〈妖魔〉の所業
長い首を気だるそうに横たえ、大地で羽根を休めた轟龍の背中に設えられた竜専用の鞍の上には、人と同じ四肢を持ったものが躰を抱え込むようにして座っていた。
ぴくりともしない。
すでにその生命の灯が消え去っているのは明白。
〈王獄〉に突入後、彼がいつごろに亡くなったのかはわからない。どうして死んだのかさえも外傷が見当たらないことから不明だ。
だが、その死因よりも何よりも、魔導師たちが目を見張ったのはその変貌であった。
友である魔導騎士ナウフェが顔を背けた。
それが自分の友の末路だと認めることがすぐにはできなかったからだ。
「ナウフェ殿……」
「わかっている。だが、容易く直視できるものではない」
「……確かに」
魔導師はおそるおそるメニアスであったものに近づいた。
そして触れてみる。
かつて自分たちと変わらぬ長さであったはずの腕に。
今は、約二倍の長さにまで伸びていた腕に。
とある魔物に酷似していた。
人の形をした蜘蛛。
そうとしか見えぬ姿だった。
「どう見ても……〈手長〉のものですぞ。肌……というか皮の質感といい、ざらざらとした産毛といい。おい、お顔を少し動かせ」
「わかりました」
魔導師の部下が突っ伏した姿勢のまま、下を向いた姿勢になっているメニアスの死体を動かした。
死者の首はまだ死後硬直もないからか、簡単に横を向いた。
部下が息を飲んだ。
かつてメニアスであったものの顔貌に魔物の面影を見てしまったからだった。
メニアスの豊かであった髪はすべて根元から失われ、見事な禿頭となっていた。
それだけではなく、整っていた歯並びはごちゃごちゃと乱れ、鼻は凹み、異常なまでに涙袋が肥大している。
かろうじてメニアスであったことが判別できる部分はあったとしても、到底つい数時間まで保っていた面影はなかった。
「メニアスよぉ……」
ナウフェが友の名を呟く。
もうこの世にいない友の名を。
彼の友は、異常なほどに両腕が伸び、そして人であるにもかかわらずおぞましい魔物の姿に成り果てて死んでいた。
誰の目にもわかっていた。
このメニアスの死の様子が、なにを意味するのかを。
「やはり噂は真実だったようですな」
「―――上に報告いたしますか。まだ、正確な検証は終わっていませんが……」
「すぐに行いなさい。確証を掴むまでここで情報を止めておくべきではありません。悪い情報はすぐに上げて、良い情報は精査してから報告するのが正しい伝達の仕方というものですぞ」
「わかりました」
魔導師の指示を受けて、部下たちは動き出す。
正直な話、簡単に物事が進んだと魔導師は感じていた。
本当ならば、メニアスの報告を聞いた上で彼の証言を検証する予定であったのに、もっと容易く仕事がおわったからだ。
〈王獄〉に入ったものが辿る末路というものを、証拠つきで確保できたのは幸いであった。
それがどういう仕組みなのかまではわからない。
たぶんにそれが魔導的なものだということは判明していたとしても、それについては絶対的な決め手に欠けるのが現状だ。
しかし、結果はでている。
証拠という形で。
〈王獄〉に突入した空騎兵が、その中で死に、姿かたちが〈手長〉となって戻ってきたという最悪の証拠が。
この事実を実のところ帝室の魔導師たちは予想していた。
おそらくはこうなるであろうと。
それが本人には秘密の外道な人体実験であったとしても、やむにやまれずにしたことであり、許されるものと確信していたのだ。
魔導の深淵を覗き込むためならば倫理を破棄できる、魔導師の闇を体現したかのごとく。
「……貴様たちはわかっていたのか」
「何をですかな?」
「〈手長〉どもが人間の成れの果てだということを」
「おそらくは……程度の認識でしたが」
「〈王獄〉の中に入れば、こうなるということもか?」
「はい」
魔導師は嘘をつかなかった。
だから、ナウフェは握り締めた拳を、その顔面に突き立てることはしなかった。
彼にはメニアスの死が〈白珠の帝国〉にどれだけの利益をもたらしたかを正確に把握できてしまったからだ。
「……一刻も早く〈王獄〉を潰さねばならんな」
「そうですな」
「帝弟殿下へのご報告は私も行く。実際にこの眼で見た魔導騎士の説明があれば、議会への話も進みやすいだろう」
「―――ありがとうございます」
―――腹中へ取り込んだものを魔物へと変える怪奇事象〈王獄〉。
それが刻一刻と帝国の領土を蝕んでいることを、未だ帝国の国民たちは理解していなかった……。
◇◆◇
「〈手長〉や〈脚長〉が人間の成れの果てだということなのですか?」
オオタネアが問いかける。
皇帝は鷹揚に頷き、
「正確に言うのならば、我が臣民の未来の姿だよ。その未来がいつ頃なのかについてはまだはっきりとした定説はないのだがね」
「それでもおおよその予測は立っているんだろ。教えてくれ」
「我が帝国魔導院の見立てでは三百年後といったところだそうだ」
三百年で、人があそこまで退化するというのか。
いや、退化と断じるのは早計だ。
あれが進化の一形態の可能性はある。
もっとも、あれを進化と呼ぶにはかなりの語弊がある。一番しっくりくるのは、変化というか変貌という言葉だろう。
とはいえ、人間がたったの三百年であんな風になってしまうものなのだろうか。
「君がギドゥとともに接触した個体は、およそ百年後の個体であったらしいよ」
唐突に帝弟が口をはさんできた。
隣にギドゥが寄り添っている。
なんというか隠しきれない愛人同士の親密さを感じさせる距離感だった。
いくら鈍感な俺でも、ギドゥと帝弟の間にそういう関係があることはわかった。
一言で言うと「できてる」だ。
そうなると、俺が帝国内を旅をしていたときの情報はギドゥから漏れていると考えるのが妥当なところだろう。
あいつについては最初から裏切り前提で信用なんてしていなかったから別にショックはないが。
それよりも問題なのは、あの施設にいた銃をつかう〈手長〉もどきの正体だ。
「百年後だと?」
「ギドゥの見立てだとね」
帝弟は少し誇らしげに言った。
部下のたてた手柄を自慢したいのだろうか。
それとも愛人の?
