皇帝パフィオ・アライト・ラーエック・ニンン
この話において、本作の謎のすべてが語られることになります。
以前の内容を未読の方は避けてください。
血飛沫と共に吹き飛んだものは、真っ赤な腸だった。
人の中心軸であり、そして最も堅く守られているはずの背骨が易々と叩き切られ、爆発するかのように消滅した。
しかも、それが二つ―――二人分。
部下の生命が自らの眼前にて失われたことについて、ゾング・ヰン・バーヲーは驚愕しか抱くことができなかった。
それはそうだろう。
彼が率いるのは数こそ減ったとはいえ、〈白珠の帝国〉謹製の最新鋭の魔導鎧をまとい、鍛え上げた戦技を持ち、そして魔獣〈雷馬〉に乗った帝国護剣連隊―――バイロンにおいては〈雷馬兵団〉と呼ばれた精鋭中の精鋭たちなのだ。
その精鋭たる騎士が、敵の武器のひと振りで惨殺されるなどあってはならない事態なのだ。
だが、その結果も必ずしも理解できないものではなかった。
ゾングたちと現在交戦中の敵の姿を見れば。
「……くそ、なんなのだ、奴らは」
帝国の大将軍は憎々しげに唾を吐いた。
苦い味が口腔に溜まっていた。
愛剣を握り締め、まだ戦っている部下たちの様子を見る。
バイロン国内で散々痛めつけられたからか、五十人ほどの人数がどうみても弱々しく見えた。
かつて威風堂々と戦場を駆け回った連隊とは思えぬ貧弱さは、彼らが負った心的外傷がどれほどのものかを物語っている。
イドという廃棄された古城での戦いがどれだけの衝撃と傷を彼らに与えたのかを。
―――戦い?
既に過ぎ去った出来事を思い出すたびに、ゾングは背筋に走る怖気に不快を感じる。
あれは戦いなどと呼べるものではなかった。
戦いというよりも、彼らはただ片付けられただけなのだ。
戦士としてでもなく、敵としてでもなく、ただの邪魔くさい障害物として。
〈ユニコーンの少年騎士〉と〈幻獣王〉。
この両者によって植えつけられた傷によって、彼らは人間としての無力さと儚さ、そして脆さをすべて自覚させられることになった。
所詮、人は人。
圧倒的なるものの前では抗うこともできぬほど脆弱にして、惰弱。
一度でも自覚してしまえば、剣を持つ拳には力は入らず、背筋さえも伸びきらず、前を見ることなく下にうつむくことだけしかできなくなる。
帝都と祖国を守護する護剣連隊の黒騎士たちは、もう無力でなにもできない落伍者の群れと化していた。
故郷へと向かう道中において、突然現れ襲撃してきた敵たちに一矢を報いることさえも期待できないぐらいに。
気がつくと、ゾングの前にいた黒騎士たちの半分が討ち死にしていた。
しかも、ありえないほどに無残な死に方で。
その無残さがさらに黒騎士たちの弱くなりすぎた心を抉る。
はたと後ろを見ると、ゾングの部下たちはすでに恐怖に支配され、恐慌をきたしていた。
剣すらまともに握らず、キョロキョロと逃げる方向を探すだけの惰弱なる存在。
誇り高い騎士の姿はどこにもなかった。
(……チッ、これでは、羊の群れ以下ではないか!)
