蒼穹に向けて矢を放つとき
アンズ隊長!
皆が叫んだ。
火炎を撒き散らす毒液を吐かず、文字通りに牙を向いて襲いかかってきた火竜の勢いに、恐怖して動けなくなった十四期の騎士を突き飛ばして救ったアンズ・ヴルトが、化け物の顎に飲み込まれたとき。
その場にいたすべての騎士たちが、その名を叫んだ。
筆頭騎士という現在の肩書きではなく、長らく使っていた「隊長」という呼称とともに。
強者ぞろいとなった女たちを率い、〈雷霧〉において魔物を狩り立て、多くの部下を帰還させ、そして国土を守り続けた最高の騎士――アンズ・ヴルト。
規格外のオオタネア・ザンを除けば、聖士女騎士団の少女たちにとって最も近しく最も尊敬されていた隊長の中の隊長。
彼女一人ならば火竜の顎など簡単に避けられただろうに、その身に染み付いた生来の優しさが彼女にとって致命傷となり、部下をかばって生命を落とすことになったのである。
アンズを口内に収めたまま、火竜は悠々と空へ上がっていく。
少女たちの哀しみを路傍の石も同然に無視して。
「殺してやる、化け物めっ! 絶対に殺してやるっ!」
「あたしらの隊長をよくもっ! トカゲがっ!」
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるっ!」
「アンズ隊長っ!」
騎士たちは口々に火竜を呪い、憎悪で焼き尽くすかのように罵声をとばした。
同期たち五人を喪った時に得たものは悲しみと恐怖だったが、今、彼女たちを包み込んでいるのは激情と殺意だった。
溺れるような憎しみだった。
アンズ・ヴルトという一人の女を敬愛していたものたちの、箍が外されたかのような苦く黒い炎が、もし視線で焼き尽くせたのなら火竜を最後の一片に至るまで消滅させていたであろう。
白く、清い少女たちであったからこそ、心の底からどす黒い憎しみに支配されれば簡単に悪鬼に墜ちる。
復讐を求める悪鬼に。
そんな仲間の狂態を尻目に、シャーレは自分の弓をもう一度確認した。
(やっぱり”ヤー”に乗ったままだと、わずかに力が入らない。最初からわかっていれば、さっき火竜の眼を射抜けたのに……)
シャーレがアンズのことを想っていなかったというわけではない。
むしろ、シャーレが王都に赴任していたとき、彼女に事務処理の仕方を手とり足取り指導してもらった、いわば恩師ともいうべき相手だった。
立ち居振る舞いについても、シャーレはどことなくアンズを参考にして今までを過ごしてきた。
アンズが筆頭騎士となり、シャーレが王都の主たる役割を任されたときも、なにくれとなく世話を焼いてもらっていた。
おそらくシャーレは後輩の中でも最もアンズに懐いていたといえる。
だが、シャーレは先輩への思慕を切り捨てた。
あの火竜を仕留めるためには長い射程距離を持つ弓が必要であり、騎士団の中で最も優れた射手はもう彼女しかいないのだから。
次に火竜が襲ってきた時に、準備が出来ていなければ、今度こそ打つ手がなくなる。
ふと離れたところにいるオオタネアの姿が目に入った
彼女と同様に長弓の準備をしていた。
将軍自ら射手としてでるつもりなのだと悟った。
慌ててその傍らにユニコーンを寄せる。
「姫様、止めてください。貴女が弓を執るべきではありません」
「そうもいかん。ヴルトが戦死した以上、長弓を扱えるのはおまえと私だけになった。おまえ一人に任すわけにはいかんからな」
「しかし、指揮官たる貴女にもしものことがあったら、部隊は崩壊します」
「あのトカゲをぶち殺さなければ結局崩壊する。各自散開して特攻をかます以外に道がなくなるからな」
確かにその通りだった。
火竜を倒さないという選択をすれば、あとはそれぞれで距離をとって一人でも〈核〉に運良くたどり着けることを祈っての特攻しか道はない。
この先にはまだ大量の〈墓の騎士〉がいるであろうし、〈核〉そのものにも仕掛けがあるかもしれないのだから、その無謀な特攻が成功する確率は少ないとしても。
そして、アンズの代わりにオオタネアが立候補するというのは順番としては正しい。
だが、シャーレは異議を唱えた。
「いえ、姫様にはまだ控えていてもらいます。次の火竜の襲撃には、わたしが一人であたります。あの火竜の牙の使い方も確認しましたし、もう大丈夫です」
「無意味だ。おまえ一人で何ができる」
「先程はうまくいきませんでしたが、わたしには切り札があります。今度こそ、あの火竜のギョロ目を潰して差し上げましょう」
