慰問袋と団員たち
(……ハレ……イ……シ……くん)
今はもう聞くこともない、懐かしいアクセントで僕の名前を呼ぶ声がした。
(……ハ……イシ……くん……おはよう……)
思えば、その声だって懐かしい。
誰だったか、すぐに記憶の中からでてこないのがもどかしい。
優しい彼女の名前だというのに。
(セ……イ……)
ああ、誰か、僕の名前を呼んでくれ。
僕の本当の名前を。
もう自分自身でさえも思い出せない、その名前を。
(……セ……)
ただ、懐かしい僕の……
名前を……
……
…
◇
俺は目を覚ますと、目尻のあたりが目やにで強ばっていることに気がついた。
腕をこすりつけて目やにを落とす。
寝ているあいだにこぼした涙が乾いて、固まったのだろう。
どれぐらいの量の涙をこぼしていたのか、まったく見当もつかない。
(顔……洗わないと……)
身体を起こすと、胸のあたりにかすかに違和感があった。
昏倒した理由を思い出す。
〈脚長〉の矢を見事に食らったのだ。
あんな強烈な一撃をまともにくらって生きているのが、本来は不思議なぐらいだ。
顎をさすると、わずかにヒゲが生えていた。
この手触りだと、二日分ぐらいか……。
寝ている間に誰かがヒゲを剃っていてくれるはずもないし、つまりそれぐらい眠っていたというわけだ。
外はもう明るい。
一昼夜まるまる寝ていたとして、あれから二日は経っているのだろうな。
大きく伸びをしてみたが、さっきの違和感以外に異常はない。
「つくづく頑丈な肉体になっちまったな……」
昔は膝小僧に擦り傷ができただけで、ヒイヒイ言っていたというのに。
月日が経つというのは恐ろしいものだ。
そんなことを愚痴りながら、俺はベッドから抜け出た。
テーブルの上には水の入った洗面器とタオルが置いてあり、どうやら誰かが看護していてくれたらしい跡が残っていた。
俺のところは唯一の男子部屋なので、普通の団員は入室禁止であるから、おそらくは騎士ユギンか衛生班の誰かだろう。
十年前なら、オオタネアだったかもしれないが……。
あの当時はまだ女丈夫という感じではなかったし。
「……腹減ったな」
棚を探ると、干しりんごが入っていたので、とりあえずそれをぱくついた。
それから、汗を落としに浴室に向かう。
湯は湧いていないが、気温も暑かったので水だけでも構わないと思い、ざっと身体を冷やして表面だけでも汗を拭う。
すっきりとしたところでタオル巻き一丁で外に出ると、いつのまにか、室内に侵入者がいた。
侵入者というか、トレイに果物と水差しを乗せて、入ってきたばかりのタナがいた。
「―――セ、セシィ!」
「よお、おはよう。メシを持ってきてくれたのか?」
「は、はい、そろそろ目が覚めるだろうと閣下が仰られたので……」
「オオタネア……将軍が……」
あやうく昔を思い出して呼び捨てるところだった。
今、あいつは俺の上司にあたり、呼び捨てなどすると組織の示しがつかない。
……まあ、普段は適当にタメ口みたいな口をきいている俺の言えた義理ではないが。
「そうか、悪いな。ちょっと待っていてくれ。すぐに着替えるから」
「……外に出ていましょうか……?」
「別にいいよ。せっかく持ってきて貰って悪いが、腹が空いているのですぐに食堂に行くから、付き合ってくれよ」
「……はい」
俺はタナに構わず、着替えのためにクローゼットに近寄り、男性騎士用のシャツとパンツに身を包む。
動きやすいようにシャツは腕周りが膨らんでいて、袖口はピッチリという、一般市民のものとはデザインが異なる。
パンツも同様に裾が絞られていて、ソックスをその上から履くというスタイルだ。
こういう独特のスタイルなので、街を歩いていても、休暇中の騎士と兵士は服装で見破られてしまう。
ふとタナを見ると、上目遣いでこっちを見つめている。
おや、こいつはなぜ俺の着替えをじっと凝視しているのだろう。
男の着替えが珍しいのか……?
