巨大にして強大なる敵ども
飛び散った鮮血は、人のものと変わらぬ「赤」。
だが、俺にとっては初めて見るものだった。
かつて、十数年をともに過ごしてきた、ある意味では同族とも言えるユニコーンたちの体内に流れる血潮の迸りなど想像したこともないのだから。
どんな方法でも、誰によって、傷つけることなどできないと思い込んでいた。
それは確かに事実であり、今回のことこそがまさに例外中の例外、しかも奇跡を何度も繰り返すことと変わらないレベルだとわかっていたとしても、心を打ちのめすショックは強すぎた。
しかも、今の俺の相方は最高のユニコーンである“ロジー”、かつてロジャナオルトゥシレリアの名で前の〈幻獣王〉として君臨した大幻獣である。
その”ロジー”の皮膚が皮一枚程度とはいえ、間違いなく切り裂かれたのである。
《ち、さすがは〈神器〉であるな。余の真珠の肌に傷を負わせるとは!》
慌てふためく俺と違い、“ロジー”は冷静に現状を分析していた。
さすがは千年を生きる幻獣。
俺ごときとは肝の入り方が違う。
「だ、大丈夫か、“ロジー”!」
《薄皮一枚程度だ。気にしなくていいぞ》
「そうはいかねえよ! おまえが、ユニコーンが斬られるなんてありえないことのはずだろ! いったい、どんな手品を使ったんだ、あの甲冑!」
あの黒い甲冑の技か。
鈍色の剣の力か?
それとも別のなにか要因があるのか?
たとえば、ユニコーンの力を奪う結界のようなものが張られているとか。
こちらの力が衰えていれば、相対的に相手側の力が増したように感じられる。
そういう類いの結果なのかもしれない。
《甲冑の人間自体はどうということはないはずだ。ただの使い手―――それなりの戦士ではあるだろうがな。問題はあの鈍色の剣だ》
「剣の方なのか?」
《ああ、あれはおそらく―――》
”ロジー”が俺の問いに答えを返そうとすると、それよりも先に大剣を持った甲冑が前に進み出る。
剣を構えてはいないが、いつでも抜き打ちできるだろう自然体だ。
タナやマイアンといった腕利きがよくやる構え、というよりもどこからでも対応できるというリラックスした立ち方というものだろう。
むしろ、仰々しく狙いを定められるよりも、こちらの方が相手にしたくない。
「どうする?」
《さっきのような飛ぶ剣撃は無視しよう。おそらく、あの程度ならば余の〈物理障壁〉で跳ね返せるしな。避けたいのは、直接懐にはいられてあの鈍色の大剣の刃に傷つけられることだ》
「おまえの皮を切れるぐらいだからな」
《それだけではないよ。あの大剣ならば、エーテル光となった友でさえも切ることができるだろう》
「『剣は時を破る』からか」
《否。―――あの剣はこの世界を支配する時の流れそのものを断ち切ることができる。つまり、どのような因果があったとしても、それを覆すことができるのだ》
因果を覆す?
どういうことだ。
因果関係とは、ある原因が存在し、そこまでの過程が結びついてすべての事情が一つの結果に収束することをいう。
つまり、すべてのものはほとんど原因に相当する結果として顕実するということだ。
それが覆されることなどありえないのではないか。
定まっていることが定まらずに終わることはないはずだ。
「意味がわからない」
《うむ、このような形而上的な議論をしても始まらんな。とにかく、今、友が覚えておくべきことはあの大剣に掛かれば、余も友も、間違いなく殺されるということだ》
「―――わかった。切られないことだけに専念する」
《友のいざというときの聞き分けの良さは凄まじいものがあるな。素直というのが武器になる人間などそうはいないよ》
褒められているのかどうかわからないが、とにかくこの場を切り抜ける方が肝要だということは理解できた。
ならば、ここは説明など求めている場合ではない。
「おまえの力を全開にして逃げ切るか?」
《それがいいのだが、できることならば限界まで出し惜しみがしたい》
「どうして?」
《あの大剣が化身だというのならば、どこかに本体がいる可能性がある。それどころか、さらにあれを操ることのできる存在がいる可能性もある。すべてを見せるには、やや慎重にならざるを得ない》
俺は周囲を見渡した。
大通りにはなぜか誰もいない。
これほどの大都市の中心にいるというのに、人っこひとりいないという気持ちの悪い静けさだけが漂っている。
〈人払い〉の魔導などというものだけではないだろう。
何かがある。
そして、その原因はあの甲冑だ。
どこかに隠れた敵がいるとしても、まずあいつをなんとかしなければならない。
「勝てるかな」
俺は腰に佩いた剣を抜く。
〈瑪瑙砕き〉にはまったく及ばないが、こちらに来てから手に入れた最上級の業物だ。
俺みたいな三流以下にはもったいないほどの武器といえた。
《いいな、決してあれと刃を打ち合わせてはならない。一合ともたないだろう》
「エーテル化はしなくていいかな。どのみち無駄になりそうだけど」
《いや、しておこう。友と余との心の垣根を外すことで、以心伝心をより早めたい》
「わかった。あと、奴に弱点はあるか?」
《あの大剣は使い手なしでは力を振るえない。それが、あれの最大の弱点であり、使えなさだ》
