風の中で……
蒼穹はどこまでも続いていた。
わずかに吹いている風も心地よい。
こんな天気のいい日にはお弁当をもって散歩したいな、と騎士の一人が言う。
俺も同感だった。
バスケットの中にほんの少しでいいから葡萄酒が入っていれば、さらに文句はない。
あまり虫のいなさそうな芝生を見つけて、そこで夕方までのんびりと昼寝をするのもいいかな。
こう言っては何だが、汗水かいて仕事をする気にはなれない陽気だ。
「働きたくないな」
《―――友よ、君がこれから向かうのは戦場だよ。そんな暢気なことを言っていていいのかね?》
「わかっている。だけど、これだけのいい天気なんだ。お仕事をサボりたくなる気分になったっておかしくはないだろ」
《わからないね。余と余の家臣たちはそもそも人の仔のように労働をするという概念がないから、働くことと余暇の区別がつかん。だから、その二つを分けて行動する人の仔の考えが理解できかねるのだ》
「……また面倒なことを。だから、一言でいえばおまえらとだらだらしていたいということだ。ついでに酒があればなおいいってだけさ」
《なるほど、いつもの友の生活だな》
「……毎日、俺がサボっているみたいな言い草はよせ」
俺が乗せてもらっている元幻獣王ロジャナオルトゥシレリア―――通称”ロジー”とのんびりと会話をしていると、隣を進んでいたこの部隊の長であるノンナ・アルバイが口を挟んできた。
鮮やかな赤毛と欠点のない完璧な造形。
俺の知る女たちの中でもこれほど整った美形はまずいない。
そのうえ、心優しく騎士としての技量も万全に備えているという傑物である。
この部隊は聖士女騎士団十三期が中核となっているため、自然と十三期のリーダーであるノンナが率いることになっていた。
「セスシスさん、少しご相談が……」
「なんだ、面倒事か?」
「いえ、大したことではないのですが、隊の何人かが神経質になっていまして」
「まあ、決戦前だからな。そういうこともあるだろう。で、どうしてそんなことになっているんだ」
「あれです」
ノンナが指差した。
かなり納得できた。
それは俺たちの後についてくる黒い鎧の軍勢であった。
聖士女騎士団の纏う青銀に輝く鎧とは異なる、黒い光沢におそらくは銀メッキを施した各種部位を持つ、とげとげしい鎧。
見覚えがあるのはバイロンを襲った〈雷馬兵団〉のものと意匠が似ているからだろう。
陣中にはためく旗は、見覚えのある白い宝玉に、魔導の光を顕す三条の雷、そして永遠の叡智を模した樹を印したデザインであった。
俺たちからすると禍々しい〈妖帝国〉の国旗である。
つまりは、俺たちの後を帝国の大軍勢が追ってきているのだ。
たった二十一騎の俺たちのあとを、明らかに万に達している黒い魔群が従っているようにみえる異様な光景だった。
彼らはほんの少し前までは斃すべき敵であり、憎むべき悪であったのだが、今となってはそのような理解しやすいポジションでさえなくなっている。
俺がいるこの人類守護聖士女騎士団にとっては、彼らとて護るべき人類の一員なのだ。
この騎士団の戦いで真っ先に救われるのは彼らであることは間違いない。
「……〈王獄〉に俺たちが突入するまでは護衛したいと言っているだけだ。放っておけ」
「しかし、ああもぞろぞろとついてこられても……」
ノンナは嫌そうに美貌をしかめる。
脳裏に浮かんだのは、俺の世界でのアイドルという人気歌手の移動を追っかけるファンの群れのイメージだった。
一応、立場は弁えているのか必要以上に寄ってこないし、サインを求めたりもしないが、後ろから隙を見ては写真を撮ったり執拗に顔を眺めつづけたりするので、どうしても鬱陶しさが消えない感じの。
帝国軍自体はそんな気がないだろうが、はっきりいってそんな風にしか見えない。
「―――諦めろ。おまえたちは綺麗で可愛い、この世界の聖女なんだ。信者が送り狼のように集まってくるのはしょうがない。美人につきものの飾り物だと割り切れ」
「あれがアクセサリーですか?」
「人類史上、あそこまで金のかかった飾りはそうはない。口説きにきた男を振った数を自慢するように、女の勲だと騎士たちには説明しておけ。アオあたりなら喜んで受け入れるだろう」
