帝国の思惑
予兆は何もなかった。
強いて挙げるのならば、来年の農作物の種類調整をするために出かけている村長の帰りが予定よりも二日遅れているぐらいだった。
それとて、計画的な作物の生産によって自分たちの納める年貢の負担を軽くするために、村長同士の駆け引きが長引くことはよくあることなので、村の誰も気にはしていなかった。
つまり、すべてが突然始まった、ということである。
〈白珠の帝国〉の西のはずれにある小さな村に住む農夫たちにとっては。
「どうした」
草かりの大鎌を手にした農夫が手を止めるのを、その脇で同様に作業していた弟が見咎めた。
朝からいい流れできている作業なので、できることならば陽が落ちる前に終わらせたいので、言葉尻がきつくなる。
「怠けたいのはわかるが、とっとと手を動かしてくれねえか。兄貴だって早く終わらせてガキと遊びたいんだろ」
「ああ、まあな」
「だったら手を止めんな。急げ急げ」
「いや、違うんだ。別に休んでいる訳じゃねえ」
「じゃあ、なんだよ」
農夫が顎をしゃくると、弟はそれに釣られて見た。
彼の兄が気にしていたのは、空であった。
だが、そこにあったのは彼が見知ったものとはまったく違う、七色の奇妙な光によって輝く空であった。
初めに頭に浮かんだのは、虹。
大雨が降った跡にできる光の芸術。
学のない農夫たちにとっては、海の底に住む巨大な蛤が牝を誘うために発する合図だと信じられている現象だった。
しかし、今、頭上を支配している現象はそんな虹などというちっぽけなものではない。
空をすべて覆っているわけではないが、彼らの佇む一帯だけでなく、彼らの住む土地をほとんど隠さんとばかりに巨大だった。
だいたい彼らの住む村にまで端は届いているだろう
ただし、太陽の光はさっきまでと同様に降り注いでいる。
だから、畑の雑草刈りに専念していた弟は気がつかなかったのだ。
「な……んだよ、こりゃあ」
「おお……」
兄弟は絶句した。
美しい、といえばそれは間違いないのだろう。
キラキラと輝く色彩が誰の目にも鮮やかで、引き込まれそうなほどに艶やかだ。
まるで神が降臨される間際の、尊き道を作る過程としか思えない奇跡そのものの現象。
ほんのわずかだが、兄弟は柄にもなくうっとりとしてしまった。
だが、次の瞬間には背筋に走った怖気に正気に戻る。
その原因も同じ空の輝きにあった。
綺麗な色の乱舞の中に潜む、触ってはいけない宇宙的な狂気に、生物としての本能が警鐘を発したからだ。
あの色が布だとして、それをはがした時に、裏に隠れた形容し難いおぞましい何かの存在を感じ取ったのだ。
決して小さな定命の人間では堪えられない破滅そのものに。
「なんだよ、ありゃあ」
ずっと空を見ていた農夫は、ついに恐怖に負けて目をそらした。
横を見る。
知らない男がいた。
彼よりも少し若く、彼と同じ服装をした農夫らしい男だった。
手には草刈用の大鎌を握っていて、同様に空を眺めている。
いったい、何者だ。
どうして、俺の畑にいて、俺の隣に立っているんだ。
見たこともない他人にこんなに近くに寄られていたということで、彼は恐怖にかられた。
男が大鎌を持っていることも災いした。
もしかしたら、こいつは彼をあの鎌で殺そうとしているのかもしれない。
「うわあああああ」
突然、飛び退った農夫に対して、見知らぬ男は不思議そうに言った。
「おい、どうしたんだよ、兄貴。いくら空が変だからといっておかしいぜ。顔色が普通じゃねえぞ」
農夫は恐怖した。
何を言っているんだ、こいつは。
気でも狂っているのか。
俺には―――
俺には―――
「俺には弟なんかいねえっ! てめえ、なんのつもりだ!」
見知らぬ男―――なぜか弟を名乗っている―――は戸惑った表情を浮かべる。
その顔は本当に疑問を感じているようだった。
「おい、なにを馬鹿なことを言ってんだよ。オレだよ、ラウヴだよ。頭がおかしくなったのか」
なんだと?
勝手に畑の中に入ってきた分際で、なぜ、俺を気狂いのようだと言うのだ。おかしいのは、貴様だ。このよそ者め!
農夫は手にしていた鉈を強く握り締めた。
太い雑草をまとめて叩き切るために用意しておいたものだったが、十分に武器になり得る。
それを使えば、この弟を名乗るよそ者に一撃食らわすこともできるだろう。
俺には弟なんていないのに。
きっと、野盗かもしかしたら魔物の手下に違いない!