使えなさ、か。
まるであれが心でも持っているかのように言う。
いや、あるのかもしれない。
〈神具〉とまで言われているものだ。それぐらいはあって当然ではないか。
そうすると、あの黒い甲冑よりも剣の方がメインなのかもしれないな。
ただ、とりあえず俺にできることはあの甲冑の首あたりを掻っ切って動けなくすることだ。
「よし、征こう。“ロジー”。とりあえず、この場を切り抜ける」
《応》
俺が右手に剣を握り、気絶したムムロを左手で落ちないように抱き締めたとき、耳をつんざくような轟音が響き渡った。
鼓膜を破り、脳の奥までも突き刺さるような巨大な爆音でもあった。
〈雷霧〉の中で耳にした雷の音よりは小さいが、それでも耳孔がぎゅっと痛くなる。
発信源を探りたかったが、眼前の甲冑から目をそらすわけにもいかない。
《上だ、友よ》
「何があった!?」
《ふん、どのような風の吹き回しであろうな。まさか、余を助けに来たとは思えんが》
「だから、なんだ」
《すぐにわかる。友はあの大剣から眼を離すな。あえて言うべきものならば余たちにとってはあっちの方が深刻だ》
ぶわっと上空から大量の風が吹き付けてきた。
まるで竜巻の中に放り込まれたかのように、俺たちの周囲に嵐が巻き起こる。
しかも、一度や二度ではなく、何度も何度も暴れまわり、地面に転がるすべてのものが吹き飛ばされていく。
土も砂も構わず舞い上がり、視界が完全に遮られた。
俺はユニコーンの騎士なら使える〈破邪〉の眼をもって、なんとか甲冑から眼を離さずにいられたが、それは相手が動く気配を見せなかったからだ。
もし、この土埃、砂煙に紛れて相手が襲いかかろうとしていたのなら、ほぼ間違いなく見失っていただろう。
あまりに風が強いおかげで、眼を見開くこともできず、ムムロが腕から落ちないようにさらに抱きしめる。
わりと豊満な乳房が布越しに俺の胸板にあたり、こんな時だというのに恥ずかしくなった。
なんだろう、旅の道中、ほとんどパンツ丸見えで開脚して寝ていたりしたギドゥのおかげで、やや情感が刺激されてしまっていたのだろうか。
珍しく、俺は女というものを意識してしまった。
こんなことはかなり久しぶりだ。
十何年か前に、オオタネアと二人で崩れ落ちる王宮の中で抱き合って死を覚悟したときのことを思い出す。
それだけでなく、バイロンに置いてきた教え子たちが二年ぐらいでいきなり女らしくなって困ったことも思い出す。
ふふ、俺ともあろうものが、どうしようもない危険の真っ最中に女の肌を求めるなんて。
自嘲気味に俺は口の端をあげた。
俺はユニコーンの騎士。
どんな女とも不犯の誓いを立てている。
笑えない話だ。
《来たな》
”ロジー”が言うので、俺は上空をやや見上げた。
何かが遥かな宙の高みから落ちてこようとしていた。
巨大で一つの建物ぐらいはある何かが。
それは一町(約109メートル)ほどの明らかにコウモリのような翼を羽ばたかせ、長い首と太い尻尾を持つ、刺だらけの不気味な皮膚の爬虫類そのものだった。
鉤爪のある前肢と、その二倍はある後肢、禍々しい巨躯の大トカゲが、何百本もの角を生やした頭部に黄色い双眸で下界を睥睨していた。
人間では立ち向かう勇気すらわきおこらない様な威容。
餌とされる下等生物が捕食者に抱く恐怖。
俺は瞬時に感じ取った。
死さえも覚悟した。
それだけの絶対に覆せないような圧倒感が、そいつにはあった。
「こいつぁ……」
俺には目の前の大トカゲの正体がわかっていた。
「火竜……かよ」
《うむ、余よりも現世の王を主に選んだ、火竜の族頭―――ウクラスタだよ》
でかい。
俺たちをまるごと呑み込めてしまえるような、大きな口と顎を持ち、尖りきったエラを持った火竜。
こいつがどうしてこんなところに思う前に、火竜は地上にぶつかる寸前に一羽撃きして速度を落とす。
そのまま、俺たちと黒い甲冑の間に着地した。
俺たちに背を向け、まるで守るかのごとく。
新たな敵の登場かと緊張を強くしていた俺は、少しだけ拍子抜けした。
まさか、この火竜は俺たちにとっての援軍となるのか?
こんな敵地の真っ只中の帝都で、俺たちを守ろうとしてくれるものがいたというのか。
《―――油断するな、友よ。こやつは単に今の飼い主のために、動いているだけかもしれぬ。余らに組するためとはとても思えぬがな》
「まあ、そうだよな」
俺は帝都の大通りに聳え立つ、火竜の背中を見やる。
その巨体のせいで甲冑は姿も形も見えない。
完全にあいつの向こう側だ。
《―――我ガ陛下ノ都ニ何ノ用ダ!! 〈剣の王〉ヨ!》
裂帛の怒声が鳴り渡った。
かつての”ロジー”と並ぶであろう、莫大な魔導力を欲しいままに使用した〈念話〉だった。
慣れている俺が眉をしかめるほどの大音声。
しかし、その内容から察するに、火竜の族頭ウクラスタの最大の関心事は俺たちではなく甲冑の方だということがわかった。
そして、やはり問題となるのは、あの鈍色の大剣―――〈剣の王〉なのだろう。
俺は思い出す。
かつて、イド城でこの国の帝弟が俺のことを〈今生の剣の王の使い手〉と言ったことを。