「まあ、そうかもしれませんね。王都に駐屯していたころは、連日のように殿方が自分たちを誘惑に来ましたから、その延長だと思うことにしましょうか」
「……そんなことがあったのか?」
初耳なので、ちょっと興味を抱いた。
こいつらが王都にいたらしいことは知っていたが、その期間俺は”ロジー”と共に帝国の内地を旅していたからだ。
俺のいない間、どんな出来事があったか知っておきたいという気持ちもある。
すると、
「自分たちがよその男に粉をかけられたのが悔しいですか? セスシスさん?」
と、意味ありげな顔をされた。
だが、悔しいとかそういう感情はないような気がするので、「まさか」とだけ応える。
「うーん、その程度では嫉妬してくれませんか。かといってあまり他の男の影を増やすと逆効果ですし……」
ノンナのわけのわからない独白を無視する。
たまに彼女は俺と話しているときに自分の世界に入り込んでしまうので、扱いが面倒くさくなることもあるのだ。
「でも、セスシス。あの帝国軍よりももっと深刻なものがあるんです」
後ろから俺たちの間に割り込んできたユニコーンの騎馬があった。
ユニコーンは“エフ”。愚鈍だが心優しい、熱い魂をもった一角聖獣だ。
その乗り手といえば、一人しかいない。
「なんだ、ナオミ。まだ問題があるのか?」
「ああ、そうだ」
突撃馬上槍と短槍、そして他の仲間の物よりもやや武骨な青銀の鎧をまとった青い少女―――ナオミ・シャイズアルが言う。
この部隊ではノンナの副官、そして参謀を兼ねる才女だ。
防御に特化した武技と鋭い読みを得意とするだけでなく、仲間内の不安や疑問を掻き集めるという調整役も彼女の仕事だった。
「そういうのは出陣前に片づけておけよ」
「出来ればよかったんだけど。出陣したあとに起きたことについては、わたしとしてもどうにもならない。だいたい、セスシスなんてほとんど仕事をしないで私任せだったくせに、そういう偉そうな口を利かないでくれ」
「いや、ま、確かにそうなんだが……」
「―――わたしの夫でもないくせに……」
非常に気分を害したらしいナオミがつんとした無表情になったので、俺はあたふたしてしまう。
それなりに付き合いが長いこともあり、ここでナオミにへそを曲げられると大変なことになるのがわかっているからだ。
「なあ、そういうことを言わずに、機嫌を直せよ」
「嫌です。だいたい、セスシスは勝手なんです。最初に〈騎士の森〉に来た時にだって……」
と、昔の愚痴を言われそうになったとき、俺の視界が夜になった。
大きなものの影に入ったのだ。
だが、四方を見渡したってここは帝国特有の平野であり、ビルのような巨大な建物は見当たらない。
では、何の影なのか。
俺が上空を見上げると、そこには巨大な翼をもって天を羽搏く長い首と尾をもつ怪獣の姿があった。
禍々しい分厚い鱗と凶器となる鉤爪、すべてを燃やす毒液を発する口は馬を三頭は同時に飲み込めるほどにでかい。
数週間前に受けた傷跡はまだ癒えていないはずだが、それでも飛ぶ程度ならば支障はないのだろう。
すべての天空を統べるといっていい巨躯の怪物であった。
ドラゴン―――火竜の族頭ウクラスタ。
かつて俺の持つ〈剣の王〉の化身と戦い一敗地に塗れる最強の魔獣にして帝都の守護者。
それが俺たちの頭上を高らかに舞っているのだ。
おそらく、帝都の守護者として異国からの敵である俺たちを見張りも威嚇するためだろう。
唸り声の一つもあげず、ただ海を回遊する魚のように飛び回っている姿ははっきりいって威圧的だ。
「セスシス殿ぉ、あれ、鬱陶しいんでなんとかしてください」
「同意見です。私ら、トカゲ嫌いなんですよ。あんなのが目につくところに居たら撃ち落としたくて仕方がなくなります」
突然、苦情が殺到しだした。
俺たちの会話を聞いていた騎士たちが口々に陳情しはじめたのだ。
全員の顔に浮かぶ嫌悪に満ちた顔つきだけでなく、ぐいぐいと押し込まれるような迫力にちょっと怯んだ。
冗談半分だと思っていたが、そういう訳ではないらしい。
「ナオミ……?」