「ギィヤアアアアアアアア!」
農夫は呆然と立ち尽くす男を鉈で滅多打ちにした。
最初の一撃でもう頭蓋骨を深く抉られていた男はなすすべなく地上に倒れ、のしかかってさらに連打される鉈によって顔面がぐちゃぐちゃに微塵となっていた。
その死体を見て、農夫は安堵した。
彼にはいないはずの弟を名乗る男を始末したことで満足していた。
頭上にはまだ煌びやかな色彩が踊っている。
だが、彼は知らなかった。
その色彩が輝いた時、ひと振りの剣の刃が閃き、世界に流れる〈時〉の一部が切り裂かれたことを。
その切断によって、ある村とその住人たちの〈過去〉が変更されたことを。
農夫の父親と母親の人生が彼の誕生後に消滅し、弟の誕生という事実が書き換えられ、同時に弟の存在が切り離されたということを。
だから、農夫は弟を殺してしまった。
存在しないものが、この世に存在していることに恐怖してしまったから。
なんの規則性もない乱雑なモザイクのような出鱈目な改変によって、自分たちの人生が狂わされたことに気づくことなく、農夫は肉親をその手にかけた。
本来なら耐え難い地獄を味わったというのに、農夫はそのことになんの痛痒も感じなかった。
そして、彼の身に起こった悲劇は……。
わずかに離れた彼の村でも起こっていた。
夫が妻を、母が子を、孫が祖父を、隣人が隣人を、下男が村長を。
叩き切られた〈現在〉は〈過去〉を失くし、書き換えられ、そして惨劇を生み出す。
すべてを引き起こしたのが、〈剣の王〉と呼ばれる神器の力であることを知らずに、村には血の嵐が吹き荒れるのであった……。
◇◆◇
通常の交渉と異なり、相手方のトップである皇帝陛下がおつきの連中の紹介をしてくれるということはなく、少しの雑談のあと、すぐに会談は始まった。
司会進行役というものもいない。
まるで、俺と彼だけの語らいという形だ。
”ロジー”の存在を考えると、歴史に残るほどの巨頭会談のはずなのだが、肩肘を張った様子はほとんどない。
それだけ皇帝の様子が自然ということだ。
ここまでフレンドリーに接せられると、こちらがむしろ困る。
俺はとりあえず身分の高い相手に対しては敬語で話すように心がけているのだが、相手の態度のせいかうまくいかなかった。
「……君は普段通りでいいですよ。余のことは〈白珠の帝国〉の皇帝ではなく、同年代の相手だと考えてくれれば」
「わかりました……わかった。こんな感じでいいんですかね」
「ええ。そもそも、君はこの世界の住人ではない。余に敬意を払う必要がないのだから」
皇帝はどうも俺に対して好意を抱いているようだが、俺はそうではない。
かといって俺があまりに無礼に振る舞えば、後ろに立っている臣下の連中からの無言の圧力が凄まじい。
まったく、厄介な状況である。
ただ、既にいまさらなので、俺としては普段通りに振舞うほかはない。
「じゃあ、まあ、とりあえず普通でいかせてもらいます」
「余のことは親しい友人と考えてくれればいい」
無茶を言わないでくれ。
あんたは、下手をすればヴィオレサンテ陛下よりも目上なんだぜ。
なんといっても、この大陸において唯一の皇帝陛下だからな。
「了解」
「ありがとう。では、本題に入らせてもらうよ」
皇帝はかなり人あたりがいい。
全身から発せられるカリスマも凄まじく、正面に座っているだけで気圧される。
もっとも、俺の隣にいる幻獣王のことを考えれば、まだ普通の人間といってもいいかもしれないが。
ようやく俺が知りたかった話ができるということはよかった。
「……俺をここに招いたのは何故ですか……いや、何故だ? わざわざ、弟を遣いにだしたということが不思議だった」
例の帝弟もこの会談には参加していた。
さっきから一言も口を利かないのは、おそらく兄の臣下であることを自覚して弁えているからだろう。
今、この場で会話していいのは、皇帝その人と俺、そして”ロジー”ぐらいのものだということだ。
「君がどうしても必要だからだよ。十年以上も、待っていたといっても嘘ではない。余の帝国と余は君のことをそれだけ欲していたのだ」
「俺を……?」
この場合の「俺」というのは、たぶん、セスシス・ハーレイシーとしての俺ではないだろう。
おそらくは、〈妖魔〉としての「俺」なのだ。
さすがにすでに色々と真相の検討はついていた。