「……切り札だと?」
「ええ」
シャーレは強く頷いた。
誰よりも自信満々に見えたかなと少しだけ不安になりながら。
「その切り札とやらで、確実に射抜けるというのか?」
「問題なく」
空気が軋むような沈黙のあと、オオタネアは手にしていた弓を再び鞍上にしまいこんだ。
説得に成功したのだ。
シャーレは息を吐いて、そのまま離れようとした。
まだ準備しなければならないからだ。
「待て、テレワトロ」
「……何か?」
「おまえは死ぬ気か?」
「運がよければ生き残ります。ですが、公爵家の当主である姫様が亡くなられるよりはマシですから」
「……私が知らないとでも思っているのか。おまえだって、世が世なら王族だろう。〈赤鐘の王国〉が復興できれば女王になれるはずだ」
シャーレは苦笑いをした。
やはり知られていたか、という自嘲もあった。
誰にも教えていなかったはずなのに。
「王位継承権三十五位では無理ですよ。それにわたしの祖国はもう滅びました。国自体には未練もありませんし」
「……そうか」
「でも、もしお願いできるのならば、わたしがどうにかなってしまったとしても、〈赤鐘の王国〉の民たちをお頼みします。国体に変更があったとしても、あそこを故郷とする民たちはきっと帰りたがると思いますから」
「それはおまえの仕事だろ」
「今のわたしの最優先の仕事は、あの憎きトカゲを叩き落とすことです。……アンズ隊長の仇をとらないとなりませんし」
そう言ってから、シャーレは火竜の潜む天を見上げた。
〈雷霧〉に遮られて、日光はわずかしか入らず、青空は欠片も見えない。
故郷の空については、風が多く、雨の少ない、いつも晴れていた印象しかない。
もう一度あの明るい太陽の下で歩きたかった。
だが、それは叶わないかもしれない。
彼女がやるべきことは別にあるのだ。
「武運長久を祈る」
「すべてを射抜く戦神の指にかけて」
シャーレはそのまま仲間たちから離れて、待機した。
さっきとは違い、全隊が囮になる形だ。
それで火竜が釣れるかというと不確実だが。
「ナオミ、全隊で前に出てちょうだい。〈核〉に向かうように。火竜がどちらの方角から来るかは常に観測を怠らないようにしてね」
「わかった。おまえはどうするんだ」
「あいつが八の字を描きだしたら、襲ってくる方向がわかるからそっちに移動する。正面から撃ち落としてあげるわ」
「できるのか?」
「正面からなら」
それだけでナオミはもう何も言わなかった。
戦友を信じるというのは、騎士団では当然のことだ。
疑うことすらしてはならない。
ただし、策が破れたときのために準備するのも忘れないところに、この強かな女たちの凄みがあった。
「ノンナ、シャーレが外したあとは一気にもう一度四散する。その際の方向の確認を今のうちにしておいてくれ」
「シャーレが当てたあとは?」
「全員で馬上槍で串刺しにしてやろう。しっぽの力は強そうだから、それを避けるようにしていく感じで。その打ち合わせもしておこうか」
「わかった。じゃあね、シャーレ、任せたわ」
「任されましょう」
シャーレがやや外れた遊撃的な位置につくと、全隊は動き出した。
火竜を釣り出すために。
すると、ほんの数分でまたもやアオが火竜を発見した。
「シャーレ姐さん、真後ろから来るッス!」
ちょうど殿軍にいた彼女にとっては、ちょうどいい場所だった。
「さよなら、“ヤー”。付き合いの悪い乗り手でごめんなさいね」
相方から降りて、彼女は大地を踏みしめた。
そして、長弓を準備する。
ブルブルと“ヤー”が心配そうにすぐ脇で見つめている。
それはそうだろう。
ユニコーンの〈物理障壁〉は、馬体を中心に全体を包み込むような球体となるため、直接騎乗していないものを保護することはできない。
つまり、火竜が毒液を吐けば、”ヤー”は乗り手であるシャーレを守れないのである。
乗り手が目の前で死ぬのを目撃するしかない。
だからこそ、”ヤー”は心配そうなのだ。
そんな愛すべき相方の様子を見て、罪悪感にかられ気まずそうにシャーレはうつむく。
自分勝手な行動に巻き込んでしまったことへの謝罪の言葉がみあたらない。
彼女はそれでいいかもしれないが、それを目の当たりにするものたちへの詫びの台詞は思いつかなかった。
(彼もこんな気持ちだったのでしょうか)
シャーレは随分批判的に見ていた彼女たちの教導騎士のことを思い出した。