「セスシス、仕方がないんです。我々は、アレの眷属に仲間を七人もやられていますから。見ただけで怖気が走るのは免れない」
「シャーレやアンズたちのことか……」
「はい。十五期はともかく、十三期と十四期はあのトカゲには嫌悪感しかわきません。あんなものが頭上を飛び回っているというだけで不快なんです」
「そうだな」
俺は事後報告でしかオコソ平原の戦いを知らないが、彼女たちは実際に戦って少なくない犠牲を出している。
そうであるのならば好感などもてるはずもない。
状況を納得すると、俺は"ロジー"に言った。
「ウクラスタにここから遠ざかるように〈念話〉を発してくれ。おまえのものなら届くだろう。いくら帝都の守護神といえど、帝国のためにも戦う俺たちを威嚇し続ける態度は許せない。もし、これ以上、こちらの神経を逆なでするのならば、俺が殺すと伝えろ」
《殺せるのかね?》
「俺の腰にある〈神器〉はなんだ?」
《確かにね。あいつにとってはトラウマものであることは間違いない。では、伝えるとしよう。やや大声になるが勘弁したまえ》
そうして、”ロジー”は全身に一瞬だけ魔導をいきわたらせると、
《聞け、この裏切者にして醜きオオトカゲめっ! 余と余の友、そして同胞たちは貴様の間抜けた爬虫類面を見ることが我慢ならぬほどに不愉快であり、吐き気を催すほどに耐えがたいっ! そのまま、蛭と虫の湧いた沼地にでも戻り、トカゲの本領を発揮して這いずり回っているがよいっ!!》
すべてのものに聞こえるような、前の幻獣王ならではの大音声の〈念話〉を発した。
決して怒鳴ったようには思えないが(ユニコーンは喜怒哀楽のうち、怒というものがほとんど欠けている)、内容からは明らかに怒りがこめられていた。
だが、これでは誇り高い火竜の族頭のプライドを傷つけて、意味のない戦いが起きてしまうのではないかというぐらいに辛辣なものであった。
事実、その〈念話〉を聞いて、無言のまま、ウクラスタは俺たちの進行する方向にゆっくりと降り立った。
こいつが喋ることは確認しているのだ、無言というのは不気味だ。
すぐにでも口中に毒液を溜めて、発火する竜の吐息を撒き散らしそうな緊張感が漂う。
聖士女騎士団の騎士たちが馬上槍を構える。
恐れはない。
今の彼女たちにとって火竜ごときはいくら族頭とはいえ、倒せない敵ではないからだ。
先頭に一番槍を自負し、〈竜殺し〉という異名を持つミィが進みだす。
いざ戦いが始まったら、〈彗星〉がいの一番に突っ込んで、ウクラスタの喉を貫くことであろう。
しかし、ウクラスタはしばらく沈黙したのち、鎌首をあげるどころか、下げた。
まるで平伏するかのごとく。
《一角聖獣ノ騎士ドモヨ! 我ハ火竜ノ族頭、ウクラスタデアル! 汝ラノ告ゲタキ議ガアル!》
まず出たのは名乗りだった。
少なくとも問答無用で戦いになるということだけは避けられたようだが、いったい何のためなのかは皆目見当もつかない。
俺は"ロジー"を小突いた。
すると、《何をする》などとほざくが無視だ。
「なんのつもりなんだ、あのトカゲ野郎」
《余に聞かれてもな》
「なんでも知っているんじゃないのか、幻獣王さま」
《知っていたらトカゲごときに背かれたりせんよ》
「もっともだな」
どうやら元の飼い主にすらわからないらしい。
何が起こるかわからないということならば、最悪に備えるのが聖士女騎士団の不文律だ。
火竜との戦い方については、一度体験している連中が抜かりなく伝達して共有してあるはずだ。
帝都にくると決まった時から、相手方に対するすべての情報を洗い出し、ありえるすべての状況を検討することを怠る女たちではない。
自分たちの戦いを貫けば勝てるなどという理想論は持たず、勝つためにはありとあらゆる想像をめぐらし敵を倒すことにのみすべてを賭ける。
だから、例えウクラスタが立ち塞がろうとも彼女たちは決して怯みはしない。
俺も騎士たち同様に武器に手をかける。
《―――人ノ仔ラニ勝利ヲッ!!!!!》
口から毒液みたいなものを飛ばしつつ、火竜は吠えたてた。
一瞬、何を口走っているのかわからなかったが、すぐに脳が意味を咀嚼する。
なんだ、こいつは、俺たちに勝利のエールを送っているのか?