まあ、それ自体はどうでもいいことだが、皇帝といいその弟といい、俺が考えている以上にフレンドリーなのは参った。
「確かにあの〈手長〉もどきは普通とは違っていた。だから、もどきとつけたわけだが……」
「君が持っていた銃なる武具を使いこなしていたのは、帝国臣民としての知恵がまだ残っていた証だろう」
銃という人の武具を使いこなし、こちらを襲ってくるやり方も、言われてみれば頭脳的だった。
戦術的撤退や待ち伏せなどを〈手長〉はしない。
単なる獣ではなくまだ人の理性を持っていたことをうかがわせる。
しかし、百年後とはどういうことだ。
「今から十年後、この〈白珠の帝国〉において何かが起きる」
皇帝は重々しく告げた。
「それが何であるかはまだ余らにもわからない。ただ、それによってこの国土に、余の世界に規定値以上の魔導力が満ち溢れることになるらしい」
「魔導力が満ち溢れると、どうなるんだ?」
「最初は変わらんよ。魔境の魔獣が活性化する程度だろうね」
「―――時間が経てば?」
「人のみならず生物の生態系に致命的な歪みが生じる。あの〈雷霧〉跡のように」
「……」
濃度五倍の〈雷霧〉が数年居座っただけで、帝国の東方は酷い有様になっていた。
虫でさえ繁殖に手こずるような、生命のためにはならない世界に。
あれが恒久的に続くというのならば、世界は完全に様相を改めてしまうことだろう。
魔導力自体にはそれほどの害がなくても、浴び続ければ確実におかしくなる。
ある意味では、俺の世界の放射能のようなものだ。
そう考えると、魔導力と放射能には共通点がある。
メリットとしては両者ともに人々の生活を便利にして支える効能があるということ。しかもどちらも安価だ。
デメリットとしては何かの問題が起きた時、対処することが極端に難しいということだった。
どちらも、メリットとデメリットの振り幅が極めて大きい。
扱うものたちの意識の高さが求められることもある。
「十年後……か」
《なるほど。どうりで余の未来視が十年後以降を捉えないわけだ》
「どうした“ロジー”」
《覚えているかな、女将軍。汝に語ったことを》
「はい、幻獣王」
《あの時、汝に未来が見えぬといった理由がここで明らかになった。―――十年後に帝国で起きる災害のせいのようだ》
「災害についてはやはり貴方様でもわかりませぬか?」
《わからぬよ。だが、その原因もはっきりした》
「どういうことでしょうか?」
オオタネアがおとがいに指を添えて首をひねる。
ちょっと可愛かった。
《何者かが時の流れを断ち切る〈剣の王〉を振るい、十年後の未来を現在より切り離そうとしているからだ。その曖昧な因果への干渉が予定されているから、通常流れるべき因果律がおかしくなっているのだ》
「幻獣王の御力をもってしても?」
《時の流れを支配するものは〈紫の神〉とその骨より生じて鍛えられた〈剣の王〉のみ。余の力程度では覆すどころか干渉することすら能わぬ》
「なるほど……」
この場にいるもので、この会話の内容がわからないものはいなかったはずだ。
誰もが状況を把握しきれている。
問題は、”ロジー”の干渉さえも拒む〈剣の王〉を振るったものが誰で、なんのためか、である。
それについては皇帝が語る。
「おそらく十年後を切り離そうとしているのは余とその手勢でしょう、幻獣王」
《魔導力の増加によって世界の濃度が増したことによって、人間が〈手長〉化することを防ぐためか》
「はい、そうです。そして、そのための準備をしております」
《それだけでもあるまい》
「ええ、その未来を切り離せば、現在行われている未来からの侵略行為も同時に終わらせられるでしょう」
未来からの侵略行為。
すべてはそこに行き着くのか。
要するに、時系列をたどれば、十年後に何かが起きて魔導力の濃度が上がる。次に、その濃度の悪化が人間を魔物に変える。そして、その魔物がどういう訳か、過去にさかのぼって攻めてきている。
こういうことになるのだ。
それは帝国も混乱するだろう。
ただの侵略とはものが違う、ある意味では次元の異なる内乱なのだから。
しかし、ここで疑問が生じる。
〈手長〉はどうやってこの時代にやってきているのか。
俺の世界ではタイムスリップなるものは、ほとんど空想の世界のものでしかない。科学的な考証はされていたが、実現できるとは思われていない。