この段階で、ハタと気がついた。
ここは西方鎮守聖士女騎士団の宿舎で、男子禁制が原則なのだから、それも当たり前だということに。
慌てて、タナの方を見て、「す、すまん。無作法だった」と取り繕ったがもう遅い。
タナは顔を真っ赤にして、うつむきながら、膝を両手にあてて固まっていた。
上目遣いにこっちを見ているのは、視線を外したくても好奇心から外せなかったという感じだ。
貴族の出身で騎士一筋の彼女の経歴からすると、男の生着替えなどというものを見たことはほとんどないだろう。
そうなると、俺は「初心な女の子に自分の着替えをみせつけた変態」ということになるのか?
やばい、初対面のときの変質者呼ばわりが必ずしも冤罪ではなかったということになってしまう。
「わ、悪い、ちょっとぼうっとしてて、すまない」
俺は頭を下げたが、タナの赤面は収まらない。
それどころか、ガン見していた事実を俺に悟られたことを知って、ますます熟れたリンゴのように赤さを増していく。
「い、いえ、……殿方の裸を……勝手に……覗いたのは……わたくしですし……」
話し方にいつもの奔放さがなくなり、貴族の令嬢っぽくなる。
ああ、こいつは貴族のお嬢様でもあるんだよな。
俺が待て待てと手を上げて、近づこうとすると、
「は、早く着替えてくださぃ! 殿方の部屋で二人っきりになっている状況で、片方が半裸のままだとどんな噂を立てられるかしれたものではないのですよ! 急いでください! お願いします、わたくしが倒れる前に!」
「わ、わかった!」
俺は急いで残りの服を身につける。
多少、襟元が曲がっていても関係ない。
急がないと誤解される。
そうやって着替えが終わると、ようやくタナが俺を正面から見てくれるようになった。
ただ、まだ少しだけ頬が赤いが。
「……しかし、よく考えると、おまえがさっさとトレイを置いて、出ていけばよかったんじやないのか?」
「セ、セシィが待っていろといったんじゃないの! 私はあなたの言うとおりにしただけで……!」
「でもさぁ」
「男の人のくせに、言い訳をしないで!」
「……す、すまん」
これ以上、何かを言うとドツボにはまりそうなので、俺は黙ることにした。
さっきまで可愛いといえるぐらいに恥ずかしがっていたのに、今は仁王立ちになってぷりぷりと怒るタナをなだめきれないのだから仕方ない。
うーん、長い間、聖獣の森でユニコーンどもと暮らしていたせいで、人間への気遣いがなくなってしまっていたなあ。
反省しつつ、俺はタナを伴って外に出ることにした。
こいつと二人きりの状態が続くことは、あまり好ましいことではないと判断したこともある。
「じゃあ、食堂に行こうか」
「はい。……ところで、セシィ」
「なんだ」
「怪我の方はどうなの? もう治ったって本当? あんな大怪我が治る治癒魔法なんて聞いたことないけど。噂に聞く、大規模儀式でも無理なんじゃないの?」
確かに、傷を治す治癒魔法は、魔道でも発展の遅れている分野だ。
すでに〈雷霧〉によって滅んだバイロンから見て極西(この他にも近西という区分がある)の魔導王国においてならともかく、ここではちょっとした裂傷を治すのが精一杯だ。
王都の魔導院において金を積めば、致死傷の治癒も可能だが、それでも十人ほどの魔導師による儀式が必要とされるという。
一般の騎士が許されるレベルではない。
だからこその俺に対するタナの疑問なのだが。
とは言っても、真実を話すわけにはいかないので、俺はごまかすことにした。
なんの罪悪感もなく。
「……血は出たみたいだが、まあ、さっきみたらちょっと派手に切れた程度だったようだし。気絶したのだって矢傷の衝撃だろうな。もう大丈夫だ」