《神代ノ悪夢ト混沌ノ嵐ニ立チ向カウ、コノ勇気アル小サキ定命ノ者タチニ竜ノ祝福ヲッ!!!!》
地平線のかなたにさえも轟き渡るような咆哮とともに、火竜は折れた腕さえも天に向けて捧げる。
耳をつんざく〈念話〉ですら、ただの小川のせせらぎのようであった。
だが、その意気はすべてのものたちの心に伝わったのであろう。
《我ハ、魔獣。人ノ仔ナド認メヌ。ダガ、オヌシタチハ別ダッ!!!!!》
毒液ではなく、光の吐息を太陽に放つウクラスタ。
《ゴ武運ヲッ!!!!》
かつて人が聞いたことのない、大魔獣の、巨竜による激であった。
おそらく人類史上、このような激励を受けたものはいないであろう。
それほどまでにありえない光景なのだ。
およそ人に対するものとは思えない激のすべてを聞き終えた後、一人の騎士がユニコーンとともに前に出る。
輝く双剣を佩いた、騎士団最強の騎士であった。
黒髪がたなびく姿は、もう美しい大人の女のものであった。
「我らへの過分な激励、痛み入る」
タナは剣を引き抜き、巨大なる竜に掲げる。
「偉大なる竜の族頭よ。汝の眷属に告げよ。汝の主に告げよ。我らの後に続く帝国の騎士たちよ。貴殿らの仲間たちに告げよ。貴殿らが守る民に告げよ」
そして、
「散っていったものどもよ、ここに聞け。―――我らはこの世界を害するものたちに屈しない騎士団である。―――我らは生きとし生けるものの明日を勝ち取る騎士団である。―――天が遣わされた真なる〈ユニコーンの騎士〉セスシス・ハーレイシーとともに、あの〈王獄〉を破壊することを誓おう。汝ら、貴殿ら、あまたの民よ、希望の灯を点すがいいっ! すでに我らは―――人類守護聖士女騎士団はここにいるのだっ!!!」
長い長い沈黙が落ちたのち……
ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!
と、俺たちの後方に控えていた帝国のすべての騎士たちが歓声を発した。
中には喚声といってもいい叫び声があったが、それも自分の心の裡に湧き上がったとてつもない衝動を抑えきれずに出してしまったものだろう。
指揮者はいない。
タイミングを教えるものはいないのに、男たちは喉も張り裂けんばかりの声をあげてタナ・ユーカーの言葉に応える。
聖士女騎士団は彼らの敵なのだ。
殺し合いをする宿命のはずなのだ。
だが、彼女たちはたったの二十一名で死地へと旅立つ。
自分たちの国のためでもなく、帝国を含めたすべてのものたちのために。
たとえ、この先に待っているものが正真正銘の帰り道のない地獄のどん底だったとしても。
その戦いに付き添えない、後に続くだけしかできない男たちは、だから、その彼女たちのために声をあげるしかないのだ。
勇気を、存在を、祈りを、すべてを声に乗せて。
「……なあ、おまえたち」
俺は青い天に向けて語りかけた。
「俺さ、わりとこの世界のことが好きになっていたみたいだよ」
十五陣の気持ちのいい風が俺の背に吹き付ける……。
その風がすべて一期の戦死したあの子たちの魂であることを俺は願う。
「見てろよ、おまえたち……」
空にはもう月は浮かんでいなかった。
「俺は償いのためだけじゃなくて、俺の意志でこの世界を守ってやるよ」
―――気がついた時には、もう、心地のいい風は止んでいた。