ゾングは内心で忌々しげに罵る。
この戦闘集団の中で、彼だけがなんとか戦意を保っている状態である以上、起きている結果は至極当然のものなのだが、やはり彼の戦士としての誇りが許さないのだ。
戦いを誇りとするものが精神をやられてグダグダとなすすべもなく敗北するとは……。
だが、問題はそれだけではなかった。
今の危機的状況は黒騎士たちの精神的な弱体化の結果によるものだけではなく、襲い来る敵の強大さも原因であるからだ。
無骨な歴戦の勇士であるゾングがかつて感じたことのないぐらいに憔悴しているのは、そこにあった。
イド城での戦いは諦められる余地があった。
あれは神の遣いや神そのものとの戦いに等しいからだ。
しかし、今の相手は違う。
かつて知っていたモノ共、いや、知っているモノだからだ。
彼らにとっては使いやすい手駒でさえあり、そして、本来なら簡単に駆逐できる程度の相手でしかなかったモノ。
それが襲撃してきた敵だったはずなのだ。
だが、間違いなく違った。
間違いなく強さの次元が違う。
その敵とは……
「全騎士に告げる! 身どもに続くものは、一切の魔導の使用を禁ずる! 奴らの―――〈手長〉が装着している魔導鎧は身どもらの纏っているものと同じものだ。一切の魔導が効かぬ! 〈火焔〉などの攻撃魔導だけでなく、自らにかけた魔導でさえすべて無効化されるのだ! 純粋に戦技のみで戦え! よいな!」
ごく少数の黒騎士だけがその指示に応えた。
ほとんどは乱戦の隙に自分たちに迫る魔物どもへの対応で手一杯だ。
「ゾング様! 同じ魔導鎧を纏っているものであれば、発揮される筋力補助値もほぼ互角。それでは我らの方が圧倒的に劣ります。〈手長〉と人の膂力の違いは二倍どころではないのです!」
「わかっておる! だが、魔導が通じぬ以上、戦技そのものしか使えぬではないか!」
「せめて、我らも蛮族の騎士のように気功術なるものが使えれば……」
「泣き言をほざくな! 我らにも〈気〉があるではないか! 〈気〉を放てい!」
〈白珠の帝国〉の騎士は、東方の騎士のように気功術での身体能力の上昇をすることができない。
できるとすれば、魔導を自分にかけることでの能力上昇のみである。
それは気功術を学ぶよりも手軽であり、場合によっては遥かに凌駕できる万能の技術だった。
だからこそ、〈白珠の帝国〉においては気功術は広がらなかったのだ。
そして、魔導騎士揃いの黒騎士たちは東方の騎士が〈魔気〉と呼ぶ戦法と、簡単な魔導を使用できればそれで足りると思っていた。
今日この時までは。
突如現れた〈手長〉の集団―――そして、そいつらが纏う自分たちのものと同じ黒く凶悪な装飾の施された魔導鎧とぶつかるまでは。
……黒騎士らとて手をこまねいていた訳ではない。
精神的にどん底であったとしても、彼らも騎士であり、戦士だ。
戦いに臨めば、それなりのものは出せる。
だから、接近する魔物に対して最も近くにいた黒騎士が挨拶がわりの〈火焔〉の魔導を放った。
本来ならば、この一撃で先頭の〈手長〉数匹は黒焦げにできるはずであった。
しかし、そうはならなかった。
〈手長〉が纏う魔導鎧が―――〈雷馬兵団〉の騎士たちに〈雷霧〉内の移動を可能とさせた魔導攻撃を無効化する鎧が―――〈火焔〉を消し去ったのだ。
その異常事態を把握できず、大剣のひと振りで二人の黒騎士が頭部を吹き飛ばされて即死した。
それだけではない。
〈手長〉の背中に隠れていた巨大な胸板と両肩をもった魔物が、信じられない跳躍力を用いて、黒騎士たちの中心に飛び込んできたのだ。
その両肩についた巨大な眼から放たれる衝撃波が、油断していた数人の黒騎士の脳を爆発させる。
かつてユニコーンの騎士マイアンの意識を飛ばした〈肩眼〉の特殊攻撃だった。
予想していない攻撃に対して、一歩反応が遅れたせいで、〈肩眼〉のさらなる跳躍による逃亡を許してしまう。
新しく集団の中央に躍り込んだ〈肩眼〉はまたも一人の犠牲者を作った上でようやく片付けられたが、その全身に同様に纏われた魔導鎧のせいですぐにというわけにはいかなかった。
その〈肩眼〉の魔導鎧も異形にあつらえたかのようにぴったりと装着されていて、黒騎士たちの剣を幾度も防いでいたからだ。。
そして、黒騎士たちの焦りはピークに達する。
襲撃してきた魔物たちは、すべてが彼らが纏とうものと同じ意匠の魔導鎧を装着していたという事実に気がついたからだ。