この世界においては俺の手元にある〈剣の王〉を見ても、神話を聞いても、時の流れというものが存在し形而下のものになりうるとされているのでタイムスリップもありうるものというのはわかる。
おそらく、歴史上には過去や未来を行き来したものは頻繁に現れていることだろうし。
だから、そういう仕組みがあると考えるほかはない。
未来にいる人類の子孫が過去に遡って襲ってくることだってありえることなのだ。
いわゆるタイムパラドックスがどうなるかはまったく不明だが。
ただし、それがどうして引き起こされたかについては分析する必要がある。
何万匹ともいえる魔物たちが、時空を超えてやってきているのが、たまたまや偶然のはずがない。
そこには明らかな意志がある。
誰かの思惑がある。
実際に〈剣の王〉というタイムスリップめいた行動を可能にできる神器が存在する以上、背後に隠されている企みを看破する必要はあるのだ。
「この時代に〈手長〉を送り込んでいるのは誰だ?」
「さて」
皇帝はとぼけた。
しかし、はぐらかしたともいえない。
「ごまかすな。目星はついているはずだ」
「手口はわかっているよ。三百年後にも存在するであろう〈剣の王〉を用いて、時の巻物を遡らせたのだ。世界が存続する限り、時の巻物は歴史を刻み続けるからね。それは防ぐことができない」
「帝国―――というかあんたらの一派は結局、こちら側から再度〈剣の王〉をふるって時の流れを切断するつもりだというのもなんとかわかったよ。そんなことがパラドックスなしにできるかどうかはわからないが、最大の魔導文化をもつ帝国ができるというのならできるんだろうけどな」
そして、
「この時代で〈剣の王〉を振るうために俺が召喚されたのは、そういうことか。〈手長〉との戦いを終わらせるためなんだな。なるほど、国の予算をどれだけ傾かせても召喚したくなるわけだ」
わかったよ。
俺の使命というか、運命も。
この世界の人間では触れられない〈剣の王〉という神器を操り、〈手長〉を送り込む未来を断ち切るために用意された道具。
それが俺だ。
〈妖魔〉として召喚されたのはそのためだ。
うまくいっていれば、これは十年前に終わっていたのだろう。
帝国が用意した〈剣の王〉を俺が振るい、未来を切り離すことで。
だが、俺がザイムから逃げ出したことでその機会は失われ、帝国は〈雷霧〉という隔離場所を作ることで時間稼ぎを―――緊急避難を続けた。
結果として、十の国家が滅び、何百万人もの人間が死んだ。
バイロンにおいても多くの民が死に、俺の友人もたくさん亡くなった。
しかし、それは〈雷霧〉によって始まった戦いの結果なのだ。
要するに、すべては俺のせいなのだ。
俺が十年間も世界を闇に閉ざしたのだ。
すべては俺の責に帰するということか。
つまり、罪人は俺一人。
俺は唇を噛み締めた。
「聖一郎」
突然、机の上に置かれた手をシャッちんが握ってきた。
思わず、そちらを見る。
彼女の眼力が強く俺を射る。
「おまえに咎はない。罪があるとしたら、それは私と帝国のものだ」
左腕にも強い力がこもった。
オオタネアが握っていた。
「貴様はこの世界の事情に巻き込まれただけに過ぎない。―――貴様が負うべきものはどこにもないのだ」
そして、二人は―――
俺の首をむんずと掴み―――
それぞれがキスをしてきた―――
「……よその世界の都合に振り回されるな。貴様は、私と、私の大切なものを救ってくれた恩人なんだよ。誰が何を言おうと、貴様の全ては私が肯定してやる」
「私はおまえがいなければ生きていない。おまえがしてきたことは、私という女のすべてだ。だから、私を信じるなら自分自身を誇れ」
思考が停止した。
代わりに起動し始めたものがある。
それは記憶だ。
俺がこのくそったれな世界に召喚されてきてから出会った多くの人々との記憶だ。
〈剣の王〉を手にして以来、希薄になりつつあった十年間の記憶が鮮明に蘇ってきたのだ。
オオタネアやシャッちん、みんなとの触れ合いの記憶。
温かい思い出の数々。
ああ、俺はこれを忘れてはいけないんだ。
だから―――
「そうだな。おまえらがいいと言うんなら、俺はそれでいいか。今更、悔やんでも仕方ない」
「……ああ」
「……そうするがいい」
「俺ができる俺のやり方で、この大して好きでもない世界を守ってやるよ。それでいいんだ、きっと」
かつて誓ったことを、もう一度だけ繰り返すように俺は誓い直した。