「見事に突き刺さっていたように見えたけど……」
「気のせいだろう。こうやって、俺がピンピンしているのがその証拠だ」
「……そうなの?」
「ああ、そうだ」
納得してくれたのかはわからないが、この疑問はそこで打ち切られた。
ただ、タナは先を行く俺の前に小走りで回り込み、一瞬、躊躇ってから、俺の瞳を正面から見据え、
「ありがとう、セシィ。私を助けてくれて。あなたが庇ってくれなかったら、多分、私が死んでいたと思う。―――だから、ありがとう」
わずかたりとも視線をそらさない、真正面からの感謝の気持ちがこもった「ありがとう」の言葉。
ごめんなさい、と謝られなかったことが心地よかった。
謝罪よりも感謝。
された方がより気持ち良いのはもちろん後者だろう。
この少女の真っ直ぐな精神性がうかがい知れてとても爽やかだ。
皆の中心に彼女が収まっていることの意味がよくわかった。
「そうか。俺もおまえが無事で良かったと、心から思うよ」
「えへへ」
照れながら、頭を掻いてまた赤面するタナ。
……ユニコーンのイェルは言った。
《この処女は我らの姫となる》と。
その意味はわからないが、確かにこの娘を中心にすれば、この騎士団はさらに強くなり輝きを増すことだろう。
太陽のような少女。
とても眩しかった。
薄暗い、俺のような男の心に差し込む光のように。
「あれ、なんだ?」
その時、珍しいものが視界に入ってきた。
西の入口の東屋で、二人の兵士が何やら作業していたのだ。
兵士は共に男であった。
俺以外の男の姿をここの宿舎近くで見ることは初めてだった。
何か、緊急事態でもおこったのか。
急いで駆け寄ろうとすると、タナが制した。
「……あれ、慰問袋の配送だよ」
「慰問袋?」
聞いたことがない単語だった。
なんだ、それは?
「セシィ、知らないの? 前線とか、城に篭っている騎士や兵士のために家族が送ってくれるプレゼントとか、逆に外に注文した買い物なんかを届けてくれるんだよ。普通は、輜重騎馬兵とかがやっている任務なんだけど、西方鎮守聖士女騎士団は特殊だから、警護役のおじさんたちが詰所で受け取って、ここまで持ってきてくれるんだ」
「へぇ」
「週に一回ぐらいなんだけど、みんな楽しみにしているんだ。そういえば、私も注文だしてたっけ。ちょっと見ていきなよ、セシィも」
「俺には関係ないぞ」
「いいから、いいから」
タナに手を引かれて東屋まで行くと、丸テーブルの上に荷物を丁寧に並べていた警護役がこちらを向く。
見知った顔だった。
この間、ここに来る途中で出会った三人のうちの一人―――タツガンだ。
野盗崩れみたいな顔をしているくせに、ものすごく大切そうに慰問品の入った袋を並べているところがとてもおかしい。
むしろ、おそるおそるといったところか。
産まれたての赤子をあやす祖父のようでもある。
「おお、ハーさんじゃねえか。かわい子ちゃんに連れられて、どうしたんだい?」
「ハーさん言うな」
「だってよ、あんた騎士のくせに敬称付けるの嫌がるし、でもとりあえず上司だし、仕方ねえじゃねえか。気にすんなよ。それに、そんなことを気にするタマでもねぇべ」
「まあ、な」
「タツガンおじさん、私に何か来ている? タナ・ユーカーだよ」
タナが、警護役タツガンをおそれることもなく話しかけた。
普通の女の子なら怖くて近寄れないレベルの面構えだったが、タナにしてみればどうということないのだろう。
忘れていたが、この娘は直近で〈手長〉と〈脚長〉を一匹づつ仕留めている実戦経験者なのだ。
そもそも、男性が苦手というタイプでもなさそうだし。
「おう、ちょっと待てや。……そっちにこの嬢ちゃんの名前の袋なかったか?」
「ユーカーって宛名の袋はあったような……」