だが、彼らの受けた衝撃はそれだけでは収まらなかった。
魔物の先頭に立っていたのは確かに腕の長い異形の魔物〈手長〉だったのだが、その後方からずんずんと迫ってくる四足はそうではない。
発達した下顎を持つ牙顎獣。
逆に犬歯が極限まで伸びきった剣虎。
コウモリの羽のある爬虫類である竜族。
明らかにつるんで行動することがない種族が群れをなしていたからだ。
しかも、そのすべてが意匠の似通った黒い魔導鎧をまとって。
そして、魔導鎧を装着した魔物が近づくたびに、黒騎士たちが自分に対してかけた肉体強化系の魔導が解呪され、無効化されていく。
魔導鎧に付与された、〈解呪〉の自動発動がなされているのだ。
この機能はバイロンにおいては全くと言ってほど使われなかったが、対魔導師用に標準装備されたものであった。
自分たちのかけた魔導までも消されてしまうおそれがあるので、滅多に使わない機能であったことから、存在を忘れかけていたものもいたほどだ。
翻ってそれが敵方に使われるとなると、魔導騎士たる黒騎士の戦闘力は確実に半減する。
自分にかけた魔導がなくなり、持ち前の筋力だけしか残らなくなるからだ。
したがって、この時点で黒騎士にとっての武器は、魔導鎧の基本的な筋力強化と学んだ〈魔気〉による攻撃と純粋な戦技、そして〈雷馬〉の力だけとなっていた。
完全に低下した戦力と相手の能力を目の当たりにしたことの虚をつかれ、黒い魔物たちによって次々と騎士たちは狩り立てられていく。
……一匹の〈手長〉の大剣がゾングに襲いかかった。
さすがのゾングも簡単に受け止めた上で返す刀で倒すことはかなわず、数合の斬り合いを余儀なくされる。
その間を縫って別の個体が脇をすり抜けて、彼の部下たちを屠っていく。
すでに生存している黒騎士は十名前後。
逃げ出したものも後方に控えていた〈脚長〉の狙撃によって射殺されていた。
まさに理不尽なほどの蹂躙であった。
ゾングが憎しみのあまりに噛み締めた奥歯が割れるほどに。
「貴様ら、き・さ・ま・らぁ―――」
彼にはこの魔物の纏った魔導鎧の出処が読めていた。
これだけのものを揃えられるものは、〈白珠の帝国〉において、皇帝陛下を除けばただ一人しかいない。
だが、それだけではないはずだ。
その一人の背後にいるモノが仕組んだものであろうことも疑いない。
ゾングは自分たちが道化であったことに気がついた。
やはり、そうであったのだ。
皇帝直属の護剣連隊に道化の役をさせ、使い潰そうとするものなど、〈白珠の帝国〉の敵以外なにものでもない。
その思惑に踊らされ、自分たちはなにをしていたのだろう。
「身どもは……。身どもは―――!」
ゾングは喚いた。
だが、それを聞くものはすでにいない。
彼の部下たちはこの時には一人残らずいなくなっていた。
そして、帝国の誇る最高の騎士の一人は、ここで脳天を叩き割られて死亡する。
帝都守護護剣連隊―――バイロンでは〈雷馬兵団〉と呼ばれた戦闘集団はここに全滅した。
◇◆◇
いきなり、文字通りの王侯貴族の邸宅に案内されると、あまりの煌びやかさに目眩がして困る。
ぶっちゃけた話、とんでもない場違いさ加減に、「六畳間はないんですか?」と案内役に訊いてしまったぐらいだ。
もっとも、案内役のおそらくは魔導騎士は俺の話なんて聞いてくれず、用意されていた部屋に厳かに連れて行かれてしまう。
俺の隣で歩いている”ロジー”もさっきから黙っている。
身を隠す魔導をなにも使っていないので、ド派手な宮殿の中を馬が闊歩するというシュールな光景がそこにあった。
”ロジー”の放つ、とてつもないオーラのようなものが全く違和感を覚えさせないのがまたすごいところなのだが。
案内されたのは、通りすがりに見た他の部屋に比べればまだ地味な部屋だった。
天井に螺旋状に描かれた何かの絵巻物みたいなものがある以外は、柔らかそうなソファーが5組あって、高そうなキャビネットがあるだけだ。
絨毯はくるぶしまで毛があってとても暖かい。
ただし、広さは俺の〈丸岩城〉での部屋が三十くらいは入ってしまいそうなほどだ。
正直言うとまったく落ち着かない。
元の世界にいたときのうさぎ小屋みたいな俺の実家を思い出して、泣きたくなるぐらいに差がある。
ちょっとした公民館ぐらいはあるな。
