正義と不義と
[第三者視点 王都バウマン 路上]
客のほとんどいない場末の飲み屋で旧友と杯を交わしていた一人の老人が、急に視線を厳しくし、目をすがめた。
「どうした、〈斧使い〉?」
随分と昔に名付けられた渾名を旧友が使う。
彼の騎士時代の渾名など、もう覚えているものもほとんどいない。
それだけ歳をとったということだ。
「こんな夜中に他人を尾行するものがいるというのは、相当に気にかかる内容だとは思わんか?」
「好みの女相手なら、儂もまだまだ現役で後を追うがね」
「ほざくな、色狂い。オレが見たのはどうみてもただの文官騎士よ。それのあとを追うというなら、そいつは衆道か?」
「いや、違うな。そういう場合は、闇討ちか、ヤサを突き止めるためだろう。で、なぜ、文官騎士だとわかる」
「オレの家に出入りしていたことのある奴だからだ」
「ふーん。おい、オヤジ、勘定はここに置くぞ」
そう言って、旧友は二人で飲み食いしたよりも多めの貨幣をテーブルに置いて、おもむろに立ち上がった。
まだ杯に残っていた麦酒を一気に飲み干し、立てかけておいた剣を取る。
「行こうや」
「……そうだな」
彼―――〈斧使い〉もそれに続く。
かつて愛用していた戦闘斧はもう持ち歩いていないが、腰に吊るせる大きさの手斧はいつも準備してある。
それだけあれば戦いには十分だ。
二人は店の外に出た。
満月が出ていたので、夜にしては大層明るかった。
「もうすぐ赤錆色の月の季節だな。半年に一度の」
「ああ、前のときは、例の同時〈雷霧〉の時だったか。あのときはさすがに肝を冷やしたわい」
「儂だって主のところの孫が気がかりだったから、同じ気分だったぞ。生きて帰ってきてくれたようで万々歳だな」
「ありがとよ。……それで、どうして後を追う気になったんだ?」
「バウマンでよからぬことが起きるかもしれぬのなら、それを未然に防ぐのも儂らの仕事だろうさ」
それだけで答えになると思っているのか、旧友はさっさと文官騎士とその尾行者が消えた通りを目指して歩き出す。
どちらの特徴も知らないのになんの迷いもない。
〈斧使い〉は肩をすくめ、友の後に続いた。
しばらく闇雲に進んでいると、悲鳴のような音が聞こえ、そちらに向けて老人たちは走り出す。
七十の年寄り二人とは思えぬ走力だった。
「騎士が街中を走るのは禁じられているだろうに」
「あれは民草に何かあったかと不安にさせないようにするための作法だ。今は夜で誰もおらんから構わん」
二人は全力で走りながら、軽口を飛ばす。
そして、大通りから少し離れた一画にたどり着いた時、一人の男が倒れふし、その傍らに数人の男たちが立っているのが見えた。
すかさず、〈斧使い〉がそのうちの一人を後ろから蹴り飛ばした。
倒れているのが例の文官騎士であり、背中から血を流していることが見て取れたからだった。
物盗りか、怨恨かは知らないが、大勢で一人を背中から襲うものに容赦はしない。
「だ、誰だ?」
返事はしない。
若い頃ならばともかく、こちらは老人が二人だ。
せっかく得た奇襲の利を失わせる真似はしない。
二人の元騎士は得物を振るい、特に問題もなく五人の男を地面に叩きのめした。
手斧の腹と柄、鞘を抜いていない剣で急所を殴られればたいていの男はもう立ち上がれない。
あっという間の出来事だった。
「さすがは〈斧使い〉。老いさらばえても往年の戦技は失われてはいないな」
「ぬかせ。……おい、しっかりしろ」
〈斧使い〉は文官騎士に声をかけた。
まだ息はあるが、背中の傷は致命傷のようだった。
息も絶え絶えだ。
「お主はもうすぐ死ぬ。何か、伝え残すことはあるか?」
「……あなた様は……? ああ、助かった。これで思い残すことなく死ねます」