もう一人は知らない顔の二十代ぐらいの男だったが、こっちも酷いご面相をしていた。
顔が上下に長すぎて馬面を通り越して、おもわず笑いを誘ってしまう感じだ。
近寄れなくはないが、夜道で突然であったりしたら噴飯ものだろう。
「あ、あった、あった。これでやすね」
「ありがとう、おじさん」
「……自分、まだ二十五歳なんですがね」
「ん、私、十六だから、充分におじさんだよ」
「さいでやすか……」
長面はちょっと泣きそうだった。
二十五歳なら俺より年下なんだがな……。
ご愁傷様。
「……おい、セザー。こっちのお方が、このまえ話したハーレイシー卿だ」
「あ、初めましてです。自分、警護役の端くれのセザーって言いやす。よろしくお引き回しの程を、ハーレイシー卿」
と、頭を下げられたので、俺も挨拶した。
「セスシス・ハーレイシーだ。……ハーさんでいいよ」
「ご親切にすいやせん」
面と向かうと、気を抜いた途端に笑いそうな顔だが、にじみ出る人の良さは拭いきれそうもない、好漢といった感じだ。
俺もタナも、この若者が気に入ってしまったようで、楽しくなって意味のない会話を続けていると、宿舎の方からわらわらと団員たちが集まってきた。
もともと本部に詰めていた文官騎士や従兵は駆け寄ってきて、それとは逆に俺の教え子たちの新米などは先任たちに遠慮しながら近づいてくる。
慣れているかいないかの差だろうが、それでも興味はあるらしい。
森のすぐそばにちょっとした街があるのだが、休暇でもそこに行く許可はなかなか降りないので、外部との接触に飢えている年頃の女の子達にとって、慰問品というものは宝石並みに魅力的に映るものなのかもしれない。
その反射的効果で、タツガンのおっさんとセザーが魅力的に映るかというと、そうでもないようだが……。
「おじさん、また怖い顔しているねー。そんなんじゃ、モテないよー」
「うるせえや、小娘ども。男の顔にケチつけんな」
「せっかく忠告してあげてんのにぃ。セザーおじさんも言ってあげなよ」
「じ、自分も騎士様たちの言うとおりだと思います、タツガンさん」
「そこで裏切るな。使えない下っ端め」
「あー、またセザーさん虐めてるー。タツさん、ひどいー」
「酷くねえっ!」
「タツさんサイテー!」
「やかましいわ、さっさと慰問袋持って帰れや!」
集団でやってきて姦しい小娘たちとやりあいながらも、言葉尻はあんなだが、タツガンのおっさんも楽しそうだ。
あまり接点のない警護役と警護される方だが、仲はなかなかに良好のようだ。
ここに来て日が浅い新米どもも、それなりに軽口をきながら自分の慰問袋を受け取っている。
「―――あ、ハーレイシー様。もう、動いて大丈夫なのでしょうか」
俺を様付けするということは、クゥか。
手には慰問袋を二つ抱えている。
片方は軍用の質素なものだが、もう一方はかなり高級そうだ。
彼女の注文品なのだろうが、もしかしてわりと金持ちの出身なのか。
クゥが俺に気づくと、他の新米どももやってこようとする。
ただでさえ狭い東屋がさらに狭くなるので、俺はとっとと退散するために、外に転がり出た。
すると、タツガンのおっさんが背中に声をかけてきた。
「ハーさん、今度の休みができたら、詰所に飲みに来るべ。待っているからよ!」
「おう、楽しみにしておくわ!」
「よろしくでやんす!」
団員の相手をしながら、飲みの誘いをしてくる二人に手を振って、俺はその場から離脱した。
が、タナをはじめとする新米どもは、なにがしたいのか、次々と俺の後をついてくる。
えーい、うっとおしい。
俺はさっさと食堂に向かった。
それでも、飯を食いながら、散々この間の魔物討伐について聞かれることになったのであるが……