検討に必要な情報はかなり揃っているのだから。
いくら頭の悪い俺でも、限りなく正解に近い答えは導き出していた。
ここに来たのは、模範解答をもらうためという意味合いが強い。
「君がザイムにおける召喚魔導によって、この地に招かれたことは承知している。別の世界からこの地に召喚されたものを、我らは〈妖魔〉と呼称し、君がその中に含まれているということもね」
「おたくの国では〈妖魔〉は物と同じ扱いなんだろ。皇帝陛下直々にお話なんかしてもいいもんなんですかね」
「構わないさ。〈妖魔〉が我が国の身分解級に含まれていないから、人の範疇での対応がされていないだけだ。ようするに、この世界の埒外にいるものたちだからね。余が君のことを、別の世界からの重要人物として遇する分にはなんの問題もない」
なるほどね。
俺はよその世界から招かれたVIP扱いになるわけだ。
使役される〈妖魔〉呼ばわりも見方によっては変わるものだな。
「俺はザイムの魔導師たちにとっての盾か囮として召喚されたはずなんだが、そんな俺をおたくらが厚遇する理由がいまいちわからない。そのあたりはどうなんだ。これと関係していることはわかるんだが……」
手に馴染んでしまった〈剣の王〉の柄に俺は手をかけた。
皇帝に害を与えるのではないかと周囲の臣下が色めき立つが、当の皇帝自身にはなんの動揺もなかった。
ただし、俺や”ロジー”に対するものよりも、〈剣の王〉に対する視線の方により険しいものがあった。
いや、険しいではすまない、憎悪に近いものがある。
そして、それ以上に深い恐怖があった。
「あの街で行われていた儀式魔導の詳細について知っているかい?」
「いや、まったく」
「そうだろうね。あれは魔導師ギルドの上位に余が命じたものであるから、箝口令が敷かれていたのであろう。君と接する地位のものたちでは知る由もなかったはずだ。だから、君が知らなくて当然といえる」
「ということは、今は教えてもらえるということでいいのか」
「そうだね。―――君はもうわかっていると思うが、ザイムでおこなわれていたものは、別世界からの人間の召喚魔導儀式だ。ただし、通常行われるものではない」
通常行われるものというのは、別世界の生物をそのまま招くタイプのものだ。
俺のようにこの世界の人間の肉体を介して、魂のみを召喚するというものは例外中の例外だ。
ユギンの話では他に例もないらしいし。
ただ、そうまでしてイレギュラーな儀式を続ける理由が不明だったのだ。
「余らが必要だったのは、こちらの世界の肉を持ち、他の世界の魂を持つ存在だったのだ。もっとはっきり言えば、この世界の法則に縛られない一個の〈存在〉を求めていたというわけだよ」
「確かにその定義に俺は含まれるな。だが、そんな特別なものを必要とする理由はわからない」
「簡単だよ。この世界の法則とは、つまり、歴史―――時の流れのことだ。余らは歴史に記述されていないものの力を欲していたのだ。歴史に記述されているものは、すべからく〈剣の王〉の支配から逃れられないからね」
ああ、やはりそうか。
問題はここではっきりした。
「やはり、俺は〈剣の王〉を使うために喚び出されたということか」
もうわかっていた。
帝弟の思わせぶりな台詞だけでなく、〈剣の王〉がしっくりくることもなにもかもだ。
この世界の時の流れを断ち切ることができる神器を振るうものを、別の世界からきたものに割り振るのは当然だった。
そして、〈白珠の帝国〉が欲していたものは、つまりは〈剣の王〉による〈阿迦奢の断絶〉だったというわけだ。
帝国は歴史を切断することを狙っている。
だが、いったい、何のために?
どこの時点での切断なのか?
それがわからない。
「ああ、君が今佩いているものとは違う、真の〈剣の王〉を振るうためにだがね。だが、君がそれを佩いているだけで臣下らが納得しやすくなってくれて助かっている」
俺の存在意義は証明されたというわけか。
〈白珠の帝国〉にとっての必要な駒であるという意義は。
ならば少なくとも、しばらくのあいだは皇帝派の庇護は求められるな。
「じゃあ、もっとはっきりとした本題についても教えてもらおうか。―――〈阿迦奢の断絶〉を望む理由を、だ」
なぜ、帝国が〈阿迦奢の断絶〉を求めるのか。
すべてはそこにある。