誰にも勧められない(というか案内役ですらすぐにどこかに行ってしまった)ので、とりあえず上座ではなさそうな位置のソファーに座る。
横に”ロジー”がやってきた。
「すげえ、居心地が悪いんだが……」
《君にとっては来訪した三つ目の王宮であろう。いい加減、慣れたらどうだね》
「いや、三つ目といったって、おまえんところの大木の中とかは宮殿ではないだろう。それに、バイロンのものもこれと比べると明らかに天と地ぐらい差があるぞ」
《ツエフは千年帝国だからね。全体の調度品がすべて百年単位を越えた過去のものだ。汝が腰掛けている椅子ですら、約八十年前の骨董品だ》
「うへえ、そんなに古いのかよ」
俺は尻の下にある皮を指で撫でる。
いいものであるのはわかるが、それほど古いとは思わなかった。
新品のような光沢はもしかしたら丁寧な手入れをすることで得られるものなのだろうか。
だとすると、ここの使用人は超一流なんだろう。
しかし、”ロジー”はよくそこまで違いがわかるものだ。
ならば、ついでだ。違いのわかるお馬様に、聞きたいことがあるので聞いてみることにしよう。
「なあ、天井に描いてある絵のことなんだが……」
《気になるのかね?》
「まあな。あの螺旋状に描かれた、なんというか物語っぽい絵の中心にあるの、たぶん、これだろ?」
俺は背負っていて、今は手元に置いてある大剣を掲げた。
どう考えても鉛の金属製だというのに、木刀よりも遥かに軽い。
なんというか見た目は本物だが、実際は玩具の一種のような違和感がある。
ただし、握るたびに俺の全身に妙なこそばゆさを覚えるのは、きっとこの剣に秘められた魔導が流れ込んでくるのだろう。
魔導の力というものをイマイチ実感しきれない俺には、はっきりとは断定できないのだが……。
とにかく、この大剣が本物の〈神器〉であることだけは確かなようだった。
《その通りだ。正確に言うと、そこにあるものはあそこに描かれた大剣の化身に過ぎないのだが》
「こっちがレプリカで、あっちがオリジナルということか。レプリカを用意した理由はわからないけど、これよりも強い力があるということなんだろうな……。それがもしかしたら、すべての中心に来るのか?」
《おそらく、そうだろう。あの絵もその意図で描かれているだからな》
「へえ。おまえ、内容わかるのか?」
《あれは五百年ほど前に行われた〈阿迦奢の断絶〉の記録だよ。〈剣の王〉が振るわれて、未来が切断されたときのものだ。だから、この剣が絵の中央にある。そこから始まる絵は、この国の五百年間の歴史のおおまかなまとめというわけだ》
「未来がなくなって、そこから始まった新しい歴史の流れのダイジェストという訳か……。でもよ。そうなると、それ以前はどうなるんだ?」
《過去はどれだけ放っておいても、現代につながるのだろう? わざわざ切り取らない限りな。だから、ここでは特に取り上げられていない》
俺は首をひねった。
いや、過去も未来も現代とつながっているだろう。
無理矢理に切り離す必要はないはずだし、切り離すことはむしろ無秩序というか害にしかならないのではないだろうか。
はたして、この絵の作者はそれでもいいと考えたのだろうか、それとも……。
そんな俺の思考は、扉から入ってきた者たちの登場によって遮られた。
入ってきたのは、十人ぐらい。
見覚えのあるものが約二人。王弟ベルーティーヌと神官長のムムロ・レガロ。
知らないものが多いが、それよりも先陣を切って入ってきた若者の存在感の大きさの方が気になって仕方がなかった。
いや、それはただのいい訳だ。
俺は若者が何者であるかよく知っていたのだから。
初対面であるが、わからないはずがない。
顔つきで言うと、ベルーティーヌによく似ており、平面的な顔をしているが、それはわかりやすく言えば高貴さを感じさせるものだ。
眼元も温和で、唇は微笑みを蓄えていて、余裕を感じさせる。
なによりも入室しただけで視線を集めてしまいかねない無言の存在感が、まさに場にいるものをすべて虜にしてしまうほどなのだ。
これが……これが……
「〈白珠の帝国〉の皇帝……」
幾万の国民を支配し、幾千の魔導師を従え、幾百の騎士を指揮し、火竜族の族頭でさえ心酔させる〈妖帝国〉の皇帝陛下。
パフィオ・アライト・ラーエック・ニンン。
俺がこの国に単身侵入してきた目的の相手なのだった。