「何を言っておる。家族や恋人への遺言はあるのか? オレが伝えておいてやる」
死ぬ寸前の文官騎士は首を振った。
「……王都の西……オコソの原で……〈妖帝国〉の魔……が儀式を……」
「なんだと?」
「都の防備を固めるよう……宰相閣……に……」
そこで文官騎士の最後の生命の灯火は消えた。
だが、必要な情報は伝えきれたのか、その顔には満足気な色が浮かんでいた。
死に向かう苦痛よりも、なすべきことを遂げた満足感が上回ったような顔だった。
「見事な死に様だったな。文官騎士などというものはただの事務職だと侮っていたわ」
「ああ、文官騎士だろうと、騎士だろうと、漢というものはどこにでもいるものだ」
「主の孫娘もそうだな」
「爺いとしては嫁の貰いてがなさそうで心配なんだが」
老人たちは文官騎士の遺体を優しく横たえてから、倒れている殺人者たちを見回す。
「こいつらはただの雇われだと思うが、起こして依頼者を吐かせるか?」
「それは騎士警察に任せるとしよう。オレはこの見事な漢の遺言を届けることにする」
「アテはあるのか?」
「オレを誰だと思っている?」
「それもそうだ」
旧友は肩をすくめた。
それから頭上の月を見上げ、
「王都に危機が迫っているということか……」
と、誰に言うまでもなくつぶやくのだった。
◇
「タナ、入るぞ」
俺が医療室を兼ねているハカリの部屋に入ると、タナはベッドの上に座りながら、新聞を読んでいた。
この世界は活版印刷が盛んで、意外とこういう読み物が印刷されて売られているのだ。
全体の識字率はそれほど高くないが、騎士身分やちょっとした富裕層の平民以外にも文字が読めるものは大勢いる。
その層を対象にして、頻繁に新聞が刷られているのだ。
庶民の情報収集の手段としてはかなり効果的であるらしい。
「あ、セシィ。お見舞いに来てくれたの?」
「毎日、顔を合わせているだろうが。おまえに伝言があって、その使者としてやってきたんだ。ところで、どうだ、足の方は?」
「右膝の靭帯が切れただけだからね。痛いけど、どうにかならないわけではないよ」
タナはカマナ奪還作戦で、戦闘中に落馬した際に右膝の全十字靭帯を断裂するという大怪我をしていた。
おかげで二ヶ月たった今でも走ることはできないし、歩くこともやや不自由だ。
「騎乗戦闘には別に問題ないし、ユニコーンの乗り手としては大丈夫なんだけどね。だから、次の作戦にも参加できるよ」
「馬鹿を言うな。まともに立って戦えない奴が、戦闘にでられるか。何かあっても、おまえは俺と留守番だ」
「えっ、二人で?」
「俺たちだけだ」
「そ、それは嬉しいけどさ。私とセシィの二人っきりかあ……。ちょっといいかも」
にまにまと嬉しそうに微笑む、タナ。
サボれるからといってそこまで楽しそうにならなくても。
「あ、レレやロランもいるから、寂しくはないぞ」
そう言うと、今度はいきなり憮然とした顔になる。
百面相が好きな奴だ。
「それで治りそうなのか、その右膝」
「……自然治癒だとまだかかりそう。ハカリちゃんに聞いたところによると、儀式魔導を使えば一週間ぐらいだって話。ただ、それだと前から言われているみたいに王都まで行かないとならないし、場合によっては二十日ぐらい、ここから離れないとならなくなるから断ったよ」
「そのぐらい構わないだろ。おまえは王都の産まれだし、実家に帰省する程度の気持ちでいればいいんじゃないか。何度も言っているが、王都できちんとした治療を受けてこいって」
「ダメだよ。何かあった時、私も戦わなくちゃならないんだから、前線から抜けるわけにはいかない」
さっき戦闘には出さないと言ったばかりなのに。
