所持者がいる。
世界を「時」の流れから切り離し、混乱に導き、滅ぼそうと企てたものが。
六騎のユニコーンの征く様は素晴らしい。
どんな闇さえも貫く白の輝きのようだからだ。
そして、あと数分で黒い汚らわしいあの霧の中へと飛び込もうとした時、俺たちは急停止した。
正確には俺以外の連中がユニコーンを止めたのだ。
俺も一瞬だけ遅れたが、なんとか合わせる。
特に合図があったというわけでもないのに、示し合わせたかのようにピタリと停止させるところがこいつらの凄いところだった。
だが、なぜ、急停止したのかは俺にはわからなかった。
「ど、どうした?」
思わず声が上ずる。
俺にだけはわからない何かが起こったというのだろうか。
おかしなことに、全員が右手にあるなだらかな丘を一心不乱に見つめている。
そこに何か恐ろしいものがいるかのように。
「……おい」
そばにいたミィナの肩に手をやって気がついた。
震えていた。
俺にでもわかる、明らかな恐怖による怯えのために。
「どうしたんだ、おまえら……?」
ミィナだけではない。
ノンナも、クゥも、ナオミも、そしてあのタナでさえが額に汗を浮かべていた。
「セスシス殿は感じなかったんですか?」
「何をだ」
「―――あの、圧倒的な剣気をですよ」
ミィナはひりだすように喉の奥から声をだす。
口の中がまるでからからに乾ききったかのようであった。
俺と会話をしながらも丘の上からは目を離さず、凝視し続けている。
「剣気……だって?」
俺も真似をして丘を見た時、いきなり背筋が寒くなった。
背骨に氷柱を突っ込まれたかのように。
そして、見た。
何もない丸坊主の丘の上に一人立つ、鎧の騎士の立ち姿を。
邪を断つ聖なる青銀の鎧に、白いマントを翻して立つ姿を。
さっき“ゆかり”が口にしていた―――最強の守護者の姿を。
俺みたいな剣の心得のないものに、ここまでの距離を離れていてもかけてくる絶対的な重圧の放出者を。
「まさか、あれほどとは……」
ナオミが汗をぬぐった。
こいつだって、聖士女騎士団では序列四位の騎士だ。
ただの女の子ではない。
それがここまで怯むなんて……ありえない。
「セスシスさん、ここは逃げましょう。一刻も早く、あの〈雷霧〉の中に突入して目的を果たすことを優先すべきです。今までのように相手をしている余裕は、あの敵相手にはありえません」
ノンナまでが消極的だった。
序列五位のノンナまでが。
「ボクたちが束になってかかっても倒せるかは怪しいよ、アレ……。万が一にだって勝ち目なんかないんじゃないかな」
「そうよね……。アレとは戦うなんてことが信じられない」
「オオタネア様よりも凄い剣士がいたなんて……嘘でしょって感じ」
ミィナが弱音を吐き、あろうことかクゥがどもることを止めるほどに緊張しきっている。
だが、俺も同じ気持ちであった。
アレはやばい。
どうしょうもなくヤバい。
あのオオタネアよりも桁違いで恐ろしいレベルなのだ。
それは、近寄ることすら最悪を意味する。
勝ち目?
そんなもの、小指の先ほどもない。
ならば迂回して進むしかないだろう。
運がいいことに、あの敵の立つ丘はわずかに〈雷霧〉からは逸れている。
まっすぐにいかなければぶつかることはない。
敵となりえぬほど、敵と認めることは死を意味するものと戦うことほど愚かなことはない。
アレはそういう類のものだ。
だが……
だが……
「じゃあ、あいつの相手は私がするね」
と、朗らかにあっけらかんと言い放つ奴がいた。
「おまえ……」
振り向いた先にいたのは、
「あんな化け物みたいな剣士と戦って、ちょっとでも勝ち目があるとしたら、それは私だけだからね。―――聖士女騎士団の筆頭騎士の私だけ、だね」
タナ・ユーカーは平然と名乗りを上げた。
いつもと同じように。
さっき〈雷霧〉に向けて駆けだした時を彷彿とさせる、暢気な声色とともに。
黒い瞳に絶対不敗の勇気を灯して。
「私があいつを倒せばいいんでしょ」