いざ自分がその立場に立ってみて初めてわかることというのはあるものだと実感する。
(もし、生き残れたら、あの朴念仁の争奪戦に参加してみてもいいかしら)
とてつもなく楽しい思いつきだった。
最後はタナあたりに譲ってあげるとしても、あのあたりの恋模様を引っ掻き回して見るのも楽しそうだ。
シャーレだって、容姿には十分に自信のある美少女なのだから、少しぐらい面白おかしく振舞ってもいいだろう。
そんなことを考えていたら、火竜が上空で旋回を始めた。
次に八の字を描いた時に、きっとくる。
死の突風が。
シャーレは弓を番えた。
ずっしりとした大地を足の裏で感じ取る。
防御を捨ててユニコーンから降りた理由はいくつかある。
騎乗したままでは長弓に最大限の力を伝えきれないということが一つ。
そのせいで初弾を外し、アンズを戦死させてしまった。
二度と外せない。
次の矢であの化け物を地に這わせる。
それにシャーレには切り札があった。
「さて、うまくのせられるかしら」
練気した〈気〉を指先から、弦へ、そして矢尻に流す。
〈気〉は肉体の内部のみに廻るものであり、その範囲で使い勝手のいい潜在的な力である。
本来は、それを武器にのせることなどできない。
だが、シャーレはある人物にほんのわずかな間だが師事し、〈気〉そのものを飛ばすことはできないとしても、〈気〉をこめた矢を射つ技術を学んでいた。
その技術は完全ではないとしても、〈気〉を纏って放たれた矢の破壊力は通常をはるかに上回る。
試しに練習してみたら、「君は才能があるな」と褒められた。
何百人に一人の才能だということだった。
それからしばらくは、王都では模擬戦もできず、一人だけでできるこの〈気〉による射撃だけが彼女の趣味となっていた。
その技術をついに披露することができる。
騎士としての高揚感もあった。
そして、なによりも―――
「みんなを焼いて殺したわね」
火竜がくるりと八文字を描いた。
ついに襲いかかる気になったのだ。
「アンズ隊長を食ったわね」
さっきとは違うやや遅い滑空。
餌をとるために牙を突き立てるのではなく、火を吐くための動作だった。
あの火竜は人間を舐めている。
二種類の攻撃方法があるというのなら、それを見せてしまえば対策を取られるのはあたりまえだが、そんなことは意に介してもいない。
人間を餌としか思っていないのだ。
だが、たとえ餌だとしても、その中に秘められた鋭い針が致命傷を与えないとは限らない。
痛い目にあって初めて知るがいい。
ただしその時には、あなたは無様に地上を這うただのブサイクなトカゲになっているでしょうけど。
真正面から突っ込んでくる火竜の先に空が見えた。
〈雷霧〉に遮られているはずの青い空が。
故郷のモノによく似た、透き通るような蒼穹が。
◇◆◇
火竜は一人突っ立ってこちらを見ている人間に対して、くちゃくちゃと口の中で精製していた毒液を吹き付けた。
邪魔なユニコーンに乗っていない。
だったら、あの人間はこんがりと焼きあがるはずだ。
事実、毒液は人間にぶっかかった。
同時に青い火の手があがる。
一丁終わり。
と、火竜が考えたとき、
自分の吐いた黒い毒液を貫いて何かが飛来し、彼の右目に信じられない激痛が走った。
視界が半分だけ閉ざされる。
思わず首をひねる。
自分が急降下中であり、そのような動きは自滅を招くだけだということに気づいたときは遅かった。
火竜は右肩から地面に激突し、羽根が叩きつけられて、無理な体勢で落ちたことからボキリと反対側にひねった。
肩と一本の翼の骨が折れたことに火竜は気づかなかった。
かつて毒ヨモギの溜め池に落とされて、苦くて熱い思いをしたことはあっても、彼は産まれてこのかた痛い思いをしたことはなかった。
鉄の皮膚と鋭い牙と、立派で強い翼がある限り、彼は無敵の幻獣であったからだ。
それなのにどうしたことだ。
右目が痛い。
何も見えない。
感じたことのない喪失感。
何が起きたのか、さっぱり理解できない。
左脚だけでなんとか身を起こしたとき、彼は見た。
彼の右目を奪ったものを。
黒焦げになり、生前の美貌は完全に失われていたが、弓を握って放った体勢のまますっと立ち尽くす騎士の姿を。
死してなお、迫り来る化け物を射落さんと仁王立ちする少女の亡骸を。
人間の誇りを愚かな怪物に見せつけるようにして、シャーレ・テレワトロは逝った……。