やはり留守番などする気はないのだ。
戦闘が好きという訳ではなく、ただ責任感が強いのだろうが。
「ただな、実際、ここでハカリの治療を受け続けるだけでは完治に時間がかかるし、おまえが万全になるためなら少し時間を使ってでも王都に行ったほうがいいと思うんだ。シノあたりが最近は伸びてきている。おまえの代わりにはならないが、穴埋め程度にはなる。ここは我慢して一度、王に戻ったらどうだ」
「イヤ。絶対にイヤ」
「おい、タナ。我が儘を言うなよ」
「私はここから離れない。ずっと、傍にいる」
珍しく聞き分けのないことを言いだした。
普段はもう少し理詰めな奴なのに、どういう訳か、ここを離れるということになると頑として譲らないのだ。
オオタネアに説得を頼んでも、「それは無理だろう。ライバルが多いんだから」と意味のわからないことを言われて断られた。
こういう風に怪我を騙し騙し行くのが一番治療に時間がかかると思うのだが、俺なんかでは年頃の女の子を説得するのは難事すぎる。
「ところで、この〈雷馬兵団〉って連中、腹が立つと思わない?」
「……そうだな」
タナが新聞を叩いて、こちらに突きつけた。
新聞の見出しには、『〈雷馬兵団〉、セイヤを襲う』とある。
セイヤはバイロンではなく、東隣の国にある城塞都市だ。
どうやら、〈雷馬兵団〉の奇襲によって、少なくない被害が出たらしい。
奴らはバイロンだけでなく、その他の国にも遠征し、多くの被害をもたらしている。
「軍隊相手ならまだいいけど、こいつら、ただの村とか隊商とかを無差別に襲うんだよ。人の命や生活をなんだと思っているのっ!」
タナの憤慨はもっともだ。
ただ、それが戦時でなければ。
〈雷霧〉との戦いが通常の意味での戦時でないことは確かだが、それでも〈雷霧〉対人という構図で考えれば、戦争に含まれることになる。
〈雷馬兵団〉の立ち位置がどういうものかは未だ不明だが、奴らの行動を戦理で計れば、それは攪乱・陽動以外のなにものでもない。
奴らは、たった百騎前後の少数で、最前線を飛び越え、後方を襲うことでその戦力を最大限に活かしているのだ。
必要な物資は略奪で奪いつつ、少しずつバイロンという大国を消耗させていくのが狙いだ。
それに対して、〈青銀の第二王国〉は効果的な対処をすることができない。
なぜなら、〈雷霧〉という直近の最悪の危機が常に身近にあるからだ。
少数の〈雷馬兵団〉を抑えるために大軍を動かすことは難しい。
「戦争、だからな。そういうやり方もあるんだろう」
「だからといって、罪もない人たちを踏みにじるやり方が認められるの?」
「おまえだって騎士の軍略の講座で、そういう戦い方は習っているだろう。戦争をしているんだ、綺麗事だけじゃすませられない」
タナは新聞を置いた。
俺を見る。
「セシィ、思ってもいないことを言わないで」
「なんだと?」
「貴方が人が死んだり、家が焼かれたり、誰かの平凡な生活が壊されたりすることを看過できる人じゃないのはよく知っているんだよ。そういう斜に構えた発言をして、自分をごまかさないで」
そんなつもりはなかったが、タナにはそう見えたのだろう。
訂正すべきか、そのまま肯定すべきか、俺は迷った。
「ねえ、セシィ。『正義』の反対語ってなんだと思う?」
唐突な質問だった。
だが、タナの真剣な表情に茶化す気にもならず、正義の反対を考えてみた。
すぐに浮かぶのは『正義の味方』という単語だ。
その反対だとすると、『悪の組織』や『悪の怪人』となるだろう。
つまり、『正義』の反対は『悪』だ。
「『悪』かな」
「ううん。『悪』の反対は『善』だよ。『正義』とは違う」
「そうなのか」
じゃあ、『正義』の逆は何だ?
