ユギン・エーハイナイ
ダンスロットは〈雷馬兵団〉が見ているうちは悠々と歩いていたが、イド城の建物内に入るとすぐさま慌ただしく指示を出し始めた。
いつもの胴間声ではなく、可能な限りの小声で、である。
こちらを様子見しているであろう〈雷馬兵団〉に弱みととられることをおそれ、余裕綽々を演じているのであった。
途中、俺に対して親指をあげてきたので、同様に親指をあげて返す。
昔、あいつに教えた俺の世界のガッツポーズだった。
お互いに苦笑いを浮かべてから、別れる。
二人共やるべきことはまだ残っているのだから。
俺は目敏く、物陰に隠れようとしていた白装束のユギンを見つけたので、急いで近づく。
他の団員たちは俺の連れだということだけでなく、たとえ味方であったとしても素性の知れない彼女に近づくことはない。
「ユギン、大丈夫か?」
俺が声をかけると、壁に寄りかかっていたユギンがこちらを見る。
口元の布は取っていたが、覆面自体はそのままの間者姿だった。
しかし、そんな格好でもユギンは十分に美しい女だった。
やや顔色が悪いのは、疲れのせいだろうか。
ユギンには正門に突入しようとする〈雷馬兵団〉を足止めするという任務についてもらったこともあり、その危険度からすればどれほどの疲労が生じているのかわからない。
そこまでの死地に追いやったのが俺だということを考えると、すまなさで胸が締め付けられる思いだ。
「……教導騎士。飲み物はありませんか? ちょっと暴れたせいで喉が乾いてしまっているので」
「ああ、ちょっと待て。バッグの中に……」
俺は戦闘の際に背負うバッグを漁り、二つの革袋を取り出す。
一つは水で、もう一つは……。
「葡萄酒なんだが、飲むか?」
すると、ユギンはちょっとジト目になった。
普段の執務中に、俺がだらけている時によく向ける目つきだった。
「……戦場にまでお酒を持ち込むというのは、どういうおつもりなんですか、貴方は。そんなだから、自室の床でゴミのように眠りこけているのを騎士たちに見られるのですよ。空になった酒瓶のあまりの量に騎士レレまでが眉をひそめていることをご存知なのですか?」
いや、戦場でお小言言われてもどうにもならないんだが。
それに、別に飲むためだけに葡萄酒を持ち歩いている訳ではなく、傷口の消毒などにも使えるのだぞ。
「傷の消毒なら、もっとアルコール度数の高い酒でないと意味がありません。葡萄酒なんて、エール酒と同じで水と一緒じゃないですか」
「……それもなんだな。まあ、気付けの代わりだと思ってくれよ」
「貸してください」
ユギンに革袋を取られ、彼女はそのままごくごくと葡萄酒を口にしだした。
なかなかの飲みっぷりだ。
そういえば、こいつと飲みに行ったことはないな、と思い出した。
意外と四六時中一緒にいたときもあったのに、一杯も酒を酌み交わしたことがなかった。
俺にしては珍しい関係だった。
単にユギンは飲めないものだと思い込んでいたのだが、どうやら俺の勘違いだったようだ。
「一年以上付き合っていたのに、貴方と飲んだことはありませんでしたね」
「ああ、俺もそれを考えていたところだ。おまえは飲めないものだと思い込んでいたみたいだ」
「いいえ、その通りですよ。私は下戸です。グラス一杯で酔っ払います」
「それだと、まずいだろ! 急性アルコール中毒になるぞ!」
「……なんですか、それは? 大丈夫ですよ。さすがにあれだけ動きますとね。あと……」
「あと、なんだ?」
ユギンが俺に自然に革袋を渡すので、俺もそのまま口にしてしまった。
葡萄酒、うめえ。
「貴方と一回ぐらいは杯を交わしてみたかったというのがありまして……」
「?」
「ちょうど良かったです」
ふらっと身体が揺れたかと思うと、そのまま彼女は座り込んだ。
立っているのもキツそうだった。
どうやら、騎士団二位の実力の持ち主であったとしても、数多くの黒騎士相手の立ち回りは相当の負担があったのだろう。
いつもピンと背筋を伸ばして、優秀な秘書然とした彼女がだらしなく座り込んでいるシーンなんて初めて見た。
「おい、本当に大丈夫か。衛生士を呼ぶか? ちょっと待っていろ」
「それはいいです。少し休めばなんとかなります。さすがに黒騎士五騎相手というのは無茶をしすぎたと自分でも思っていますので」
「確かに無茶しすぎだ」
「あれを八騎相手にした貴方の無謀ぶりに比べればどうということはありませんよ。〈妖帝国〉の魔導鎧というのはさすがに強いですね。かつて、あそこまでの苦戦をしたことはありませんよ……」