「簡単だよ、『正義』の逆は『不義』。人のすべき正しい生き方を外れること」
なるほど、確かにその通りだ。
だが、それがどうしたというのだ。
「……セシィは義によって立っている人だよ。気持ち悪いくらいに」
「キモいとかいうな」
さすがに傷つく。
「人間はただ己の利得を最優先にして行動するものだし、私だって、そんな感じで生きている。でも、貴方は違う。自分の利益に無頓着。自分よりも大切なものばかり」
「そうか? 別にそういう気はないけど」
「うん、それは貴方が不死身に近いから。だから、多少の無理をしてもいいと思っている。でも、他の人からすればちょっとおかしいんだよ」
「まあ、そう見えても仕方ないか」
「セシィは人として正しい道を歩こうとして、その道は確かに『正義』で舗装された道なんだ。ただ、普通の人にはその道はただの荊棘の道。そこを歩くなんて辛くて出来たものじゃないのに、貴方は不死身だからということでひょいひょい進み、なんの苦しみもない。だから、貴方を理解するのは普通は難しんだけどね」
すでに話の着地点がみえない。
タナは何を言おうとしているのか。
「そんな、貴方が〈雷馬兵団〉の非道な行いを是とするはずがないじゃない。〈雷馬兵団〉のやり口に一番憤っているのはきっとセシィのはずなんだから」
ああ、そういうことか。
俺は合点がいった。
つまり、自分をごまかすなということか。
正直な話、俺は〈雷馬兵団〉を許さない。
俺たちの同胞を虫けらのように殺し、ロランやレレの生命を奪いかけ、そして罪なき民草を殺め続ける連中のことを。
だが、西方鎮守聖士女騎士団という組織の中にいる以上、あいつらを倒すために出かけるわけには行かない。
百人近い同胞を失い、帰る場所をなくして、心身ともに傷ついた騎士たちを放って自分だけで動くことはできない。
そのやり場のない怒りを、戦理だのなんだので誤魔化していたから、それをタナに見破られたということか。
「ああ、わかったよ。認める。俺は奴らを倒したい。今すぐにでも地獄の果てまで追いかけて行って、死んだ連中の仇討ちがしたい。不義を行なう外道どもを潰したい」
「……うん、そうなんだよ。それでいいんだ、セシィ」
あまり自分を隠してもいいことはないというわけだ
年下の女の子にそんなことを教わるとは俺も焼きが回ったものだ。
「そういえば、私に伝言って何?」
「あ、忘れてた」
俺は陛下によるタナの風呂ヘの誘いという伝言をそのまま言った。
「へ、陛下がっ! マ、マジでございますかっ! わ、わたくし、王族の、しかも国王陛下に拝謁したことなどございませんので、そ、その、光栄すぎて、眼がクラクラしていますっ!」
なんだか知らんが、興奮しすぎて昔の貴族令嬢時代にもどりかけているぞ。
国王陛下に会うなんてそんなに興奮するようなことなのか。
「セ、セシィは変な人だからわからないんだろうけど、この国の人間にとって、国王陛下にお言葉を賜るなんて一生に一度あるかないかの大事件なんだよっ! うわ、ユーカー家にとって最大の栄誉になるかもしれない。お父様に報告しないと。あと、今日という日を忘れないために石碑を作らないと……」
と、普段の奔放さはどこに消えたのか、わたわたするだけのタナを見守りながら、おれは口角がうずうずと上がっていくのを感じていた。
慌てふためく美少女というのは、実に可愛らしいものだ。
思わずニヤついてしまう。
「なに、笑ってんの、セシィっ! もう、嫌いっ!」
多少目を釣り上げて怒鳴ったくらいでは、今のおまえの可愛らしさが減ることはないぞ、タナ。