あれを相手に生身で戦えるだけでだいぶ普通ではないのだが、こいつらレベルの戦士というのはまことに人外に近い存在だといえよう。
それでも疲労困憊したら立ち上がるのも辛いのだ。
「……ユギン、しばらく休め。まだ、〈雷馬兵団〉が次の襲撃をかけてくるまでは時間があるだろう。いざとなったら、投降しろ。おまえがまた戦う必要はない」
「私は黒騎士を散々殺しましたからね。捕まれば犯されて殺されますよ」
「曲がりなりにもあいつらだって騎士だ。虜囚にそこまではしねえよ」
「どうだか。シャウ・ソタイオの最期のことを貴方は知っていますか?」
「ん、誰だ?」
「……知らないならばいいですよ。私ももう少しぐらいは戦えますから、大丈夫ですよ」
俺はゴホゴホと咳をしたユギンの背中をさすろうとしたら、拒否された。
黒騎士の返り血で濡れていることから、俺の手が汚れるということだった。
「……あと、すぐに女の身体に触りたがるものではありませんよ」
「バ、バカなことをいうな。俺に下心なんてないぞ!」
「本当ですか? うちの若い騎士たちにはともかく私みたいな年増には欲情する趣味の持ち主なんじゃないのですか」
「そ、そんなことはない!」
そう言うとユギンはふふと笑った。
楽しそうだった。
いつもの慇懃無礼な感じではなく、会話を楽しんでいるようだった。
「貴方は変わりませんね、教導騎士」
「ほっとけ」
その時、後方から戦楯士騎士団の騎士が俺に呼びかけた。
ダンが呼んでいるとのことだ。
俺は疲労で立つこともできなそうなユギンを放っておくことに罪悪感を覚えたが、ユギンの、
「戦争中ですよ。各自、自分のできることを最大限にしなければなりません。貴方は〈ユニコーンの少年騎士〉としての責務を果たしてきてください」
「……だが、ユギン」
「私なら大丈夫ですよ。〈影狩りのユギン〉を舐めないでください。〈雷馬兵団〉の次の突撃までには回復していますから」
「わかったよ。じゃあ、行く」
「―――では、戦いが終わったら、また」
「ああ。またな」
小さく手を振って見送るユギンを放置して、俺は呼びに来た騎士と共にその場を離れた。
最後にちらりと振り向いた時も、ユギンは微笑みながら手を振っていた。
どこかに消え去ってしまいそうな笑みだった。
◇◆◇
セスシスが人混みの中に消えると、ユギンはそのまま物陰のさらに奥に移動した。
わずか五歩分の移動に一刻もかかるかのような遅々とした動きだった。
とても〈浮舟〉を極めた超一流の間者の動きではなかった。
だが、他人の目のつくところにいるわけにはいかないので仕方の無いところだ。
もし、誰かに見られたらすぐにセスシスのところに知らせがいくことになるだろうから、それはなんとしても避けたかったのだ。
「……血を流しすぎましたか」
彼女の脇腹と背中には大きな風穴が空いていた。
黒騎士五人の首と引き換えに、彼女が負ったのは手傷と呼ぶには重すぎる致命的なものばかりだった。
すでに瞳は光を写していない。
吸い込む空気は熱い水蒸気のように喉を焼く。
四肢は痺れて動かなくなっていた。
さっきまでは感じていた痛みももう感じない。
あとわずかな時間で彼女は死ぬのだろう。
おのれを機械的に見ることができる間者のみができる割り切りだった。
それに、死ぬとしても、恐るることはない。
「……最後に、教導騎士と酒を酌み交わせましたしね」
実は、彼女にとってそれだけが望みだった。
他のことは気にしていない。
オオタネアとセスシスが生きている限り、騎士団は戦い続け、そして王国も世界も救われるだろう。
今まで見てきたすべてのものが彼女にそう告げていた。
だから、思い残すことは何もない。
何よりもこの一年は、影に生き、闇に死す間者としては楽しすぎる時間でもあった。
迫り来る死の恐怖も忘れられるほどに。
無理に思い残しを上げるとしたら、ただ一つだけ。
それは彼女の上司に伝えてある。
意識が完全に混濁し、何も考えられなくなる前に、彼女はぽつりと呟いた。
「……さようなら、私の救世主。―――貴方は優しい人なんだから、あまり人を殺さないようにしなさいね」
誰も知らない、それが彼女の最期の言葉であった。
―――ユギン・エーハイナイは、誰にも看取られずに、そのまま逝く。
彼女の死について、セスシス・ハーレイシーが知ることはなかった。
セスシスは、彼女が別の任務についたというオオタネアからの嘘を最期まで信じ続けていた。
そして、その嘘こそが正しく彼女の望み通りだったことを、身分差を越えた盟友ともいえるオオタネア・ザンだけが知っていた……。




